リンナ出産

 伸びて伸び上がって爪先立ちになり飛び跳ねてみたがとうとう届かなかった。レイは大学受験に敗北し東京へ出る機会を失った。とある大学の通信課程に通いながら相変わらずどうしようもない田舎の線路脇にようやく建っているあの実家で暮らしていた。十九歳になっていた。日々は退屈で、感情は向精神薬によって平坦化された。レイは家に引きこもり、一日中俯いて机に向かっていた。朝から晩まで浮かない顔をしていた。閉じた世界はレイの足首を鎖で縛って遠くへ行くのを許さなかった。思考すらも見えない塀に囲い込まれて外に出られなかったと言うべきだろう。

 外出するのは精神科への通院のときと、母とスーパーへ買い物に行くときだけだった。スーパーの二階にある書店へ行くことは数少ない希望であり、レイが人間らしい意欲を持てるほぼ唯一の時間だった。週に二回、十分ほどレイは新しい本を選ぶことができた。

 ある日レイはいつものように書店の文芸書コーナーを一通り見た後、土産物店の甘い香りをかぎながらエスカレーターを降りて一階の食料品売り場へ戻ってきた。母は買い物カートの手すりを片手で掴んで待っていた。ネギがはみ出ている買い物袋の脇に水色のリボンでラッピングされた見慣れない箱が乗っている。

「何これ、どうしたの?」

「ガラポンでね、タオルが当たったの」

「へえ」

「これはリンナにあげようかな?」

「リンナお姉ちゃん? なんで?」

「もうすぐ赤ちゃん生まれるから」

 レイは大変驚いた。そんなことは全く知らなかった。そう伝えると、母は

「あれ、言わなかったっけ? あと三ヶ月くらいで生まれるんだって」

 迂闊な母が伝え忘れていたのか、感受性を欠いたレイが気に留めなかったのかは不明だが、とにかく、いつの間にかリンナは妊娠して彼氏と結婚することになっていたのだ。


 レイが鬱屈としている間にも時間は過ぎていき、ある日母は夕食の席で

「今朝リンナの子ども生まれったってさ」

と告げた。

 父と母はしばらく話をした。

「性別はどっちだって?」

「男の子だって」

「ふうん。あのヤンチャだったリンナがとうとう母親になるとはね」

「育てられるのかねえ。心配じゃない?」

 レイは会話に加わることはなかった。ただ子どもが生まれるということについて想像を巡らせた。自分は自分自身のことも思うようにいかないのに、子育てをするなんて考えられない。しかし二つしか変わらないリンナはそれを目の当たりにしているのだ。未だに親の庇護下にある自分とは違ってリンナは自分の家庭を作ったのだ。実感が湧かなかった。ただ人生の終着点がある程度決まってしまったリンナを哀れに思うばかりであった、


 母に連れられてレイは母の姉である伯母の家を訪ねた。勧められたスリッパを履き、リビングへ入ると赤ら顔の伯父、リンナの姉である長髪のエリナ、そして緩めの肩から掛けるズボンを履いたリンナが待っていた。隣の部屋からリンナの夫と思しき黒いTシャツを着た短髪の若い男が顔を出した。部屋は乳児用品で溢れていて足の踏み場がなく、テレビでは幼児向けアニメのDVDが流れていた。広い場所にベビーベッドが置かれている。

「レイちゃーん! 久しぶりー!」

とリンナが笑顔で叫んで手を振っている。

 なぜそんなに屈託なく笑えるのか、なぜ躊躇いなく大声を出せるのか。レイの頭の中で疑念が渦を巻く。もうとっくの昔に自然な振る舞い方を失った彼女は、曖昧に笑って返事をした。


 葛餅とオレンジジュースの相性は最悪で、ジュースを飲むたび強烈な苦味に襲われ、渋い顔をしそうになる。母には日本茶を出したのに自分の前にだけオレンジジュースを置いたのは伯母の嫌がらせなのではないかとレイは不快に思った。

 レイが黙っていても構わず会話は進んでいる。

「何時頃生まれたの?」

「明け方。四時頃だよね」

「もう家に帰って来て大丈夫なの?」

 すかさず伯母が答えた。

「本当は病院でじっとしてなさいって言われたのに、この人たち帰るんだって聞かなくて」

「だってつまんないじゃん。いても意味ないしね、ね?」

 リンナの夫は鼻を触りながら小声で同意し、苦笑いし下を向いた。

 リンナはしばらく夫を見つめていたが、痺れを切らしたかのように視線を外し、ソファーの上でのけぞったかと思うと

「あーケツが痛えー!」

と大声で叫んだ。

「今はお尻が痛いでしょう。しばらく痛いよ」

とレイの母が言い、それから話題は新生児のことに移った。大勢の中では発言できないレイは終始黙り込んでいた。リンナの子はときどきぐずって風船を絞るような声を上げた。


 フロントガラスの向こうに古びた看板ばかりが現れ、こちらを見つめるように視界の横を通り過ぎていく。埃っぽい道路の上で細かい砂が舞い、タイヤに弾かれて車のボディーに当たり続ける。

 母はレイの態度に苦言を呈した。

「人の家に行ったらもっと明るくはきはきと話さなきゃダメよ。ずっと何にも言わないで仏頂面してちゃダメ。自分から会話に入るんだよ」

 レイは更に不機嫌になって知らないふりをしていた。胸に湧き上がるのは悔しさと反発心であった。いつまでこんな下卑た田舎で飼い殺されなければならないのか。あの一家の品のないことと言ったら! あんな連中と似たような運命を辿ってたまるものか。一刻も早く東京へ出なければならない。一刻も早く……。

 レイは四方を睨みつけて、精神の奥深くへと閉じこもった。空白の遠い未来がこの場所にあってはならないと強く思念した。

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