獣、闘い 02



「すごい食欲…」


 ふやかしたドッグフードに貪りつく犬を私達は眺めていた。

 毛むくじゃらの小さな体は愛くるしいけど、一心不乱に餌を食べる姿はレイのいう通り「可愛くても獣なんだよ……」と獣を思わせる。


「そういえば、名前は?」

「ハナちゃん」


 レイが口にした瞬間、ハナちゃんはくるりと首を回してこっちを見る。


「ヒィ……呼んでないよ〜。どうぞごゆっくりご飯食べてください……」

「ビビり過ぎ」

「だって食べ終わった瞬間に走り回るから」


 昨日までの陽気で楽観的で適当で調子こいてる姿は影を潜め、ハナちゃんに怯えていた。


「動いていないとホントぬいぐるみね」

「ね、最初はなんか感動したよ。もふもふで可愛いなぁ〜って。でも、中身は飢えた生物、可愛さで惑わせて、実際は恐ろしい猛獣なんだよ」とレイは警戒を強めた。


「そういえば、この子、メスよね?」

「あれ、よくわかったね。犬って股間見る以外でオスメスの区別できるの?」

「さっき部屋の隅でしゃがんでおしっ──」

「おい、ハナちゃんは女の子なんだぞ。部屋の隅でお花を摘んで、と言いなさい。サクラだってもしも犬に飼われる立場だったら、メスニンゲンが部屋の隅でおしっこした、なんて言われたらイヤでしょ?」


 確かにそうね……とアホな想像に一瞬でも納得しそうになった私に腹が立つ。


「……部屋の隅で花摘みしてた時に、足を上げなかったから」

「なるほど」

「トイレは自由なの?」

「ううん、そんなわけねぇだろ。飼い主さんに借りたよ。あれ」レイが指差す先に、プラスチックで作られたトレーがある。「そこで花を摘めよ、と昨日必死に教えたのに全然覚えてくれないの」


 レイは歯を食いしばって悶える。まるで小型犬が威嚇しているようで、ハナちゃんと同じだ……となんか感動した。私がレイに抱く小動物っぽい感覚は間違っていなかったのね。


 ハナちゃんに威嚇するレイを眺めながら、先程の光景を思い返す。


☆★☆★


 ──レイは部屋の隅で用を足したハナちゃんのお尻をウェットティッシュで拭った後、ティッシュを水溜りに投下して吸収させた。だが、ティッシュを見たハナちゃんは再び接近する。レイは寸前のところで腕でガードしたが、ハナちゃんはその隙間から首を伸ばして重なったティッシュの一部を咥えて千切り、逃げる。


「あ、コラ! サクラ、口からティッシュを奪い取って! 飲み込んだらヤバい!」

「でも……」

「大丈夫、染みてない端っこを千切って食っただけだから!」


 私はレイに言われるがままハナちゃんに近づき、口に手を差し込んだ。幸いにも歯の間に小さな切れ端が挟まっていたので、それを指で取り除く。


「取ったわ!」

「はぁ、ありがと〜。もしも飲み込んでお腹壊したらと思うと……」


 レイは泣きそうな顔で床を拭っていた。


☆★☆★


「昨日から元気200%でさ、ひたすら駆け回るの……。お母さんと二人で世話してたけど、今日はお母さんは仕事だって言って逃げるし。お母さんが私に可愛い犬を一日預かるの、どうかな? と誘ったのに……。まぁ、即了承した私も悪いけどさ……。はぁ、可愛いのは最初だけ、元気無限でもう疲れたよぉ」

「だから私を呼んだのね?」

「うん、お母さん曰く、サクラちゃんも巻き込んで後の世話を任せよう、oh!ナイスアイデア……って、おっと何でもないです」

「全部言うな」

「ホントは今日の午前中までにはしっかり躾してさ、サクラに可愛い子犬を従える優雅な私を自慢するつもりだったのに……」


 疲れ切った顔でため息をつく。

 可愛い子犬と可愛いレイの組み合わせ、可愛いが重なって胸焼けしそうじゃない。


 ハナちゃんはペロリと餌を平らげ、トコトコと私達の下に近寄ってきた。


「ほら来たよ。サクラちゃん、遊んでちょーだい! って顔してる」

「……あんた、犬の気持ちも読めるの?」

「いやわかんない。多分毛が邪魔……。私の能力はサクラ専用──」


 どんっ!

 不意にハナちゃんがソファに突撃してきた。

 うわっ、と私達は二人揃って跳ねる。

 ハナちゃんは尻尾をふりふりしながら、私達を眺めている。


「ハナちゃんは小さいから登れないよ〜。お、諦めた。でもほっとくと部屋の隅を掘るので……サクラ、このお気に入りのオモチャで遊んであげて」


 レイは私に小さなネズミ型の人形を渡す。元は白色だと思うけどボロボロに汚れている。


「ぽ〜い、って投げたらハナちゃんは獲物に飛びかかる獣の如く、ってか文字通り飛びついて、もっかい投げて~、ってこっちに持ってきてくれるよ」

「へぇ……」


 潰すとピー! と音が鳴るオモチャだった。音を鳴らすと、ハナちゃんはピクン! と反応する。

 ──正直なところ、ボールを投げて犬が健気に追いかけて飼い主の下に持ってきてくれる、という光景に憧れを抱いていた。飼い主とペット、種の垣根を超えた友情に不思議な感嘆を抱く。


「いくわよ~、それっ」


 ゆっくりと投げた。

 弧を描いて空中を飛ぶオモチャを、ハナちゃんは必死に追いかける。

 無我夢中で飛びつくと、ピー! ピー! と何度も口の中でオモチャを噛んで音を鳴らす。


「すごい、一瞬で捕えた。たくさん鳴らしてるわ!」

「あのピーって音が、獲物を噛み砕いた時に発する断末魔にそっくりなんだって」

「余計な情報を入れるな。ハナちゃん、おいで〜〜!」


 ハナちゃんに呼びかけた。

 私の下に一直線に駆け寄り、また投げて投げて! と澄んだ瞳で見つめてくれる、という光景を思い浮かべた。

 が、ハナちゃんは私を見た後、プイッと顔を逸らしてトテトテと歩いて部屋の隅に逃げて行った。部屋の隅からピーピーと断末魔が哀しく響く。


「ハナちゃ~ん……、ハナちゃん? ……ねぇ、来ないわよ」

「やれやれ、サクラ舐められてるんだよ。てめぇみたいな牛乳臭いガキンチョにワタクシ様が頭を垂れると思いましてぇ↑↑? って感じで」

「ハナちゃんはそこまで口悪くないわ。きっと人見知りなのね」

「期待を裏切るようで悪いけど、飼い主さん曰く人間には懐きすぎて番犬には絶対なれないタイプだってさ」ケケケ、とレイは笑う。

「そういうレイは、できるの?」


 レイに問うと、ニヤリと不適な笑みを浮かべた。調子こいたレイも可愛過ぎる。


「──人と獣、最初は色々あったよ。でも多くの障壁を乗り越え、今ではもうすっかり仲良し」

「へぇ、それじゃあレイが呼んでみなさいよ」

「ふふふっ、見てな。ハナちゃ〜〜ん! カモ〜〜ン!」


 だが、呼びかけにすら反応せず、おもちゃを鳴らしながら部屋の中を闊歩している。


「お〜い、ハナちゃん、来てよ、あの…頼む、来てください……。畜生の分際で人間様を舐め腐りおって……」

「ね、私が声をかけた時は反応したけど、レイに至ってはまるで反応しないのね。レイの方が舐められているんじゃない?」

「あーちょっと反応されたからってすぐマウント取る。待って、次は見事呼び寄せて見せるから。本気でやるから、サクラはハナちゃんが逃げ出さないかじっくりと観察して」


 レイはそう言ってソファから降りる。私は、ハナちゃんではなくレイを観察する。ふらっとテーブルに近寄って、小物が積まれたところから何かを掠め取った。そしてハナちゃんに向かって「ハナちゃーん!」と声をかける。

 すると、先程までレイのことなんか眼中になかったはずなのに、おもちゃを口から落としてレイの下に駆け寄った。立ち上がってレイの膝に前足を乗せたり、ぴょんぴょんジャンプする。

 怪しい──。


「わぁ、ねぇ、見て! ハナちゃんが来てくれた! やーん、そんな飛びついて喜び狂い悶ている……。私に呼ばれるのがそんなに嬉しいの? 現実は非情だね、これが人間力の差だ。サクラ、種の垣根を越えた美しき友情を刮目しろ!」

「……その手に持ってるのは何かしら?」

「何も持ってないが」

「ウソつけ」


 レイの腕を掴み上げると、ポロッと何かが指から零れ落ちる。


「あっ!」


 豆粒ほどの四角い物体が床に落ちた瞬間、ハナちゃんは目にも止まらぬ速度で飛びつき、ガシガシと噛み付いて食べ始めた。


「え、食べちゃったけど、大丈夫なの?」

「オヤツだから問題ないよ。なんだその目は。……はいはい、不正しましたよ~。でもオヤツ程度で赤の他人に尻尾振る(文字通り)ハナちゃんもよくないよ~。もっと人を疑え。私は善良なる人間の代表と言っても過言でもない優しい人間だけどさ、……外見は平静装ってるけど心に恐ろしい獣を飼ってる人間も居るんだよ」チラチラ私を見ながら言う。飼ってねぇ。

「ってか開き直ってるし……。ね、ハナちゃんがこっち見てるわよ」

「オヤツくれ〜、もっと食べさせろ〜って目で訴えてくる。ほら、そういう視線に弱いサクラもあげてみるかい?」

「そ、そうね」

「ん、おやおや、まさかビビってる?」

「ビビってなんかないわよ」


 実際少し腰が引けていた。こんなヌイグルミに命を吹き込んだような風貌をしているのに、予想以上にしっかりと生物で、オヤツを持ったレイに飛びつく様は猛獣に近い動きだった。


「あ、さっきは速攻食われたからできなかったけど、ちゃんとお手とかできるんだよ。まぁ見てな」


 レイはオヤツを一つ手に取り、ゆっくりとハナちゃんの下に進む。

 飛び跳ねるハナちゃん。


「はい、ハナちゃん〜、お座り……お座り〜〜〜なんで、朝はしてくれたじゃん。ほら、お座りしないとオヤツ抜きだよ、いいのか? おい……頼む〜そろそろ後ろからまたかよじゃない、って嘲笑う冷たい視線が突き刺さる~~~ほら、した、お座り! いいこだねぇ〜〜!!」


 騒ぐレイに飽きたのか、ちょこんとお座りをしたハナちゃんに、レイはまるで犬のように喜んだ。犬が犬をあやしている。なんだかよくわからないけど、じーんと胸に響くような優しい気持ちを覚える。


「いくよ、まずお手、おかわり──からの、ターン!」


 お手とお代わりはハナちゃんの手を右左! と差し出す速度が早すぎて形だけしかできていないけど、ターンに関してはくるっと回転した。


「お〜!」

「わぁ偉いぞ~よしよしよし~、はい、お食べ……もう食った!」


 私もレイによしよしされたいィィ……じゃなくて、「お手だけじゃなく、ターンまでするのね」「これが私との絆だ。お手はめっちゃ雑だけどね。これでいいっしょ? って感じ。じゃあ、サクラもあげていいよ」


 レイにオヤツを渡される。

 ハナちゃんは今度は私の足元でぴょんぴょん跳ねる。その小さな体が生み出す力強いパワーに跳ね返されそう。


「ハナちゃん、お座り!」


 しゅたっ、とハナちゃんはお座りする。

 なんと、一発で成功した。

 小首を傾げるハナちゃん。か、かわいい……。胸にズギュン! と衝撃が走る。それに耐えながら、どぉ? とレイを見やると、レイもハナちゃんと同じく小首を傾げる。か、かわいい〜〜〜〜!!! 顎に真下からパンチを喰らったかのような衝撃に足元がふらついた。

 ダブルカワイイパンチに耐えながら、ハナちゃんに手を差し出す。


「お手……違う、もっとゆっくりそう……続いてお代わり、そしてターン! できた、凄い、レイより賢いわ!」

「いやそれくらい普通にできますけど!」

「犬と張り合うな……」 


 ハナちゃんにオヤツを与えると、くしゃくしゃと嬉しそうに食べた。


「この子、まだ子犬よね?」

「うん。今は小さいけど、成長したらサクラなんか簡単に背中に乗せられるくらいに大きくなるよ」「え、そうなの?」「……う、ごめん嘘です。そんなにキラキラと目を輝かせるとは思わず……」


 幼い頃、目が隠れるような体毛に覆われた大きな犬の背中にしがみついて、埋まることが夢の一つだった──。


「可愛い夢持ってんじゃねぇーよ!」

「あ、散歩は行けるの?」

「一応ワクチン打ってるから……でも」

「でも?」


 レイはそっとハナちゃんを撫でようと手をかざすも、ハナちゃんはその手を避けて逃げた。レイは一瞬硬直した後、何事もなかったかのように続ける。


「まぁ、無理」「なんで?」「飼い主の隣をちょこちょこ犬が歩く朗らかな光景を想像してるだろうけど、ハナちゃんはそんな生易しいペットじゃないから。現実は、首輪から伸びるリードを引きちぎる勢いで這いずり回り、犬に引っ張られる私達の光景が繰り広げられる。ってか、この犬、おいくらすると思う?」

「……え、わからない」

「なんと──」


 ガチャで例えるなら、天井数回分……。

 ソシャゲを長い間遊んでいるけど、一度も天井まで回したことが無いので(多分)天文学的な数字ね。


「すぐガチャで計算しない……。まぁサクラお嬢様にとっちゃはした金かもしれないけどさ、私にとっちゃ死活問題、お小遣い何十年分かわからない……。部屋のくまたんを全て売り払っても届かないでしょう。そんなお犬様をお外にお出してお汚れたりお怪我したり、ましてやお道路にお飛び出したりでもしたら……おあわわわ」

「確かにこのパワーで引っ張られたりでもしたら、リードを持っていかれそうね」

「でしょ、だから外には出しません。家の中で体力を消費して、もう少し大人しくなると助かるんだけど、体力が無限……」


 レイの言う通り、ハナちゃんは私達がもうオヤツをくれないと理解したのか、再びおもちゃを咥え、鳴らしながら部屋の中をウロウロと探索し始めた。レイが「ちょっとおもちゃ取り返してくる!」と果敢に攻め込むも、ハナちゃんは咥えたおもちゃをレイに触れさせず、レイの腕を掻い潜って器用に逃げる。私もレイと連携して追いかけるも、すいすいと躱して、もこもこした毛にも触らせてくれない……。

 更には、途中で疲れたレイにそっと近づき、レイがぐるっと首を回すと逃げる。が、またそっと近づいて……と反応を伺っていた。


「こいつ……私を煽ってやがる」

「ホントすばしっこい……」

「人間様のよぉ、力を甘く見るんじゃねぇ!」


 レイはフェイントをかけながらハナちゃんに接近した。

 ハナちゃんの反応が一瞬だけ遅れる。

 僅かな時間。

 レイは頭からダイブするように加速し、両腕でハナちゃんを押さえ込む。

 一体、何をする気なの?


「いくよ──。モノマネします、サクラのマネ、します」

「……え?」


 そう言いながらレイは顔をハナちゃんの背中に押し付けた。

 そして、すぅぅ……と息を吸い込む。


「……レイ?」

「犬吸い」


 以前、SNSで見たことのある光景だった。犬や猫に顔を埋め、匂いをすぅぅ……と嗅ぐ。中毒性が凄い、とのことらしいけど──。


「なんでそれが私のマネなのよ」「よくしてるし」「してないわよ」「よくされるんです……」「……してません」「はぁ……堪りませんな」「……いい匂いなの?」「例えるならそう──ペットショップの匂いを5倍ほど濃厚にした感じ」「あ、そう……」「サクラもやる?」「遠慮するわ」レイで十分だから。


 レイはハナちゃんを開放すると、ソファに座った。

 私も……。

 二人で、大きなため息をつく。

 なんだか、もう疲れてしまったわ。


「大変ね、生き物を飼うのって。数時間だけでも疲れるのに、これが毎日は身が持たないわ」

「……ふふふ、ククク……あッはッはッ!」

「ねぇ、晩御飯どうする? ハナちゃんを一匹にできないし、私はハナちゃんと一対一は不安だから、私が何か買って来るわね」

「突然笑い出したら反応して!」

「面倒臭い」どうしたの?

「逆! ねぇ心と声が逆! 器用だねぇ!」「レイなら私の心読んで反応してくれるから」「いやそうだけど、まぁそういう能力持ちだけど……あまり頼らないで」

「どうして?」

「私の必殺技みたいなモノだから……」


 その割にはほぼ毎日私は能力あるから人の心が読める、そう言ってるじゃない。

 まぁ、冗談で言ってるのだろうけど、こうも精度が高いと本当なの? と疑うこともある。


「で、何なの?」

「サクラ、こんなもんじゃないよ」

「ハナちゃん?」

「まだ、まだ……この程度で……ああぁぁ」


 レイがか細い悲鳴を上げた。

 今度は何? と思ってハナちゃんを見やると、また走り回っている。

 ……ただ、少し様子がおかしい、と気づく。

 何かに追われるかのように必死だった。テーブルの下に潜り込んだと思ったら、今度は私達のソファに近づいてぴょん! と大ジャンプした。


「うわ、乗ってきた。この短い間で成長してる!?」

「暴れてるの?」

「そう、暴走……だよ」


 レイはゴクリと唾を飲み込んでから言う。

 でもレイの表現もあながち間違っていないわ。先程までの逃げる姿にもどこか愛らしい雰囲気が残っていた時と異なり、全速力で疾走していた。ソファから降りて走ってまたジャンプして……とハナちゃんの暴走は止まらない。おもちゃを咥えると、まるで獣が獲物の喉笛を噛みちぎるかのように首を荒々しく回して放り投げる。


「本当に何が起きてるの。大丈夫なの?」野性的でパワフルな姿に恐怖を覚えた。

「……そろそろ。サクラ、こっちに来て──。ミスは絶対に許されないから」

「レイ?」


 いつになく真剣なレイの横顔にどきっと胸が鳴る。研ぎ澄まされた表情は可愛らしさと格好良さを兼ね備え、思わず写真に収めようとした。でもなんかレイが本気なので辞めた。


 ダダダダッ! とハナちゃんが、部屋の隅に向かう。

 その先には、50センチ✕50センチほどのトレーが置かれ──犬用のトイレが設置されている。


「よし、今がチャンス。サクラ、こいつでハナちゃんをトイレから逃さないように囲って。いくよ」

「は、はい……」


 渡された囲いのパーツを私とレイでそれぞれ持ち、二人でハナちゃんが移動できないよう壁を作る。

 ハナちゃんは逃げられないと悟ると、犬用トイレの上でぐるぐると回り始めた。

 ぐるぐるぐる──。


「よし、サクラ……ここからは私の指示に従って。まず、イチっ! ニっ! イチっ! ニっ! と声を出す」

「え、え? なんで?」

「そう教わったの。それで躾てるんだって」

「イチ、ニ……イチ……ニ……」

「もっと大きく、イチッ、ニッ! イチッ、ニッ!」

「イチッ、ニッ! イチッ、ニッ!」


 私達はハナちゃんをトイレの上に閉じ込めながら、「イチッ、ニッ! イチッ、ニッ!」と声を出す。突然謎の儀式が始まる。意味がわからないけど、レイが真面目に言っているので従うしかない。すると、ぐるぐる回転していたハナちゃんがふと、止まった。


 ……ぷるぷる震え始める。

 つぶらな瞳で、私とサクラを見つめながら。

 ぷるぷるぷる──。


「……まさか」

「サクラ、次は辺りを見回して! 犬って無防備な時に飼い主が周りを観察していないと不安になるの!」

「はい……」


 二人でキョロキョロと視線を飛ばす。

 その間も、ハナちゃんはプルプルと震えて──。


「やった、成功! ハナちゃんすごい! もしもソファやカーペットの上に出したら私がお母さんに〆られるところだった……はぁ~~~、バンザイ! ほらサクラも喜べ!」

「私も?」

「うん、この上で出したら周りの人間共が喜んでくれる! と思って今後もトイレの上に行くようになるから」

「わ、わぁ~、すごいわ~~!」「大成功! ハナちゃん素敵!」「カワイイ」「賢い!」「優雅!」「雅!」「……もういい?」「うん、これでハナちゃん様も満足でしょう」「……そうね」


 囲いのパーツを床に置き、レイは「はぁ……よしっ! 最後の仕上げだ」と気合を入れて引き抜いたウェットティッシュを、私に渡す。


「無理イヤ拒否ヤダ断る」

「まだ何も言ってない。私は……あれをトイレットペーパーに包んで、人間用トイレに流してくるから、サクラはハナちゃんのお尻を拭いてあげて」

「本当にごめんなさい。私、お嬢様育ちだからそういうの禁止されているの」

「自分で言うんじゃねぇ! マジで逃げるな! ねぇ、私一人に全て背負わせようとしないで……。ちゃんと分担してるから、お願い……サクラ。早めに拭き取らないと、部屋が……うん、この子のアレで汚染されてしまう」とレイは瞳をウルウルさせる。

「その目で見ないで……。あとさっきから例の言葉を口にするな」

「うん、これが……ペットを、動物を飼う──命を預かるってことなんだよ」


☆★☆★



//続く

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