霧雲の本棚

夜霧 ふらむ

ミーム・パスティカノ神殿

 パスティカノ神殿という物がこの世にはある。僕は、そのパスティカノ神殿に夢中だった。

 ある日、インターネットでその珍妙な名前を見たその時から虜になってしまったのだ。


 パスティカノ神殿が何という物なのかは未だ解明されていない。しかしインターネットにその名は知れ渡っていて、多くの人がパスティカノ神殿の情報を欲していた。もちろん僕もその情報を欲する側の人間である。


「さて……と」

 僕はボサボサだった髪をセットし、自分の中で一番自信のある服に着替えると、勢いよく外に出た。


 今日はパスティカノ神殿の謎を解明するべく、ある女性とカフェで待ち合わせる事になっているのだ。僕は生まれてこの方、女性とは無縁の生活を送っていたので、緊張でおかしくなりそうだった。しかしパスティカノ神殿の謎を解き明かすためなら、そんなものは叩き壊せる脆い壁でしかない。勢いだけが、今の僕を支配していた。


 カフェに着くと店員に話しかけ、指定された場所まで向かった。一人の女性がコーヒーを嗜みながら、タブレット端末を真剣に眺めていた。

「はじめまして、来てくださったのですね」

 女性はタブレット端末を見ながら軽く頭を下げる。

「はじめまして、今日はよろしくお願いします」

 こうして、僕のパスティカノ神殿探しが幕を開けた。


——


 それから何度も、その女性とはパスティカノ神殿の話をした。毎日のように話をしても、新しい説や考察、都市伝説が生まれ、話題が尽きることは無かった。

 女性との関わりも、最初はカフェだけだったけれど、次第に映画を見てリフレッシュした後考えようとか、今回はイタリアンレストランでどうかとか言いながら、様々な場所へと向かい、その都度パスティカノ神殿の話に花を咲かせた。


 時にはもちろん喧嘩もあった、お互いの説が噛み合わずに僕が私がと言い合いになってしまったのだ。それでも最後は笑ってお互いの説を尊重できるのだから、不思議なものだと思う。

「案外、私たちって“合ってる”のかもね」

「合ってる?」

「こんなにずっと話をしても、飽きていないから。私、飽き性なんだ、パスティカノ神殿の話だって、どうせすぐ飽きると思ってた。でも……」

「それだけこのパスティカノ神殿の話は魅力的だし、僕も君も同じものに惹かれたのだから、確かに合ってるかもね」

 僕はそう相槌を打つと、女性は嬉しそうに笑った。


 そんなこんなでパスティカノ神殿の話で盛り上がったある日の午前、僕はふと思い立って女性を遊園地に誘うことにした。物事を考え続けると疲れてしまうと思ったからだ。結果としてそれは大正解で、ずっとパスティカノ神殿の話をしていた僕たちには、遊園地での刺激は良いストレス発散になった。

 二人で観覧車に乗って気分を高めた後、すぐさまジェットコースターに乗り込んだ。隣に乗った女性はきゃあきゃあと叫んでいたものの、なんだかそれも愛おしく感じられた。そして、途中でアイスクリームを買ったのだけれど、僕がヘマをして落としてしまったので、二人で一つのアイスクリームを食べることになった。若干気恥ずかしかったけれど、女性もまんざらではない様子だった。


 そうやって一日中楽しんだ。パスティカノ神殿の事なんて、もうすっかり忘れてしまうくらいには楽しんだ。


 夜は花火のイベントがあるらしいので、二人でそれを見ることにした。暗い空をぴゅうっという音と共に光が空高く飛んでゆき、大きな音をさせて弾けた。

「綺麗だね」

「うん、しっかし花火なんて久々に見たな」

「あんまり、ご縁が無かったの?」

「ストレートだな……」

「えへへ……私も、同じだから」

 そんな会話も、花火の音にかき消されてしまう。いつもパスティカノ神殿の事ばかり考えていた僕たちにも、このような息抜きは必要なんだと、そう感じさせる。


「ねぇ」

 女性から不意に声をかけられる。ちょうど花火が打ち終わり、次の準備をしているところだった。辺りを静けさが包んでいた中での声は、僕の中にすうっと入ってくるようだった。

「私たち……付き合わない?」

「えっ……」

「これからもずっと、パスティカノ神殿の話をしていたいの。それに、あなたと居ると新しい事を色々と知ることができるから……」

 女性は、最後は早口だった。よほど恥ずかしかったのかもしれない。そんな姿を見ているとすこし意地悪をしたくなってしまったけれど、流石にそれはやめて、無言で女性の方に手を差し伸べた。

「よろしく!」

 ぴゅうっと音がして、大きな花火が二人を包んだ。


——


 あれから、どのくらいの時が経っただろうか。遠くから妻の呼ぶ声が聞こえてくる。だから、この邂逅もそろそろ終わりにしようと思う。僕は結構、過去に思いを馳せる人間なのだろう、すっかりあの懐かしい思い出に浸ってしまっていた。


 結局、パスティカノ神殿というものが何なのかなんてわからなかった、気づけばインターネットからその言葉すら聞かなくなり、すっかりブームも廃れたようだ。

 だが、僕たちはまた新しいパスティカノ神殿にハマってしまい、妻と、そして二人の子供と、そのパスティカノ神殿探しを楽しんでいる。


 結局、何かにハマってしまうというのは、人間の性なのだろうと……。

 僕はそう考えて、ただただ平凡な、パスティカノ神殿のある日々に戻る事にしたのだった。

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