第50話

 エマのポケットで通知を知らせる音が鳴り響き、ゆっくりと携帯電話を右手に取り出して、画面を見る。


「……もしもし?」


 若干の間。

 少しだけエマの声が震える。らしくもない。が、大凡の人間では彼女の感情の機微には気が付かないだろう。


『エマ……よね?』


 不安そうにエマ以上に震える中年女性の声が聞こえて、表情の硬いエマの瞼が僅かに下に落ちた。

 電話から響いたこの女性の声は小さな頃から聞き慣れていて、最近では中々、聞くことのなくなった懐かしい声だ。


「うん」


 確かめる様な声に、嘘をつく必要もないと思ったのか。いや、単純に反射で返事をしただけだろう。

 そして直ぐに本題の一言が告げられた。


『──エマ、帰ってきなさい』


 今までにない程に、いや、エマが家族のいるあの家から出ると決めた時と同等か、それ以上とも思えるほどの芯の通った声だ。


「お母さん……」

『お願いだから帰ってきて。最近、事件があったのよね?』

「……大丈夫」


 彼女の言う事件とはまず間違いなくアダーラ教徒によるテロ事件の事のはずだ。分かり切っている事実なのだ。


『大丈夫なんじゃなくてっ……! お願いだから! 帰ってきなさいよ……!』


 叫ぶ母の声にあったのは単純な怒りではない。腹の底から湧き上がる、悲哀の情が直接、面を向き合わせ話をしているわけでもないと言うのに痛いほどにエマに伝わってくる。


「…………」

『あなたが大事なのっ。あなたはお爺ちゃんみたいな英雄になんかならなくてもいいの……!』

「違うよ、お母さん。私がなりたいの。ひいお爺ちゃんみたいに」


 彼女の憧れだ。

 エヴァンスの姓を名乗るのは彼女の憧れの体現なのだ。『悪魔』と恐れられた戦場の英雄に彼女は焦がれている。


『ねえ、エマ』


 呼びかける声に一方的に謝罪を一言だけ残す。


「ごめんね、お母さん」


 通話を切って、エマは上を見上げる。代わり映えもしない白色の天井が広がっている。エマだって自分が正しくない事くらいは理解できている。

 我儘だ、命のかかった。

 エマの人生における最大の我儘だ。

 それでもエマの母は母として確かに彼女のことを愛し、何よりも心配していた。愛するたった一人の娘に心を砕くのは当然とも言えた。

 通話が終わった携帯電話を右手に持ってポケットにしまうこともなく力なく立ち尽くす。


「エマ、何かあったのかい?」


 通りすがったベルが天井を見上げているエマに声を掛ける。


「ベル……」


 視線をベルに向ける。

 顔を見てもエマの表情の変化は薄く、何を考えているかは分かりもしないが先程の素振りから何もない訳ではないだろう。


「特に……何でもない」


 ただ、彼女は事情を説明しようとは思わなかった。他人が気にする様な事情でもないと考えたからだ。


「……へぇ、そうかい。取り敢えず、アタシに付き合いな」


 ベルはいつもの様にエマを誘う。


「訓練?」

「ああ」


 彼女の提案にエマは乗ることにした。心に引っ掛かる様な感覚に、今はこうした方が良いと思ったのだ。

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