271. 確かなスタート合図


 次に必要な言葉を探している暇も無く、沈黙は打ち破られた。着替えを終えた愛莉がドアを開けリビングに現れたのである。


 何かやましい話でもしていたわけでもあるまいに、俺と長瀬弟は二人して身体をビクンと弾ませ、咳払い一つ二つを合図に椅子へ座り直した。そんな俺たちの様子を、愛莉は不思議そうに眺めている。



「……なに? どうかしたの?」

「い、いやっ……別に、なんでも」

「ふーん……まっ、いいけど。せっかくだし、ハルトも食べてくでしょ? どうせ夜はロクなもの食べてないんでしょうし」

「ご挨拶やな……間違っちゃねえけど」

「むしろ感謝しなさいよねっ、ほんとにもうっ」


 言葉通りに受け取れば真っ当な心配性のそれに違わないが、妙に上擦る語尾から察するに、彼女も彼女で悪い気はしていないようだった。なんなら似たような感想を抱いているまである。



「昨日の余り物だけど、別にいいでしょ?」

「お前の作ったモンならなんでもええわ」

「そーゆー言い方は良くないんじゃない?」

「期待値込みや。許せ」

「はいはいっ。ちょっと待っててね」


 軽快なステップを踏み台所へ向かう愛莉。慣れた手付きで冷蔵庫から食材を取り出し、調理器具を躍らせる。


 どうやら、あの日振舞ってくれたハンバーグも、昼時を助けてくれるお弁当も、彼女とて一張羅というわけではなさそうだ。



「……あぁ。やっぱりそうなんだ」

「え。なにが」

「お弁当。最近、三人分作ってますから。育ち盛りにしても食べ過ぎだって思ってましたけど。貴方の分だったんですね」

「なんや。気付いてなかったんか」

「だから、言ったでしょう。姉さんが男にご飯作るなんて、想像するだけでも恐ろしいですよ。前まで自分の分だって適当に作ってたのに」


 先ほどと会話のテンションとしてはそう変わらないように見受けられるが、言葉尻は少しずつ穏やかさを増し、棘が取れ掛けている。


 まるで別人だ。自分のことだって遠い世界の出来事のように話す癖して。脳裏にひと時でも愛莉の姿が現れようものなら、真っ白な柔肌は意図せずとも綻ぶ。



(…………家族……か……)



 愛莉は言った。自分と弟の間には、ここ数年なんとも表現し難い微妙な壁があると。そして、長瀬弟も同様に語った。自分と姉ではあまりに違うと。


 だが、彼らを繋いでいるものは何一つ違わない。例えこのリビングでそれらしい会話を紡いでいなくても、この空間は何かそれらしい因果でギュッと結ばれている。


 それがコイツの言う、家族という重すぎる鎖であるならば。


 俺は、そんなものさえも羨ましいと思った。自分には無いものだと、痛々しいまでに突き付けられているようだった。



 結局、俺は大多数が持ち合わせている最低限すら事足りていない。何が大切で、何が必要か。大見切って訴えかけるだけの根拠も、自信も。はたまた在り合わせさえも。


 どれだけ求めても、埋まらない。

 所詮、手に入れたところで、偽り。

 この二人を眺めていると、尚更そう思えて。



「…………どうかしたんですか?」

「えっ……あ、いやっ……」

「そんなに姉さんの後姿が綺麗でしたか」

「なんでお前が自慢げなんだよ」


 まるでとっておきの玩具を見せびらかすみたいに。長瀬弟は、小馬鹿にするよう笑った。


 やっぱり、そうなんだよな。

 どれだけ壁があっても。

 変わってしまったとしても。


 愛莉は、お前にとっての一部なんだよな。


 それがきっと、家族ってやつで。

 恐らく、俺が。いや、お前が思っているほど。

 重いものでもないし、ましてや十字架でもない。



「お待たせっ。三人分も作るの久しぶりかも」

「その野菜、ちょっと傷んでない? 大丈夫?」

「ばか、アンタより冷蔵庫の中身ぐらい把握してるわよ」

「どうかなあ。この玉ねぎとかもう……」

「おい、喧嘩すんなよ。大人しく食べようて」

「客人は口を挟まないのっ」

「そうですよ。気を抜いたら姉さん、すぐトチるんですから」

「アンタもっ、余計なこと言わないっ!」


 他愛もない家族のお喋りに、部外者が混じっているとは誰も思わないだろう。俺とてその一員になれたと思い込むほど浅はかではないが、あまりに違和感が無くて、妙にこそばゆい。


 それにきっと、こんな光景も珍しいものでは無い筈なのだ。本当なら、俺が座っている椅子には相応しい人物がいて。偶々、そこに俺が居るだけという。


 けれど、二人では意味が無い。


 意味が無い、なんてことはないか。

 でも、足りないのだ。どうしたってこの家には。

 


 だから、彼は求めた。

 例え曖昧な存在だとしても。


 縋るような瞳を、そう時間が経ったわけでもないのに、まるで遠い思い出のように思い起こしている自分が居る。



 なら、俺がしてやるべきことは。

 いや、それも違う。してやりたいことは。


 お前の背負っている重みを、半分だけ背負ってやることではない。ただ、なるべく近くでお前が頑張っているところを、ちゃんと見てやるっていう、それだけで十分なのかもしれない。


 別に、難しい話や辛い現実は見ないようになんて、要領の良さや馬鹿馬鹿しい賢さを見出したわけでもない。そんなことは、きっとお前一人でも十分乗り越えられる範疇だ。


 新しい歯車や、エネルギーが欲しいんじゃない。

 そう、お前が欲しがっているのは。

 一歩踏み出す勇気と、確かなスタート合図。



 その程度だったら、俺でも出来るかも。

 それだけでいいなら、俺が担いたい。


 少なくとも、お前はこれが望みなんだろ。

 じゃあ、何も文句はねえよ。


 

「うーん、全然足りないわね……」

「買い物する暇も無かったから、仕方ないよ」

「なんや、俺の所為ってか」

「別に貴方の話なんてしてませんけど」

「アアっ? やっぱ俺の所為じゃねえか」

「ちょっと、二人も喧嘩しないのっ! もうっ、仲良くなったと思ったら……真琴も、一応には先輩なんだから、少しは敬ってあげなさいよね」

「はいはい。分かったって」

「そのフォローが一番悪手やと思うけどな」

「ハルトなんて、これで十分よ」

「お前なぁ……」


 軽はずみな言葉が飛び交い、食器以外に何も置かれていないこの空間が、微かに色を取り戻したような。そんな気がした。


 茶碗一杯の白飯とインスタント味噌汁。

 ほんのりと甘い生姜焼きと玉ねぎの炒め物。


 箸が止まらなかった。あの日家で作って貰った料理とも。毎日のように食べているお弁当とも、何かが決定的に違う。決して出来栄えや美味しさの問題ではない。



 ごめん、俺も少し出しゃばったわ。

 お前のためにとか、そんな偽善は要らなかった。


 お前がこの空間を何よりも愛おしいと思っているのと同じで。俺も同様に、こんな時間に、生活に憧れていて。ちょっとだけ、その一片だけでも良いから、欲しくなってしまったのだ。


 大丈夫。邪魔したりなんかしない。

 なるべく、邪魔しないようにするから。


 だから、俺に出来ることだけ、やらせてほしい。

 優しさにも、多少のエゴは必要だと思う。




 束の間の安息を得て、愛莉は忙しそうに手を動かし食器を洗い流している。


 再び訪れた、長瀬弟と二人の時間。と言ってもすぐ目の前に彼女もいるわけだが。ここまで来ては差して気にはならなかったらしい。食後の紅茶を口元から離し、さっきの続きですけど。とやはり色気の無い声で話を切り出した。



「どうすればいいと、思いますか」

「…………なにが?」

「全部です」


 生き急いでいるとも称し難いが、その一言ひと言にはどこか焦燥のようなものが滲む。愛莉に言われたばかりという手前、わざわざボカシて伝える必要も無いか。



「改めて言うとっけど、お前は別に下手でも無けりゃ、上手くもねえ。俺からすりゃ凡人の類や。愛莉にも及ばねえ」

「……それは、分かってます」

「でもな。お前がこんがらがってんのは、俺に敵わないんでも、姉に追いつけねえのが理由でもねえ。自分自身に納得が行ってへんからや」

「…………でも、どうすればいいのか……っ」

「図星やったんやろ。喧嘩した理由」


 重なった視線に目をギョッとさせる長瀬弟。


 手の届かないところに嫉妬なんかしたりしないんだよ。だから、俺が幾らコイツを打ち負かしたところで、コイツにとっての現実はなにも変わらない。


 あんな勝負は、所詮、背中を押してやるだけのしょうもない茶番に過ぎないのだ。それでも、今のお前なら。堂々と立ち上がれるだけの勇気も。覚悟も持っている。そうだろ。



「あくまで推測やけどな。お前が俺に苛付いてるのと、アイツらがお前に苛付いてんのは、根本的には同じ理屈や。同じピッチに立ったようで、まるで違う試合をしている」

「…………それは……っ」

「レベルの差なん、どうでもええ。同じものを同じ高さから見なきゃ、意味ねえんだよ。それに、なんも別の生き物ってわけちゃうんやろ。お前やって、サッカー部で楽しそうにやってる連中が羨ましかったんじゃねえか?」

「…………そうかも、しれません……っ」


 あの頃の俺と同じだ。


 サッカー部という未知の強敵を前に、俺は自分のするべきことを。本当にやりたいことを見失った。そして、危うく自らも。一番大事にしたかった場所さえも、壊し掛けたのだ。


 ともすれば、改善策は一つ。

 同じものを、同じ角度から見据える。


 しかし問題は、理由が何であれ、コイツがサッカー部の公式戦に出場できないという現実。これだけ焚き付けておいて、大人しく全力で応援だけしろというのも酷な話だろう。



「ちょっと待て。日にち聞いてっから」

「……なんのですか?」


 スマートフォンを滑らせ、ある人物へと連絡を送る。正確には、この家に着いた段階でもう送っていて、返事待ちというところ。


 そう時間を取らず返信が来た。

 今週の土曜日か。もうすぐじゃねえか。危な。



「愛莉。土曜日予定空けとけよ」

「へっ? 急にどしたの? 練習?」

「いや。言っちまえば本番やな」


 なにがなんだかという顔をして洗い物の手を止める愛莉。続いて似たような顔をしている長瀬弟を見据え、送られて来た文章をそっくり読み上げた。



「セレクションは、今週の土曜日。参加資格、応募受付は必要無し。誰でも良いからとにかく人が欲しい……だとさ。お前のサッカー部からも何人か来るらしいで。良かったな」

「…………まさか、山嵜の……っ!?」


 驚いて椅子から立ち上がる長瀬弟。


 お前にとっちゃ、この上ない舞台だろ。ここまでお膳立てしといて、動かないわけねえよな?



「お前やって、仮にもフットボーラーやろ。どんな喧嘩も、ピッチの上で決着付けろ。ええな」


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