470. ごめん、ごめん


 鼓膜を突き抜けるような耳鳴りと、得体のしれぬ恐怖が見えない矢のように身体のあちこちへ突き刺さる。はけ口の無い無言の圧迫感で今にも押し潰されそうな気分だった。


 すぐ目の前にある筈の姿を明確に認識することさえ危ぶまれる。輪郭はボヤけ、果たして当該の人物であるかも疑わしい。


 至極当然のこと。二人の姿をもはやシルエットでしか覚えていなかった。俺たちの間には、自信を持って断言出来るほどの関係性すら存在しないのだ。



「…………仕事は? どうしたんだよ」

「抜けて来たわ。どうしても来て欲しいって、文香ちゃんのお母さんに念押しされて……この人と落ち合ったのは偶々だけど」

「会場の入り口で偶然居合わせてな」


 それから暫く会話らしい会話は無かった。初対面にも劣る余所余所しさは、いったいどれだけの時間を掛けて構築されてしまったのか。頭から計算し直すのも億劫なほどで。



 コイツら、こんな声だったっけ。

 定まらない意志の最中、そんなことを考える。


 一人に至ってはつい先日電話で話したばかりだというのに、まるで覚えていなかった。こんなところから思い返さなければならない関係性に。たったそれだけのことさえ不明確な自分に、馬鹿みたいに腹が立って。



「…………で? 何しに来たんだよ?」


 条件反射とも違わない一言は、ただでさえ輪郭の定まらない彼らの表情を曇らせるに十分な代物であった。


 大人げない、あまりにも優しくない言葉であると分かっていた。けれど言わずにはいられなかった。俺にはその権利がある、必要なことだと声高々に主張したとして、誰に咎められるつもりも無かった。



「すぐにこちらの……財部さんからも連絡が来てね。アンタがプロがどうこうって言ってたときに番号を教えて貰っていたから……」


 すぐ隣の財部へ目をやる。さながら子どもの相手をするような、なんとも筆舌に尽くし難い無難な真面目顔だ。


 余計なことをしやがって。誰も望んじゃいないだろう。馬鹿な真似をしてくれた。どれだけ怒り任せに睨み付けたところで、彼の表情は一切変わらない。



 教えてくれ。

 俺はいったいどうすればいい。


 確かに言った。簡素な文章で、一応には伝えた。試合がある、暇なら観に来い。ああそうだ。俺がそう言ったんだ。


 期待なんかしていなかったんだ。ただ必要最低限、こればかりは宿題みたいなもので。どうせ来ないと、来るはずが無いと覚悟だけは決めて。



 なのに、なんだ。よりによってこんなときに。なにも全員揃っているときに顔を出さなくても良いだろう。そんな深刻げな装いで現れなくたって。


 今更なんだ。俺がアンタらに何を言って良いか分からないように。俺を前にして本気で困っているのは、アンタらも一緒だろ。



 だが、そう思っていたのは俺だけだった。

 先に口を開いたのは彼らの方で。



「……試合、観たわ」

「…………はっ?」

「わざわざ遠征のためにこっちまで戻って来たんでしょ? それもフットサル部だなんて……サッカーと似たようなものじゃない。まだプレーしているのね」


 観ていた? いつからだ?

 いったいどこに隠れていた?



「どうしても職場を抜けるのに時間が掛かって、着いた頃にはもう終わる直前だったわ……そうしたらユニフォームを着たアンタが試合に出ていて。財部さんに案内されて席に座ったら……すぐにゴールを決めたのよ」

「…………あ、そう……」

「驚いたわ。チームメイト、女の子ばかりじゃない。なのに試合にも勝ったんでしょう? ルールは良く分からないけどね……アンタが有望な選手だって話でしか聞いたことなかったけれど、本当にそうなんだって、それだけは分かったわ」


 なんだ? どういうことだ?

 お前、俺になにを言っているんだ?


 もしかして、褒めているのか? 俺のことを。



「あぁ、俺も驚いた。サッカーはもう辞めたものだと思っていたからな……ああやってユニフォームを着てプレーしているお前をもう一度見れるなんてな。それもゴールまで決めて、大活躍じゃないか」

「……なんだよ、それ……ッ」

「お前、あんな風に笑うんだな。知らなかったよ。良い友達に恵まれたんだな……

俺たちでは出来なかったことだ」


 やめろ。やめろ。

 そんな戯言を。


 突然現れて。今まで一度だって観にも来てくれなかったのに、こんなときばっかり甘いこと言いやがって。馬鹿にしているのか。


 これで満足したつもりか。すべて無かったことにしたつもりか。手を掴んだ気でいるのか。ふざけるのも大概にしろ。この程度の施しで解決すると思ったら大間違いだ。こんな、こんなことだけで――――



「…………お気楽なモンだよな。偶に顔出して、お手本通りに台詞吐いとけばどうにかなるって、そう思ってんだろ?」

「……お前……」

「結局いつも同じなんだよ……誘われたからなんだ? 念押しされたからなんだよ? そこにお前らの意思はあるのか? 無いよな、あるわけないよな……ッ?」



 違う。違う。違う。


 そんなことを言うために、俺の口は付いているのではない。もっと他に適した台詞があるだろう。今なら、今の俺なら言えるって、気付いているだろ。



 俺が伝えたかったのは、間違ってもこんなことじゃない。ずっと憧れた、認め続けて来た、どうしても言いたかったことが、一つあるだろう!


 なのにどうして。

 認められないんだ。



「遅いんだよ……なんもかんも遅せえんだよ……! その程度の意思でフラっと出て来るんじゃねえよ……やれんなら、やれんならさっさとやれやッ…………なんで今なんだよ……なんでもっと、早く来てくれなかったんだよ……ッ!」


 ゴールシーンしか見て貰えなかったから? 違う、そんな馬鹿なことで怒っているのではない。



 もっと、もっと早く。あの時も、今日みたいに。これくらい近いところで、俺のことを見てくれていたら。


 応援なんかしなくていい。ルールなんて覚えなくていい。片手間で、仕事の合間だって良かった。最悪観に来れなくても、俺が家へ帰ってその度に、お帰りって。お疲れさまって。今日も頑張ったなって。ただそれだけで良かったのに。



 それすら叶わないから、こんなことになったのに。

 いきなり全部押し付けんじゃねえよ。



 甘えたくなるだろ。

 期待したくなるだろ。

 もっと、欲しくなるだろ。



 ああ、そうか。

 俺、ずっと待っていたんだな。


 必要無い、無駄なモノだと決めつけて。何もかも諦めて。すべて否定して。逃げ続けてきたのは、俺の方だったのか。



「…………ごめん、ごめん…………いや、違う、違うんだよ。俺じゃねえんだよ、どう考えても謝るの俺じゃねえんだよ……でもこれしか言えねえ、出て来ねえんだよ……ッ!」

「…………陽翔……っ」

「お前……」

「馬鹿みてえだろ……頭がおかしいんだよ、意味分かんねえ……分かるか? ほら見ろよ、お前らが見たかった、笑顔ってやつだよ。もっと近くで見てみろ。こんな馬鹿面よっぽどや…………なぁ、なんなんだよ。教えろ、偶には親らしくしてみろよ。こんなにムカついて、死ぬほど苛々してんのに……笑えて来るんだよ……ッ!!」



 涙が止まらない。喜怒哀楽がなに一つまともに作用しないなか、ただそれだけが確かだった。



 早く言え。楽になっちまえ。

 誰もが持っているモノを、ただ掴み直すだけだ。


 甘えるなんて、期待するなんて。

 そんな葛藤さえ、本当は邪魔な筈なんだ。



 俺はずっと。アンタらと。

 ただ、当たり前の関係に。


 家族になりたかったんだ。



 それだけのことを、どうして。

 どうして、言えなかったんだろうな――――


 

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