373. 不味いな、非常に不味い
再三のフォローも実りようやく落ち着きを取り戻した香苗さんだったが、今度は互いに頭を下げ続ける終わりの見えない謝罪大会が始まる。
こちらの非礼も十分に自覚するところであったわけだから、呆れ顔の琴音に「いい加減にしてください。日が暮れます。もう暮れてます」とタオルを投げ入れられた頃には、文字通りとっくに遅い時間になってしまっていた。
お茶を淹れ直してくると言い残し、琴音は席を離れダイニングへと向かう。
「何度もしつこいようだけど……本当にごめんなさい、廣瀬くん」
「こっちこそホンマに……もう、あれです。おあいこなんで。辞めましょう。また琴音に怒られます」
「それもそうね…………感謝しているわ、廣瀬くん。貴方が正面からぶつかって来てくれたおかげで、私もあの子と向き合う勇気が持てたって、そう思うわ」
「……なら、良かったです」
改めて一対一で向き合う香苗さん。
憑き物の取れた穏やかな笑みを溢す。
笑った顔までそっくりだな。身長は香苗さんの方がだいぶ高いけれど、琴音が成長したら、きっとこんな感じになるんだろうか。
「ハッとしたわ。私もあの人も、あの子の親というだけで胡坐を搔いていたのよ。表情に出ない分、しっかり話を聞いてあげないとって、昔からそう思っていたのに……いつの間にか忘れていたわ」
「まぁ、意外と分かりやすいすけどね」
「ええ。でもあんなに怒った顔を見るのは私も初めて…………まだまだ、足りないことが多いわ。貴方が琴音のことを理解しようとしてくれたように、私たちも努力していかないと、そうでしょう?」
もう心配は要らないだろう。
単なる親子というだけで成り立っていた彼女らの関係も、これを機に改善されていくはずだ。別に家族だからという特別な理由でもない。人と人との関係において当たり前のこと。
互いに尊重し合うことが出来れば、血の繋がりも縁の深さも二の次。少なくともこの家族には、それを叶えるだけのモノが十分に揃っていると思う。
(……棚上げにしとる場合ちゃうわ、ホンマ)
どの面下げて講釈垂れているのかと、自己批判に走りたくもなった。人の問題にズケズケ踏み込んでおいて、自分のことはいつまで経ってもほったらかしのまま。
問題を問題とすら思っていないのだから。
俺がどう動いたって仕方ない。
先に動くのはアイツらだろ。
無責任な主張が泡のように溢れて、脳裏に弾けていく。
願わくば、そのまま遠くへ飛んで行ってほしい。
これだけの出来事を目の当たりにして、なんとも思わないほど能天気ではいられない。
「廣瀬くん。一つ聞いてもいいかしら」
「……えっ。あ、はい。なんですか?」
「学校での琴音って、その、どんな感じなのかしら。ごめんなさい、仮にも母親にこんなこと聞かれるの、嫌でしょうけれど……」
消極的な態度の裏には、ここ最近の琴音がどのように過ごしているか把握出来ていないというある種の引け目が大いに感じ取れる。
やはり、見掛けによらないな。筋金入りの教育家だと琴音の話からしても勝手に決め込んでいたが。どこか不安げな面持ちは、親が子を心配するソレそのもので。
本当に些細なすれ違いだったわけだ。今までは名ばかりの親でしかなかったのかもしれない。けれど、香苗さんはしっかりと琴音の母ではあると、そう思った。
「……あんな感じですよ、学校でも。特別明るかったり、暗かったりとか、そういうのは無いです。あのままの琴音がみんなに受け入れられていて、俺たちにとって必要な存在です」
「…………そう。なら、良かったわ。ああ見えてちょっと抜けている子だから、あの子の相手は大変でしょうけれど……これからも宜しくね。廣瀬くん」
悪戯っぽく笑う香苗さんに、俺は愛想笑いで返すしかなかった。設定上とはいえ、香苗さんからしたら俺は疑いようも無く琴音の恋人であるわけで。
わだかまりの解けた今ならネタバレしてしまっても問題無いかとは思ったが、あれだけ豪快に啖呵を切った手前、真実を明かすにも躊躇われる。
取りあえず、いいか。
言ったことすべてが嘘ってわけでもないし。
「それで、どっちからなの?」
「……はい?」
「貴方と琴音、どっちから告白したの?」
「…………え?」
「ああ、ごめんなさい。ほら、さっきも言ったでしょう? 私とあの人はお見合い結婚だし、自分もそういう経験が無かったから……どうやって交際にまで至ったのか、気になっちゃって。それに琴音もあの性格でしょう?」
「…………えーーっとですね……」
つい数時間前までの冷徹な態度は微塵も感じ取れない。さながら恋バナに花を咲かせるうら若き乙女の如く、瞳を輝かせる香苗さんであった。
不味いな、非常に不味い。
あくまで彼氏彼女という設定だけで、その辺りの作り込みはだいぶ浅いのだ。あとで琴音に聞かれてもどうせ話が合わないだろうし。
「お、俺から、っすかね……?」
「どんな風に告白したの?」
「……今日からお前は俺の彼女だ、みたいな」
「まあっ。ちょっと強引な感じなのね。意外だわ……そういうのが好きなのかしら、あの子」
間違ったことは言っていない。
この設定を持ちかけたのは俺。
言い方としてもそこまで語弊は無い。
いやしかし、それにしても凄い変わりようだな香苗さん。目が。目が純粋過ぎる。少女マンガの恋愛に憧れる中学生のソレだぞ。
振舞いと話を聞く限り、箱入りで育ったという感じではあるけれど。ある意味琴音の母親として満点ではあるのか。うーん、分からん……。
「それと、もう一つ良い? ごめんなさい質問攻めしてしまって。廣瀬くん、将来どんな仕事に就くかはもう決まっているの?」
「えっ…………あー……こ、公務員、とか……?」
「あら、堅実なのね。でもこのご時世だし、良い判断だと思うわ。琴音も大学を出て就職するつもりだろうし、生活は安定するんじゃないかしら」
「……ん? 生活?」
「子どもは何人くらいで考えているの?」
「こ、子ども……? いや、それは……っ」
「もしかして、あんまり乗り気じゃないかしら。でもそれは困るわ。私やあの人も孫の顔が見てみたいっていう気持ちもゼロじゃないし……」
「……んん?」
なんか、話飛んだな。一気に。
彼氏とはいえここまで聞くか普通。
流石にそんなところまで設定作ってないぞ。
「それに私たちはともかく、私より上の代がなんて言うか。家柄だけが取り柄みたいな家系なんだから、子どもが居ないとなるとかなり口煩く言われると思うわよ?」
「…………は、はぁ……っ」
「そうそう。こうやって廣瀬くんから家に来てくれたんだから、私たちもご挨拶に伺わないと……あの子、廣瀬くんのご両親に何か粗相は無かった?」
「……いや、ウチには来てなっ」
「あら、ご挨拶もまだなの? いけないわ廣瀬くん。貴方や貴方のご家族は良くても、楠美家の長女としてお相手のご実家を蔑ろにするような真似は出来ないもの。なるべく早くご挨拶に上がらないと……」
「あの、香苗さん、ちょっと待っ」
「琴音。こっちに来なさいっ」
お喋りが止まらない様子の香苗さん。
少し強めの口調でダイニングの琴音を呼び寄せる。
「どうされましたか。お茶なら出来ましたが」
「ちょっと、琴音。貴方、廣瀬くんのご両親へご挨拶に伺ってないって本当? 恥ずかしい気持ちも分かるけれど、そこはしっかりしないと駄目よ。最低限の礼節でしょう?」
「…………はい?」
「あちら側のご都合もあるけれど、なるべく早く予定を立てないといけないわ。もう交際を始めてそれなりに経っているんでしょう? 将来のこともあるんだから。あの人にも早く伝えないと……」
「……あの、なんの話ですか?」
眉をひん曲げ何がなんだかという様子の琴音。二人揃って香苗さんのペースに着いて行けていない。
いや、分かる。だいたい分かっている。
恐らく香苗さんは、それこそ恋愛経験があまり無いものだから、自分たちのケースと俺たちの状況をごっちゃにしてしまっている。
だから、それ以上は、言うな。
琴音、絶対に驚くから。
お茶ひっくり返しちゃうから。
「……どうしたの? 二人とも」
「いや、その、香苗さん。さっきから話が飛躍していると言いますか、俺たちまだ高校生なんで、流石にそこまでまだ考えてな……」
「でも、交際はしているんでしょう? それで、琴音。貴方はいつ頃が理想的なの? 大学を出て二、三年は仕事に専念するとしても、あまり遅くなってしまうのも良くないと思うわ」
「…………あの、なにがですか?」
「なにって……」
やや困惑気味の香苗さん。
いや、待って。
そこから先は駄目だって。
「結婚、するんでしょう?」
ああ。
高そうな急須が。
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