150. 餌付け大成功


 中途半端に閉まるドア一枚隔て、キッチンの奥から漏れて来る、香ばしくもどこか甘ったるい匂いが微量の煙と共に鼻先を通り掛かった。


 無論、煙の正体は肉を焼いているフライパンからで甘いもクソも無い筈なのだが、それでも部屋に充満しているこの匂いは、どこかそんな気配が漂っている。真相など分かる由も無いが。


 普段ロクに見もしないテレビを着け、シロイルカを抱えながら彼女の言う「目的の遂行」の瞬間を待ち続けている。名前も知らないお笑い芸人のネタは、ちっちも頭に入ってこなかった。



「ハルトー、お茶碗ってどこにある?」

「食器はこっちの棚」

「ご飯炊けたらよそっておいてー」


 ドア越しに指示を承り、普段まともに開けもしない食器棚からお茶碗を二つ取り出す。


 洗うのが面倒だからという理由で二つ買っておいたのが、まさかこんなところで役立つとは。なにをもって役立っていると言えるのか微妙なところではある。


 ご飯が炊き上がり、慣れない手付きで白飯をよそう。炊飯器も久しく使っていなかった。あんなんちょっと買って来てレンチンで十分やし。上京時に買っておいた残りの米がようやく消費される日が来るとは。感無量。


 マジで食生活、ちょっと見直そう。 

 これはアカンわ。



 茶碗と箸をテーブルに並べ終えた俺は、ふと調理工程が気になってしまい彼女の様子を窺おうとドアを開ける。


 朝会ったときから変わらない格好で、やはりほとんど使われていないフライパンの取っ手を握り締めた愛莉がさも当然のように立っていた。



「……なに?」

「いや、どんなもんかと」

「普通よ、ふつー。なにも面白くないわよ」

「んなこと……なんか、新鮮やな」

「だって、見せたこと無いし。こんなところ」


 ちょっかいを掛けているつもりは毛頭ないが、関係的にそんな感じになってしまうのも致し方ないところではある。俺の言葉を避けるように、彼女は一瞬だけ寄越した視線をすぐに逸らしてしまった。


 いつの間にか、自慢の長髪をポニーテールで纏めていた。これに可愛らしいエプロンなんか着けさせれば、さぞお似合いなことだろうが。生憎持ち合わせも無い。



「…………なによ、なんか言いたいことでも?」

「……やめとくわ。お前、怪我しそうで」

「そんなヘマしないわよっ」


 なら、ほんの一瞬でも俺が考えたことを口にしてやろうか。お前、見た感じめっちゃ若妻やで。と。


 絶対に手元狂うコイツ。分かっとるから言わん。



 大人しく部屋に引き下がり、長々と時間を潰すことも無く、彼女は二枚の皿に料理を綺麗に盛り付け颯爽と現れた。


 本当に、料理得意なんだろうな。フットサルやってるときは溢れ出る自信が止まらないって感じだけど、今はなんというか「いつものことですが何か」みたいなある種の余裕すら垣間見える。


 ホント黙ってれば普通の美少女だからなぁ。

 たまにギャップ出されると敵わん。ムカつくわ。



「はい、お待たせ」

「ん、あんがとな」

「あまりの美味しさに顎が外れなきゃいいわねっ」

「はーん。えらい自信やな」


 久しぶりに見掛ける斜め45度の美しいドヤ顔に若干呆れつつも、テーブルから漂って来る香ばしい肉の香りは本物だ。食わんでも分かる。こんなんどうしたって美味い。


 迎え入れた一口を味わうまでもない。

 次々と大サイズに切り分け運んでいく。


 正直、ハンバーグなんてどこで食べても一緒みたいなところあったけど……これはちょっと、コンビニ弁当や冷凍食品とは比較にならない。お前、この家に来たときはただの挽き肉だったんだろ。にわかに信じ難いわ。



「馬鹿うめえ、なんやこれ」

「え、そっ、そんなに……っ?」

「マジマジ……ちょっと感動してるわ」

「ちょっ、流石に褒めすぎでしょっ」

「自信満々で出したんお前やろ。でも、すげえな」


 味付けも結構濃い目で、俺の舌の好みをよく理解している。勢いのまま、白飯もあっという間に平らげてしまった。


 途中からなんの感想も無く、ひたすら無言で食べ続けていたのだけれど。愛莉は自分の食事もそこそこに、箸の止まらない俺をチラチラと横目で眺めながら、重なる寸前で目を逸らすという行為を何度も繰り返していた。


 そこそこお腹空いてたし、リアクション取る余裕も無いのだ。察して欲しい。この食べっぷりを見て納得しろと言うほかない。



「ご飯食べてるハルト、やっぱ面白いかも」

「は? 急になんや」

「ハルトってさ。いっつもご飯食べるとき、すっごいポヤッとしてるっていうか……気が抜けてるのはいつもなんだけど、それでもほら、普段は一匹狼みたいな感じでしょ? それが、食べてるときだけ急に犬っぽくなるんだよね」


 さっきからやたら見ていたのはそれか。


 いやしかし、動物で例えられても困るというか。

 まず犬って。馬鹿にしてるだろ絶対に。


 犬、イヌか……まぁ、嬉しくはないな。琴音曰く、俺はドゲザねこにも似ているらしいが、どこをどう見たらそんな感想が出てくるんだろう。自分が飯食ってるときの様子なん確認しようが無いけど。



「良かったな。餌付け大成功で」

「そーじゃないけどっ、なんか、思っただけっ」

「あ、はい、そっすか……ん、ごちそうさん」

「お粗末様でした。ねっ、言ったとおりでしょ?」

「お見逸れいたしました」

「それでよしっ」


 満足げに頷いて、にっこりと笑う。

 クソ、ただの美人め。やりづれえ。



 食器を下げ、洗い物を始めた愛莉をベッドからぼんやりと眺める。スラリとした後ろ姿は見慣れているようで見慣れない、なんとも表現しがたい不思議な光景であった。


 毎日のように顔を合わせているのに。

 不思議な感覚だ。別人のようにさえ見える。


 昨日もこの部屋、ちょうどこの時間帯くらい。似たようなことを考えていた。俺は、長瀬愛莉という人間をフットサルを通じてでしか知らない。


 いや、勿論、それだけってわけじゃないんだろうけど。


 取りあえず強気に出てみる癖に、ここぞというところで押し切れない根の弱さとか。わがままな癖に主張するのは苦手なところとか。快活に見えて、意外と寂しがりやなところとか。あと常に金欠。他にも挙げて行けばキリがない。



 けれど、この数日間。目に見える姿だけが全てではないということを、まざまざと見せつけられているようで。やるせない。


 結局、俺は愛莉を含め彼女たちのことを隅まで知った気になっていただけで、実際のところなにも知らなかったという。本当に、それだけの話なのだ。


 夏休みに入る前、比奈や峯岸から出された宿題は、一度解き明かしたと思ったら日を追うごとに量が増えているような気がする。それも、誰かと会うたびに追加されているわけで。


 鼻歌交じりで食器を手に取る愛莉を眺めていても、ただただ「同棲中の恋人みたいだな」と余計なことを考えてしまうばかりで、なにも解決なんてしてくれない。



「いま、何時?」

「8時過ぎ」

「あー、そんな時間か……よし、これで終わりっと」


 蛇口を捻り洗い物を終えた彼女は、食器の水分を拭き取って丁寧に棚へ片付け部屋へと戻って来る。当たり前のようにベッドに座るな。俺のテリトリーやここは。



「雨、全然やまないね」

「朝まで降りっぱなしやって」

「うわぁー……外出たくないなー……」


 テレビに映る気象予報によれば、明日の午前中までこのまま降り続けるらしい。比較的小雨だった昼すぐとは打って変わり、外は大雨といっても過言ではないレベルの土砂降りとなっていた。



「まぁ、ゆっくりしてけば」

「うんっ、そうする……真琴マコトに連絡入れとこ」

「……マコト?」


 聞き慣れない名前に、思わず脊髄反射で呼び返してしまう。眉を顰めた俺に、愛莉は何の気ない様子でこう返す。



「あれ、言ってなかったっけ?」

「……彼氏か」

「ばっか、違うわよ。ほら」


 スマートフォンには一枚の写真が映し出されている。

 少し昔の写真だろうか。

 愛莉の笑顔には幼さが残る。


 その左に映っているのは、ショートの黒髪と彼女によく似た吊り気味の大きな瞳が特徴の、容姿端麗な美少年。

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