374. 誰がどう見ても
「なあ、機嫌直せって。おい琴音っ」
「…………知りません……っ」
「知らんもなんもあらへんやろ」
「知らないったら知らないんです……っ!」
数メートル先を早足でツカツカと歩く琴音。
意外にも早くてなかなか追い付けない。
師走の近付いた寒々しい夜道を先行く彼女は、母親譲りの黒髪も相まってそのまま暗闇へと溶け込んで行ってしまいそうで。
道端の車両が放つハザードランプにも劣らず点滅する真っ赤な頬と、相反するように長袖の先からキラリと光り輝く真っ白な指先のコントラスト。
厚手のグレーのコートを纏っても尚、華奢で小柄なシルエットは、目印にしてはあまりに頼りない。
香苗さんの盛大な勘違い、もとい誤解をどうにか解決したあとも、琴音の調子は一向に元に戻る気配が無かった。
正確に言えば、解釈の違いを説明したところで香苗さん相手にはそれほど意味を成さなかった。どうやらあの人は男女交際イコール実質的な婚約と本気で考えているらしい。
琴音がどれだけ必死に否定しようとも、香苗さんからの将来設計に関する追及は止まなかった。
改めて、一度思い込んだらどこか盲目的なところ、実に親子らしいというか。疑いようの無い血の濃さを感じさせる。大変だった。神経千切れるかと思った。
あまり留まらせるのも申し訳ないからと、暖色漂う自宅の雰囲気に痺れを切らした琴音に引き連れられ、楠美家を後にし最寄りの上大塚駅へと徒歩で向かう最中である。
その一方で彼女は、玄関から俺を追い出すまではしっかり手を握ってくれていたというのに、それ以降は歩幅どころか視線さえ合わせようとしない。
香苗さんからの予想だにしない追及に心労を認めてしまったのか。或いは高そうな急須を割ってしまったことに罪悪感を覚えているのか。後者ならまだ良い。良かったのに。
「あんま真に受けんなよ……って、俺が言うのもアレやけど。お前と一緒で、思い込み激しいタイプなんはだいたい分かったから。あとでいくらでも言い訳しろよ。会話の練習にゃちょうどええ機会やろ」
「…………そう言われましても」
「今更どう話せば、とか言わねえよな」
「それは……平気です、けど」
ようやく立ち止まったとはいえ、居心地の悪そうな様子に変わりは無い。口元をコートの襟で隠し、滲むようなジト目を飛ばす。
「……貴方も貴方です」
「は? オレ?」
「抵抗が無さ過ぎます。もっと言えば、怖いもの知らずです。知らなさ過ぎです」
「どういうこっちゃ」
「……貴方が母を罵倒し始めたとき、どうなることかと思いました。一度敵とみなせば容赦無い方なんですから、本当に……」
「……まぁ、言い過ぎたわ。悪かった」
「…………面白いものも見させて頂いたので、五分五分と言ったところですが」
「俺が泣かせたみたいに言うなや」
「それもそれで興味深いものでしたが……」
思わせぶりに視線を外し深く息を吐く。
まるで釣り合わない二つの影が並び立った。
「……驚きました。多少なりとも心境の変化があったのかは分かりませんが、貴方にあれほどまで関心を見せるなんて。あの比奈でさえ、邪険に扱って来たような人が」
「…………確かにな」
「彼氏や恋人というのは、それほど特別なものなのでしょうか。そうまでしなければ態度を変えないあの人の在り方も、ある意味で腹が立ちますが……」
「んだよ。まだ喧嘩する気か?」
「そうじゃないですけど…………また違うベクトルで、と言ったところです。それほど深刻なものではないので、ご安心を」
「あっそ」
琴音が新たに抱き始めた疑念は、実のところもう答えが出ているのかもしれない。ただ彼女が結論に至るまで、必要な要素が多過ぎるというだけで。
理由は二つある。
と言ってもふんわりした回答だが。
香苗さんが最終的に俺を受け入れてくれたのは、俺が俺だったからというわけではなく。ただ単に「恋人」という、彼女の在り方とおおよそ一致しない異分子である故。
これに関しては、比奈を連れて来なくて正解だった。恐らく二人掛かりでの説得では「役に立たない無意味な交友の縺れ」としか扱ってくれなかったと思うのだ。
結果論にはなってしまうが、設定上とはいえ恋人役の俺があれだけ感情的になったことで、香苗さんの抱えていたストレスやコンプレックスにもプラスへ作用したのだろう。これが二つ目。
そしてそれは、香苗さんだけの問題だけでもなく。
「単純な話や。母親のプライドってやつ」
「……どういうことですか?」
「お前がどう受け止めていたかはさておき、あの人にとっては今までの接し方が、お前に向ける最大級の愛情だったんだよ。だいぶ屈折してたどころか、半分間違え掛けてたかも分からんけどな」
「…………そうだったかもしれませんね」
「でも、気付いた。少なくとも今この段階では、自分より目の前のよう分からん野暮ったい男の方が琴音を理解している。このままじゃ本当にこの家から出て行く……危機感っつった方が分かりやすいか」
ケツに火が付いたというわけだ。香苗さんとて琴音のことを蔑ろにしていたわけではあるまい。その方向性が間違えているという可能性にもずっと気付いていて。
で、自分の考えや家柄、ポリシーよりも琴音のことを優先して考えられるようになって。ようやく折り合いが付いた。ちゃんと琴音のことを、見てあげられるようになったと。
ならば後はもう、流れるままだ。
無理をせずとも気の向く方へ。
「琴音がちゃんと伝えたおかげや」
「私が、ですか?」
「親より俺の方が、なんて言い出した日にはそのまま絶縁かも分からんかったけどな。でもお前やって、両親と関係やり直したい気持ちも、今までの感謝の思いも、しっかり持っとるんやろ」
「…………それは、はい」
「なら十分や。お互いが分かり合いたいっつう気持ちが通じ合ったんなら、これからはどうにでもなる。俺が余計な茶々入れんでもな」
「…………なら、良いんですけど」
気恥ずかしそうに鼻を鳴らし目線を逸らす。
難しい話なのは百も承知だ。
でもお前だって、それだけサボってきたこと。
譲ってもらうだけでは意味が無い。
互いが歩み寄らないことには、始まらない関係だ。
それは赤の他人でも。
家族でも変わらない。
「父親は? 流石に帰って来るんだろ」
「……恐らく、今日中には」
「なら同じこと伝えてやれ。まったく同じとは限らんけど、そう悪い方向には転がらねえよ」
「…………試してはみます。一応、ですけど」
素直に分かりましたの一言を言えないのか。
まぁでも、こんなところも琴音らしさか。
ちゃっかり嬉しそうな顔してんじゃねえよ。
「ん。もう駅か」
「近いですから」
歩道橋を渡り一つ先の信号まで歩くと、上大塚駅の西口改札が見える。日曜の夜ということもあって、徐々に人通りは増えて来た。
ここで琴音ともお別れか。
明日になれば学校で会えるとはいえ。
24時間ちょっと、激動の一日だったな。家出騒動から始まって、二人で夜を明かして、恋人の振りをして、母親と正面から向き合って。
正直、名残惜しく感じている。
二人で並んで歩くこの時間も。
たった一日の奇妙な関係も。
なんなら今日もこのまま泊まっていくか。なんて浮ついた言葉が喉の先まで出て来て、ギリギリのところで思い留まった。
「…………比奈に報告しないといけませんね」
「せやな。心配しとったで」
「でしょうね。貴方に電話するくらいですから」
「……は? なに、聞いてたんお前」
「寝る直前だったので、ボンヤリとですが」
どうやら昨晩の通話を聞かれていたらしい。
だからどうというわけではないが、少しだけ引っ掛かった。それは比奈と交わした会話の内容だったり、妙に浮かない彼女の表情だったりが原因で。
「…………んだよその不満顔」
「別に、不満ではないです」
「ならなんだよ」
「なんでもないですっ…………ただ、私の知らないところで随分仲良さそうにしているなと。私の話をしているようで、案外そうでもないなと、それだけです」
「ちゃっかり全部聞いてんじゃねえかよ」
「聞いてません」
「心配せんでも比奈は取らねえよ」
唐突に滲み出るヒナイズムに若干の呆れを持って迎え入れると、彼女は更にムッとして身体ごと他所を向いてしまう。
「…………本当に、人の気持ちが分からない方ですね。貴方は。この期に及んで、貴方が想像しているような些細な理由で、私が不満を持っていると、本気で思っているんですか」
「…………は? なにが?」
「だからっ…………対象が、貴方ではないと、そう言っているんですっ……! 分かりませんかっ!」
「ちょっ、怒んなって」
「怒ってないですっ!」
いや、怒っとるやん。
激おこのプンプン丸やん。
なんで別れ際にこんな微妙な空気になるんだ。駄目だわ。お前のことだいぶ理解していたと思ってたけど、この辺はまだ全然分からんわ。
「……じゃあ、帰るな。ありがと送ってくれて」
「あっ…………!」
逃げ出すともまた違うが、どうにも居心地が悪くなってしまいさっさとその場から立ち去ろうとした。それが悪手だと分かっていても、気恥ずかしさに後押しされてしまったのだ。
改札は目の前。少し離れてしまえば、雑踏に紛れて彼女の姿はさほど時間も掛けず見えなくなる。そう、なるはずだった。
「まっ、待ってくださいっ!」
「えっ……ちょ、な、なんだよっ」
「誰の許可を取って帰ろうとしているんですか! まだ話は終わっていません!」
「……はなし? なんの?」
「……そっ、それは……っ!」
行き場の無い困惑をアスファルトに撒き散らし、しどろもどろの琴音。大した距離を歩いたわけでもあるまいに、顔は真っ赤に膨れ上がっている。
今にも破裂寸前。
オーバーヒートを迎えようとしている。
(…………あっ)
この光景、前にも見たな。
で、決まってやることがあるんだ。
忍法、身代わりの術。
もしくは、第二人格の誕生。
或いは代弁者の登場。
「…………こんばんは! ぼくはドゲザねこ!」
「…………あ、どうも。お久しぶりです」
取り出したスマートフォンで顔を隠す。
カバーケースには相も変わらず、頭が低過ぎて表情すら確認できないアイツが冷や汗ダラダラで鎮座していた。
「琴音ちゃんの代わりに、ぼくが伝えるね!」
んなカッスカスの裏声で他人を名乗るな。
演技下手くそだっつってんだろ。
「助けてくれて、本当に嬉しかった! ありがとう! 今日のこと、ぼく、絶対に忘れないよ!」
「…………おう。なら良かった」
「でも、一つだけ反省して欲しいな!」
「……………反省?」
ドゲザねこに反省を促されるとは、いったいどれほど重大な罪を犯したというのだろう。身に覚えが無さ過ぎるのだが。
「あんまり琴音ちゃんのこと、困らせちゃだめだよ!」
「…………困らせる?」
「……お母さんに言ったこと、嬉しすぎて本気にしちゃうから困るんだって! だから、設定でもなんでも恋人とか彼氏とか、あんまり言わないでほしいな!」
「……………………ハッ。んだよそれ」
それで誤魔化せているつもりか。
たかがスマホ一枚で。薄っぺらいカバーで。
隠しているつもりか。
なんだよお前。
ズルいだろ。それは。
ふざけるな。
可愛すぎるんだよ。殺すぞ。
「なあ。ドゲザねこ。この際だから代わりに聞いてくれよ。琴音って、俺のことどう思ってんのかな」
「…………へっ……!?」
こんなときだから。
せっかくだから聞いておこう。
教えてくれるよな。
だってお前、ドゲザねこなんだろ。
琴音じゃないんだろ。そうだろ?
「オレ、琴音のことめちゃくちゃ好きなんだよな。普通に。女の子として。香苗さんに言ったことも、なんなら本気なんだよな。まぁ、アイツらにも似たようなこと言っちまうんだろうけどよ」
「…………はっ、ぁぅ……っ!」
「だからさ。昨日今日みたいな恋人にはなれねえかもしれねえけど、その真似事なら明日から出来ると思うんだわ。まぁ、琴音が嫌なら仕方ねえんだけどさ」
離れていた距離を大胆に詰め直し、スマホ一枚を隔てグッと顔を近付ける。小刻みに聞こえる覚束ない息遣いは、果たしてどちらから出ているのだろうか。
「なあ、ドゲザねこ。教えてくれよ」
「…………そ、それはっ……ッ!」
せめて演技しろや。
勘違いするだろ。
それとも、勘違いしていいのか?
なら、俺はもう止まる気が無いんだ。
「スマホ、邪魔。退かせ」
街行く人々が、初々しい二人の姿を遠めに眺めている。彼らは知らない。俺たちが、この二日間限定の、偽物の恋人同士であったことを。
分かる筈もない。
気付くわけもない。
どうしようもないことだ。
目に見えているものこそが真実。
必然のように唇を重ね合わせた俺たちは。
誰がどう見ても、愛し合う恋人で。
そして今この瞬間だけは。
俺も琴音も。本気でそう信じていたと思う。
「で、答えはどうだった? ドゲザねこ」
「……………………この、通りです……っ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます