391. もう知ーらなーい


(……めっちゃいい匂いする…………)


 浴室に充満するフローラルな香りに神経回路を焼かれ、不埒な妄想ごと洗い流そうと髪の毛まで湯船に浸かる。ムンムンと立ち込める熱気も手を貸し、文字通り頭を冷やすには温度が高すぎた。



 最後に時計を確認した頃には11時を回っていた。サンタクロースの到来を待ち焦がれる、良い子で居られる時間はとっくに過ぎ去っている。


 浴室の外からは、相変わらず騒がしい彼女たちの話し声が聞こえて来た。やっぱりマグカップ、渡すべきじゃなかったかな。とんでもなく悪い子たちだよ貴様ら。



「……なんも変わらへんな……」


 意味深とまではいかないまでも、様々な感情が織り交ざった末、苦し紛れの一言ではあった。



 俺が生まれるよりもずっと前に建てられた家だから、経年劣化も馬鹿には出来ない。ノノが掃除してくれたおかげでそれなりに見れるようにはなったが、あちこちに黒いカビも目立つ。


 彼女たちが持ち込んだのだろう、男の俺にはまるで縁の無い色とりどりのシャンプーの香りが、辛うじて生活感というか、人間臭さを保っている。そんな淀みのある空間。



 多少の遠慮は求めたいところだが、彼女たちがこの家へもたらしたモノはあまりに大きい。

 自室を物置部屋に作り替えられた言い表しようの無い悲しみも、5人に囲まれているうちはすっかり忘れてしまうことが出来た。


 パークで作られた新しい思い出も含め、全員でこの街に帰って来たのは、やはり正解だったのかもしれない。少し環境が異なるだけで、いつも通りのアイツらが居る分には他になにも必要無い。



 なんて、感傷に浸る雰囲気でも無いか。

 浸るのはお湯だけってな。つまんね。



(にしてもうるせえな)


 やたらと甲高い叫び声は、瑞希かノノか。本当に疲れ知らずだよなぁアイツら……どこにそんな元気が詰まっているのか。


 出来るだけ長風呂してくるよう愛莉には念を押されたが、もう結構長いこと入っているし、これくらいで良いだろう。のぼせても困るし。


 普段はシャワーだけで済ませているから、久しぶりにゆっくり湯船に浸かれて悪くない時間だった。確か家の近くに銭湯があったから、今度行ってみようかな。



「ったく、そろそろ静かにせえよな」


 地味なグレーのスウェットに着替えて、生乾きの無造作な髪の毛を乱雑にタオルで撫で回し、彼女たちの待つリビングへ戻る。


 明日も市内で観光の予定があるし、明後日の練習試合に向けて身体も動かさなくてはならない。あまり夜更かしされても困る。



「あ、お帰りですセンパイ」

「まだ起きてたのかよ。寝ろ」

「いやぁ、それなんですけどぉ……」


 出迎えてくれたのは良いとして、妙に歯切れの悪いノノ。奥には5人分の布団が既に並べられていて、準備だけは出来ているようだが。


 客室のようなものはこの家には用意されていないので、そのままリビングに布団を並べて寝るしか無いのだ。


 そうだよな。俺の部屋、もう使い物にならねえんだよな。どうしよう。どこで寝ればいいんだ。まさかコイツらと肩並べてってわけにもいかねえし。困った。



「あー。ハルだ」

「瑞希? お前なんか顔赤くね?」

「しょんなおろないお?」


 いやいや。呂律回ってないし。


 流石にパジャマは着てくれたようだが、風呂上がりに増して頬を赤く紅潮させた彼女は、布団の上に座りながら汐らしく身体を揺らしている。


 胸元も若干はだけている。暑そうに襟元を摘まんでパタパタと仰ぐものだから、余計な部分が見えてしまいそうで実に危なっかしい。



「え、なに? なんかあったんか?」

「いやぁ……色々とありすぎてですねぇっ……」

「なんやハッキリせんな」

「ノノももう疲れてしまいました……」

「ああん……? おい愛莉、説明しろ」


 真面目に話をするつもりも無いのか、あからさまに視線を逸らし微妙な距離感を保ち続けるノノ。なにがどうしたってんだ。あれだけテンション高かったのに。


 で、我らがフットサル部の防波堤でもある愛莉だが。こちらもリビングに普通に居るには居るんだけれども、リアクションが薄い。というか返事してくれない。



「おい無視すんな。泣くぞ」

「ひきュ……うるさいわねっ、ひっく、ハルトのくせに、命令すんなしっ……!」


 は? なに? どした急に?


 明らかに様子がおかしい……瑞希に負けず劣らぬ顔が真っ赤だし、しゃっくり交じりで呂律も回っていない。まるで酔っぱらってしまったかのような、不可解な挙動だ…………酔っぱらった?



「まさかお前ら……」

「そのまさかなんですよセンパぁイ……瑞希センパイがそれ開けちゃって……」


 ノノが指差したテーブルの上には、見覚えが無いようでちょっとだけある、高級そうなラベルで加工されたワインボトルが。


 間違いない。

 あれは酒だ。普通に酒だ。


 え、なに? 本当に飲んだの?

 そんな露骨過ぎるお約束ある?



「お、おい……ノノは飲んでねえよな?」

「ちゃんと止めましたよ。ノノと琴音センパイは一滴たりとも飲んでません……まぁちょっと空気に当てられた感はありますけど。いやでも凄いですね。センパイが帰ってきた途端静かになりましたよ。さっきまであんなにバカ騒ぎだったのに」

「お前が言っても説得力に欠けるところではあるが……一応、落ち着いてはいるんだな?」

「の、ようですねえ」


 滲み出る疲労の原因はそれか。普段通りの連中ならいざ知らず、アルコールの入った人間の世話など流石のノノでも管轄外なのだろう。逆になんでお前が冷静なんだという疑問は残るが。



「てゆーか、マジ気を付けてくださいセンパイ。あの人が飛び抜けてるおかげで、ここにいる皆さんまだマシに見えますから」

「……はっ? どゆこと?」

「今トイレ行ってるんで……あっ、帰って来た」


 ノノの見つめる先には、手洗いから帰って来た比奈と琴音の姿が。


 えぇ、比奈、お前。もう千鳥足じゃん。

 顔真っ赤だし、すっごいニコニコしてるし。



「あー、陽翔くんだー♪」

「ううぉっ!?」

「比奈っ! なにしてるんですか!」


 駆け足でこちらへ近付いて来た比奈は、そのまま両手を押し広げて俺を布団へ突き飛ばす。あまりに突然の出来事に抵抗も出来ず、そのまま寝転ぶ形となった。


 後ろから着いて来た琴音は、比奈の介護をしていたのだろうか。しかし明らかに後手を踏んでいる。



「んー! いい匂い♪ 陽翔くんはねー、いっつもフェロモンがぶわーって、ぶわーってすごいんだよぉー? お風呂上がりだともぉーっとすごーい♪」

「いや、ちょ、酒くさッ!」

「あっ! 女の子にくさいって言った! ひどいひどいひどいっ! もうおこったもん! ばーかばーかばーか!」

「えぇーっ…………」


 出来上がっている。

 完全に、出来上がっている。



 そりゃ人間アルコールには抗えない生物だろうし、少しの量で性格が変わったりおおらかになってしまう奴もきっと居るのだろうけれど。


 お前かよさっきから騒いでたの。

 よりによって、なんで比奈なんだよ。


 しかも酔うほど悪化させるタイプとか。

 まだ豹変された方が良かったよ。



「どーーん!!」

「いったッッ!!」


 転げ落ちるようにバランスを崩し、そのまま俺へ馬乗りになる。先ほどまで漂わせていた甘いシャンプーの匂いはどこにも無い。ただただ酒臭い。



「匂い嗅ぐなっ! やめろッ!」

「すんすんっ…………はぁーっ……やっぱり陽翔くんの匂い好きすぎる……頭おかしくなっちゃいそうだよお……っ」


 おかしくなってるよ。既に。

 中枢になんらかの影響が出てるよ。



「ねえ、もうがまんできないっ。キスしよ?」

「落ち着けって! 全員見てんだろうがッ!」

「お酒の匂いするけど、がまんしてね?」

「ちょっ、待っ――――」


 女の子の軽い体重とはいえ、手首をガッチリと掴まれ完全に拘束されてしまっては抵抗も出来ない。瞬く間に距離を詰められ、あっさりと唇を奪われてしまう。



「あー。ノノもう知ーらなーい……」

「むぐ!? ふぶ、ほごふぐっ! ほふぶほッ!!(ノノ!? 待て、どこ行くっ! 助けろッ!!)」

「ぷはぁっ! もうっ、だめ! しゅーちゅー!」

「んむむむっむっっ!?」

「おトイレ行ってきま~す……」


 頼みの綱に裏切れ、いよいよ風前の灯火。


 邪魔者も居なくなったと言わんばかりに比奈の攻撃は激しさを増す。口内は唾液でビチャビチャに侵食され、鼻孔には香りの強いウイスキーの風味が広がった。


 いや、冷静に分析してる場合かッ!

 死ぬッ! 息出来んッ! 死ぬッ!!



「ひゃあっ! もう、瑞希ちゃん! 邪魔しちゃだめ! 今はわたしと陽翔くんの時間なの! じゅんばんまもって!」

「まーまー。そうあせらんのよひーにゃん」


 と思ったらまさかの助け舟。

 比奈に後ろから抱き着いて止めに掛かる瑞希。



 ……いやちょっと待てよ。


 コイツも呂律回ってなかったよな?

 ちゃんと止める気あるよな? そうだよな? 



「……いやあ。人のディープキスって間近で見るとこっちがハズイんな。知らんかったわ」

「……お、おい、瑞希……っ?」

「つまり自分がすれば恥ずかしくないわけよ」

「きゃっ!?」


 結構な強さで比奈を布団へ押し転がし、代わりに俺の身体へ跨る瑞希。金髪の奥から覗くエキゾチックな瞳が、盲目にこちらを見つめ続けている。



「……冷静になれ? なっ?」

「あたしはずっとれーせーだぞっ」

「いやお前いつもそんな喋り方じゃな」

「いただきまーす☆」



 この流れちょっと駄目でしょ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る