第12話

【2】


 時間はほんの少しばかりさかのぼる。たまたま屋上の扉の鍵が開いていたのは、彼女にとって幸いだったのか、それとも不運だったのか。ただ、寄りかかったフェンスが何の前触れもなく外れてしまったのは、間違いなく不幸だったと言えよう。


 体を支えていたものを失い、彼女――程島遼子は、わずかな時間の空中遊泳へと飛び出した。ふわりと体が浮かび上がり、まずいと思った時には宙に体が放り出されていた。


 女の勘というものは恐ろしいものだ。明確なロジックもなく、何の脈絡もなしに答えへとたどり着くことができてしまうのだから。もっとも、それがゆえに追い詰められた遼子は、こうして望みもしない空中遊泳へといざなわれたのかもしれないが。


 やっぱり、あの人だったんだ――。あの反応、あの表情、そして血相を変えて遼子を追いかけてきたという事実。遼子が確信するには、それで充分だった。前々から抱いていた違和感だって、そう考えれば全てが収束する。


 人間の脳は、死の危機に瀕してから、ようやくその能力を全て発揮する。まず流れている時間がゆっくりになり、コンマ数秒という短い時間の間に、様々な思考を飛び交わさせる。自分が落下したという事実を悟り、そして次に何か掴むものがないか――命を失わずに済む方法がないかを模索する。この時の遼子もそうだった。


 緞帳どんちょうを降ろしたような闇が遠退き、自分がついさっきまでいたはずの屋上が遠くなり、そして徐々に校舎の全貌が明らかになっていく。そう――地面が近付いているのだ。


 なす術もなく、脳天を突き抜けるような衝撃が体中を駆け抜け、全ての景色が止まった。飛び降りは途中で意識を失うから楽に死ねるなんて話があるが、それは全くの嘘だ。落下から着地にいたるまで、意識など一切途切れないではないか。


 痛みはなかった。ただ、体の内からじんじんとした痺れが広がる。それに伴って痛みではなく熱が体を支配した。


 とりあえず右腕を動かしてみた。動きはしたが、まるで自分の腕という感覚はない。他人の腕が自分の命令に従って動いているような、気味の悪い感覚であった。


 頭がぼぅっとする。まるで頭の中からこれまでの全てが流れ出てしまうような、自分が自分でなくなるような不安がまとわりつく。それでも遼子は力を振り絞り、スカートのポケットからスマートフォンを取り出した。


 視界が二重――いいや三重にも四重にもなっていることに気付いたのは、画面に見事なヒビが入ったディスプレイの明かりを見た時のことだった。いつも見ている待ち受けの画面が、幾重にも連なったかのように見える。


 たまたま、江崎とアドレスを交換した際のメール画面が残っていた。――伝えなきゃ。誰でもいいから伝えなきゃ。三年一組を襲う惨劇には正体が存在することを。葛西が主張した通り、あれはオカルトなどではないことを。


 震える指でスマートフォンを操作し、なんとか江崎にメールを送れるところまで持ってくる。後は本文を入力して送るだけだ。


 ふっと腕の力が抜けた。とうとう、スマートフォンなどという軽量のものすら持ち上げる力が失せてしまったのか。もう地面へと到達しているはずなのに、意識が真っ暗な闇の中へと落ちる感覚に囚われた。きっと、この闇の中へ落ちてしまったら、二度と這い上がることはできない。


 遼子は自分の感覚を頼りに文字を打ち込んでいく。普段は何の気なしにやってのけている行為が、とても難しかった。その普段の感覚を手繰り寄せながら、すぐそこに迫っている闇と戦った。――闇の力は強大だった。まだ本文を打ち込み始めたばかりなのに、ゆっくりと視界が狭まり、周囲の音が小さくなっていく。五感の全てがすっぽりと闇に包まれるような感覚。それでいて、どこか心地良いものがあった。


 もう自分はもたない。自分の体のことは自分が分かるとは本当のことで、どう足掻いても自分が助からないことも、闇を二度と払うことができないことも、直感的に感じ取っていた。


 最後の力を振り絞って腕を上げ、スマートフォンのディスプレイを確認する。もう、画面に何が表示されているのかさえ分からない。本文も中途半端なままである。それでも遼子は江崎に向かって、最期のメッセージを送った。


 江崎の幼馴染には、あの葛西がいる。きっと葛西なら、このメールの意味に気付いてくれるはずだ。それが例え中途半端な文だったとしても、補完して理解してくれるはずだ。


 全くもって短い人生だった。それなりに自分のやりたいように生きてきたし、高校生活は充実していた。小学校から一緒の根岸理子と、スピーカーコンビなんて呼ばれていたが、実のところ嫌な気はしなかった。ステレオがモノラルへとなったら、きっと理子も悲しむんだろうなぁ。


 呼吸が遠退とおのいた。心音さえもが、遼子の体を離れていく。視界は目の前に真っ黒な風呂敷を広げたようになり、意識がその中へと吸い込まれていく。


 体の力は抜け、そして遼子はゆっくりと呼吸を止めた。彼女の意思ではなく、自然の摂理に従って。――程島遼子の短い生涯に、ゆっくりと幕は降りた。

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