第7話

【3】


 車内は充実した疲労感でいっぱいだった。練習試合には負けてしまったものの、あの強豪校を相手に延長戦まで持ち込めたのだ。肩の調子も良かったし、バッテリーを組んでいる高橋との意思の疎通もばっちりだった。甲子園の予選に向けて、各選手もしっかりとコンディションを整えてきているようだし、これはもしかするともしかするかもしれない。


 学校から借り、顧問が運転するマイクロバスに乗って、強豪校のグラウンドを後にしたのが夕方頃。今は辺りも真っ暗になり、外灯がぽつりぽつりと点在する峠道へと差し掛かっていた。生活感のある街の明かりとは違い、行きずりの外灯のオレンジ色は、バスの中をほんの少し照らしては、去って行く。そこに寂しさのようなものを感じるのは、やはり車通りの少ない峠道だからだろうか。


 少しばかり汗の匂いが漂うバスの中は、実に静かなものだった。疲れて眠ってしまっている部員がほとんどであり、フロントガラスではワイパーが休みながら往復運動を繰り返している。昼間は辛うじて晴れてくれていたが、どうやら徐々に崩れつつあるらしい。まだ梅雨は明けていないのか。


 最後部に座っていたピッチャーの津幡は、スマートフォンと繋いだイヤフォンを耳に突っ込み、音楽を聴きながら練習試合を振り返っては、誰にも気付かれぬように笑みを浮かべる。あそこのストレートからのシンカーは、我ながら絶妙な駆け引きだった――なんてことを思い浮かべつつ。隣ではバッテリーを組んでいる高橋が、大いびきをかいていた。


 つんと汗の匂いが鼻について、津幡は思わず自分のユニフォームの匂いを確かめる。こんなバスの中ではあるが、女子マネージャーも一緒に乗っている。二人しかいない女子マネージャーは、互いに寄りかかって寝息を立てているようであるが、ここは男として少しでも気を遣っておくべきだろう。焼け石に水ではあるが、最低限のエチケットは必要だ。


 津幡はデオドラントスプレーを取り出そうと、足元に置いてあった自分のバッグへと手を伸ばした。バスは峠道を上りきり、下りへと入ったようだった。少しばかりスピードが上がったような気がする。


 得てして、このような時は目的のものが見つからなかったりするものだ。車内が暗いのも手伝って、デオドラントスプレーが見つからない。バッグの中をかき回した挙げ句、サイドのポケットに入れていたことを思い出し、津幡はバッグのサイドポケットを開けた。バスのスピードが、先ほどよりも増していた。


 ぐわん――と、バスが大きく横に揺れた。取り出そうとしていたデオドラントスプレーを取り落とし、それがバスの動きに合わせて床を踊る。そこでようやく、津幡は何かがおかしいことに気付いた。自然と運転席のほうへと視線を移す。運転をしていた顧問の先生が、どういうわけかハンドルにもたれかかるように、前のめりになっていた。


 またしてもバスが大きく横揺れをした。たまたま来ていた対向車がクラックションを鳴らしながら、辛うじてバスの横をすり抜けて行った。スピードが信じられないほどに出ている。ここは高速道でもなんでもない。曲がりくねった峠の下り道だ。こんなスピードでは、いずれどこかにぶつかってしまうだろう。すっと体から血の気が引いた。


「おい、みんな! 起きろ!」


 津幡はイヤフォンを外し、声を荒げながら立ち上がった。それと同時に隣でいびきをかいていた高橋の頬を平手打ちする。高橋が不機嫌そうな顔を津幡へと向けてきたが、その時すでに津幡は走り出していた。


「高橋、手伝えっ! 先生の様子がおかしい!」


 スピードは緩まるどころか、さらに速くなる。津幡の怒号と車内の様子で異常を察したのか、運転席へと駆け寄る津幡の姿を、何人かの寝ぼけ顔が見送った。


「先生! どうしたんですか? 先生!」


 ハンドルにもたれかかったまま動かない顧問を揺さぶってみる。しかし反応はいっさいなかった。ワイパーが撫でるフロントガラスの向こう側には、急カーブを知らせる警告看板が見えた。車の運転はしたことがなかったが、津幡はとっさにハンドルを握り、それを思い切りカーブの方向へと切った。これまで以上にバスが大きく横滑りをし、車内には悲鳴が飛び交った。


「高橋! 先生の足をどけろ! それか、そこからブレーキを踏み込め!」


 事態をようやく察したのか、真っ青な顔でやってきた高橋に声を飛ばす。顧問の横からハンドルにかじりつき、津幡はなんとか体制を立て直そうとした。必死だった。


「ブレーキって、どれがブレーキなんだよ!」


「どれでもいいから踏んでみろって! このままじゃ――」


 もはやバスのコントロールは効かなかった。バスの横滑りは止まらない。オレンジ色の外灯の明かりが、これまで見たことのない動きをしながら、断続的に車内を照らした。


 がしゃんと音がして、ふっとバスの車内から重力が消え失せた。ふわりとした浮遊感の後に、下のほうへと向かって急激に重力がかかる。


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 情けない叫び声を上げながら、津幡は悟った。あぁ、こんなところで死ぬのだなと――。上下左右が反転を繰り返した後、凄まじい衝撃と共に、津幡の意識はどこかへと飛んでしまった。静まり返った車内には、イヤフォンからシャカシャカと音楽のみが流れていたのであった。

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