371. 間違えるはずがない
長い、長い沈黙が続いた。
まるで教え子に説教を垂れる教師のようだとふと思ったが、それにしては互いの立場も主張も噛み合わない。誰もが続く言葉に迷い、心内を彷徨っていた。
流石に大見得を切り過ぎたか。
ようやく燃え滾るような情動をしまい込んだとはいえ、心境は穏やかではない。あまりにも感情に身を任せ過ぎた。仮にも琴音の母親に向かって、とんでもないことばかり口走っている。
たかが恋愛ごっこと、夢見がちな高校生の大言壮語と呆れているのだろうか。依然として無表情を保つ香苗さんの様子から、この先の展開はまるで予想出来ない。
(…………俺も俺だわ、ホンマ)
順番が違うのだ。
もっと言うべき相手が居るのに。
それをほったらかしにして、首を突っ込んで。
琴音の置かれている状況は、俺とてさほど変わりは無い。親からの愛情を感じられず、違うモノに頼って、依存して。
まだコイツの方がマシなんじゃないか。
最低な台詞をグッと飲み込んで。
遂には吐き気を催した。
そうだ。あの日、俺は最後の砦だったサッカーまで失って。さながら亡霊のような出で立ちで、この街へやって来たのだ。
言いようの無い悔しさに駆られる。
もしあのとき、もっと早く。
彼女たちに出会っていたら。
この言葉を、誰よりも早く。
あの二人に伝えられていたら。
この感情に気付くことが出来ていたら。
俺はもっと、上手く生きられていたのに。
今更後悔したところで、遅いのに。
伝えたかったのに。出来なかったのに。
その勇気すら持てなかったのに――――
「ごめんなさい、廣瀬くん」
「…………えっ……?」
「貴方のこと、悪く言い過ぎたわ」
突然の謝罪に驚いて思わず顔を見上げると、馬鹿正直に首を垂れる香苗さんの姿があった。先ほどまでは打って変わった態度に、俺はその姿を正面から見据えることしか出来ない。
「……身に覚えが無いわけではないわ。私たちの望むことをこの子に押し付けて、本当はなにがしたいのかなんて、聞いたことが無かった。だって、何も文句も言わず素直に受け入れるのだもの。勘違いってするわ」
「とても賢い子なのよ。貴方なら、もうとっくに知っていると思うけど。自分の身の丈に合わないことは絶対にしないし、それが必要の無いことだと気付くことが出来る。貴方には歪に見えたとしても……私たちと琴音は、それなりに分かり合って、理解し合える関係なの」
「だからお友達に何か誘われたり、今回のように新しいことを始めたって聞いて、とても勿体ないって思ったわ。この子が
吐き捨てるように産み出された無機質な言葉らが意味するものを、俺は今一つ理解出来ずにいた。
ある種の達観なのか、或いは現実逃避なのか。琴音に似た真っ黒な長髪は、その真意をあざといまでに覆い隠す。
「廣瀬くん。琴音の好きな食べ物、分かる?」
「えっ…………ハンバーグとかラーメンとか?」
質問の意図が分からず、思わず先日一緒に食べたばかりのものを適当にあげてしまう。それほど間違ってはいないと思うけど。実際そればっか食べてるし。
しかし香苗さんには十分な回答だったようで。
重いため息を一つ挟み、苦々しく微笑む。
「あら、そうなのね…………笑ってくれてもいいわ。そんなもの、家では絶対に出ないのよ。私の好みじゃないから。でも、この子は私の知らないところで、いつも食べているんでしょ」
「……それは、まぁ、はい」
「知らないのよ。この子の好きなもの、嫌いなもの…………知ろうともしないのに、ね」
「おしるこ缶も。カロリー高いもの好きみたいで」
「ふふっ、そう……そうなの。詳しいのね、廣瀬くん。私やあの人なんかより、ずっと。私の知らないところで、琴音のこと、沢山見ていてくれたのね」
本当にいきなりどうしたのか。
さっきまでとは別人みたいに流暢に笑う。
正直、この程度で収まるとは思っていなかった。琴音の母親なだけあって相当な堅物であると予想していたし、喧嘩腰とまでは行かなくとも、まだまだやり合うつもりだった。
拍子抜けと言っては失礼だが。
なにがそこまで香苗さんを動かしたのか。
「陽翔さん。ハンカチ、使いますか」
「…………え、なんで」
「なんでって……前、見えづらくないですか」
隣に座る琴音から差し出された白のハンカチ。
どういうことかと思って、目元に当ててみる。
「…………あれ……っ?」
「気付いた? 喋りながらずっと泣いていたわ」
「えっ……ま、マジすか……?」
「感受性の豊かな子なのね」
「はい。ビックリ箱みたいな方です。陽翔さんは」
何度も何度も涙を拭き取っても、容赦なく溢れ出て来る。そこまで感情的になっていたつもりは……いや、あれだけ大声で喚いては説得力もなにも無いけど。
琴音もお前、そんな風に思ってたのかよ。
んな慈愛に満ちた目で俺を見るな。
「…………自分でも簡単に絆されてるって、思うわよ。でも、泣きながらこの子のことをこんなに熱く語られて、心が動かないほど冷徹な人間じゃないもの。貴方が本気で琴音のことを考えてくれてるって、ちゃんと伝わったわ」
「そ、そうっすか……っ」
「……良く似ているわ。貴方。私たちに」
何気ない呟きが心中に突き刺さった。
俺が、琴音の両親に似ている?
「お見合い結婚なのよ。私たち」
真っ直ぐにこちらを見据える香苗さんの瞳は、どこか儚くも美しい。琴音に負けず綺麗な顔立ちをしている。水滴でボケたままの視界が正しく認識しているかは分からないが。
「今どき珍しいでしょ?」
「……そう、ですね」
「でも、私たちにとってはそれが普通」
少なくとも、今までとは違う。
俺と琴音を。しっかりと両目で見つめている。
「恋愛に憧れたことなんて無かったわ。そんなものに縁すら無いような、そういう環境で育ってきたの。私とあの人は。勿論、あの人のことをちゃんと認めたうえでの結婚だったけれど……そこに所謂愛情や、家族愛みたいなものがあったかどうかは、正直分からないわ。今でも」
「…………疑う余地なんて無いのよ。私たちはただ、自分がされてきたようにこの子を育てていくだけ。それが私たちにとっての、この子への「愛情」だから」
「……間違っていることをずっと分かっていたし、それ以上に恐れていたわ。色んな要因が重なり合った結果でもあるの。結局、私たちは自分に課せられた重しを、振り解こうともしなかった」
自嘲に満ちた重苦しい微笑み。
無機質なリビングと、呼吸一つまで重なる。
(…………あぁ、そういうことか)
どうやら俺も、思い違いをしていた。
愛情が無いのではない。
ただ、伝える方法が、間違っていただけなのか。
なるほど。そうか。それだけのことか。
思っていたより、ずっと。
ずっと、シンプルなこと……。
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