118. あなたが、教えてくれた
広々としたダイニングには、必要最低限の品々しか置かれていない。綺麗に整頓されていると言えば聞こえはいいが、絶望的なまでに薄っぺらい生活感はさながらショールームのようで。
僅か数ミリの角度のズレさえ許されない、張り詰めたような緊迫感の最中。彼女の耳に入るのは、食器の擦れる音と時計の針が進む、極めて無機質なものばかりであった。
共働きで、日付を超えて帰ってくることが珍しくない両親の、片方とでも共に食事を取ることは、琴音にとって日常的な光景ではなかった。
父親は出張が多く、彼女の前に姿を見せることはほとんど無い。最後に会話をしたのがいつだったか、思い出すことすら億劫に感じる。
それどころか、どんな顔をして、どれくらい背丈が合って、どんな言葉を話すのか。もはや彼女にとっての父親とは、写真やアルバムのなかにしか存在しない曖昧な記号でしか無かった。
母親にしても同じようなもので、それなりに顔を合わせることはあるものの、年頃の一人娘を気に掛けるような言葉が飛んで来ることは数えるほどである。
ただ、そんな現状に不満を覚えることは無い。
その少ない会話でさえ、彼女を悩ませる頭痛の種に過ぎない。
「ごちそうさまでした」
立ち上がり、食器を片付けた琴音は、食事を続ける母の様子を窺うことも無く、真っ直ぐ自室のある部屋へ戻ろうと足を進める。
「琴音、少しお話が」
珍しい、いったい何の用事だろう。と次の言葉に思いを馳せる余裕すら、彼女には与えられない。あの人が私になにか話すのであれば、その内容は一つしかない。琴音もそれを重々承知していた。
振り返るだけ。食事後に母親と言葉を交わす。ただそれだけのことが、何故ここまで苦痛なのか。
その原因が自分にあることも。そしてそれ以上に、一切の揺らぎの無い言葉を紡ぐ年上の同居人にあることも。もはや追求することさえない。
「最近、出歩くことが随分増えたみたいね」
「……それがなにか」
態度には出すまいと精一杯抵抗はしていたつもりであったが、やはり声色から覗く不機嫌さは隠し通せない。そんな自分が、尚のことちっぽけに見えて。
「通知表、見たわ。学年一位じゃなくなったのね」
「……総合点なら一位ですが」
「英語、二位だったんでしょ。知ってるんだから」
そんなことで、と言い返す気力も無かった。
無論、学力に秀でた彼女にとってその事実が決して軽いものでは無いことを当の本人も自覚していないわけではなかったが。
何週間ぶりの、久しぶりの会話が、それなのか。
他にもっと、言うことないのだろうか。
その瞳に、私の顔は、映っているのだろうか。
些細な疑惑は無視され、言葉は淡々と続く。
「担任の先生から聞いたわ。部活を始めたそうね」
「……えぇ、まぁ」
今更そんなことを言われる筋合いは無い。
いったい、いつの話だと思っているのだ。
少なくとも、前に家族で食事を取ったときには、既にフットサル部の一員だったのに。明らかに増えた体操着の洗濯の回数。見慣れない服。遅くなった帰宅時間。
確かに、顔を合わせる機会は少ないけれど。
(人から聞かされないと、気付かない)
(その程度の存在なんでしょう。私なんて)
依然、彼女の心を虫食うトラウマが、余計な気を利かせるように顔を出す。今日の出来事が、泡のように弾けて消えていくのが分かるようで。
「それも運動部なんて……今更そんなことしたって、内申にも大して影響があるわけでもないのに。せっかくなら、生徒会やボランティア活動の方が良かったんじゃない?」
「ちゃんと将来のこと、考えているの? 成績が落ちてからじゃ遅いのよ。こんなことにかまけているから、一位を逃すようなことになるんだわ」
「もしその部活動の人たちと遊び惚けているなら、黙って見過ごすわけにはいかないわ。友達作りは構わないけど、本来の目的を見失うようじゃ……」
こんなときだけ、母親面をするな。
たったその一言さえ、彼女には叶わない。
言えない。言える、わけがない。
両親の進言に従わず、比奈と同じ山嵜高校への進学を志したのは、彼女にとって初めての「反抗」であった。それを根に持っていることも、前から知っている。
成績さえキープすれば。最終的に良い大学に進学するなら。そんな条件を呑み、彼女はかけがえのない親友と、三年間を過ごすことを許された。
けれど、そんなささやかな反抗の先に待っていたのは、今までと何も変わらない。ただ机に向かい、両親と教師。試験の結果だけを見てすべてを判断されるだけの日々。
でも、仕方が無い。
結局、彼女は変わらなかった。
否、変われなかった。
両親にとって、都合の良い「真面目で優秀な娘」を自ら選んで、生きて来たのだ。二者択一の力さえ、彼女には残っていない。
その、筈だった。
「……なら、そうですね。こうしましょう」
「…………琴音?」
「顔に100点と、マジックで書いておくというのはどうでしょうか。或いは、試験用紙……まぁ成績表でも良いですね。顔に張り付けて、生活でもしてみましょう」
こんな下品な煽り文句が口から飛び出てきたことに、誰よりも琴音本人が驚いていた。今まで、不満こそ覚えど文句の一つさえ言わずに生きて来た自分が。
なんの影響かなんて、とっくに分かっていた。
誰よりも口が悪いのに。
誰よりも優しい。
ペーパーの上でしか存在意義を持たない。なんの価値も無い自分を「必要だ」と言ってくれた、あの人に。あの仲間たちに。
いつの間にか、毒されているのだろうか。
それが良いことなのか、悪いことなのか。
実際のところ、良く分かっていないけれど。
「……貴女、親に向かってなんて口をッ!!」
「こんなときばかり、母親面しないでくださいっ!!」
言えなかった。言える筈も無かった一言に、その人の表情は酷く歪む。
少しだけ、申し訳ないな。
そんなことを思って、すぐに気を取り直した。
生まれてから今まで、ずっと`娘面`して過ごしてきた自分と比べれば。
私は、わたし。
二人の娘であり、それ以上の存在ではない。
(あなたが、教えてくれた)
楠美琴音という、一人の人間。
ただ、それだけ。
「きっ、急にどうしたのよ……? なにか学校で嫌なことでもあった? もしかして、嫌な先生でもいるとか? なら、すぐにでも連絡して文句の一つでもっ」
「もう寝ます。おやすみなさい」
「琴音っ! 話はまだ終わって――――」
振り返ることも無く、自室へと足早に逃げ帰る。まだ何か言っているように聞こえたが、無視した。
ありとあらゆる鬱憤をぶつけるように、ベッドへと飛び込む。枕を囲うように鎮座する猫のぬいぐるみたちが、彼女を出迎えた。
一階のそれに違わず、彼女の自室も必要最低限のものしか置かれていない、実に殺風景な部屋であった。だからこそ、ぬいぐるみの存在が異様に浮き出ているが。
小学生の頃から一貫して使い続けているその机も、品行方正、モデルケースと言い出せばキリが無い、優秀な学生の見本のような姿をしている。
学業に関係の無いものは、それこそドゲザねこのデザインがあしらわれたミニカレンダーと、その隣にある写真立てくらいで。
「…………陽翔さん?」
枕もとのスマートフォンが喧しく点滅している。
写真を送る約束、すっかり忘れていた。
だが、送られてきた一枚の写真に、そんなこともすっかり忘れてしまう。枝分かれしたストローを咥え込み、顔を真っ赤にして、ほとんど目を瞑っている自分。
(こっ……こんな顔……っ!)
今すぐにでも消してくれと懇願するのも吝かではない羞恥心が彼女を襲う。実際、似たような文面を作り、送信ボタンに手を掛けるまでたどり着いた。
だが、すぐに消してしまった。
何故か、母親と、彼の顔が。
同時に脳裏上でチラついた。
消してしまったのは、前者であった。
この写真を消してしまったら。
さっきまでの想いも。決断も。
すべて揺らいでしまいそうで。
いや、それどころか、本当に必要なものでさえ。
消えて無くなってしまいそうで。怖かった。
「…………なんで……」
なんで、こんな恥ずかしい姿なのに。
誰にも見られたくない顔なのに。
こんなに、幸せそうに見えるんだろう。私は。
「…………やっぱり、似てるかもしれません、ね」
怯えた目つきで見つめてくるドゲザねこの抱き枕を胸元に抱え込み、彼女はそう呟いた。まるで、そこに居ない筈の彼を、探し求めているかのように。
やるせない怒りも、悲しみも、恐怖も。
すべてを包み込むような、あの瞳。
少しだけ軽くなる罪悪感。
そして、穏やかに芽生える温かい気持ち。
彼女はまだ、気付いていない。
本当なら、すぐそこにある筈のもの。
いま、自身が転がっているベッドなんかより。この殺風景な部屋より。ただ帰って、ご飯を食べて、眠るだけの家より。
どんな場所、どんなものより自分を癒してくれる存在が、そこにあること。そしてそれは、抱き抱えたぬいぐるみではなく。
本当は、たった一人の存在に終着することも。
深淵に呑まれ、その意識は遥か彼方へと消え失せて行った。
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