バーベキュー

 その直後、瘴気しょうきの尾を引く黒刃こくじんが夏の空に幾重にも閃いた。


 飛び散った海坊主の触手と一緒にショコラが落ちてくる。


 頭から砂浜に突っ込んだ彼女が、ズボッと頭を抜いた。


「ぺっ、ぺっ……た、助かったぁ……」


「俺は今から突っ込むから、次は捕まるなよ」


「あ、はいっ!」


 ショコラが慌てて立ち上がったのを見て、俺は海坊主に向けて駆け出した。


 出現から少し時間が経ったおかげで、都合よく奴の本体が浜に近づいてきていた。


 これは、一撃で仕留められるか……?


 黒鉄くろがねの兜の奥で、妖しい光が灯った。


 ドルルゥンッ! と甲冑の中で力強い排気音エギゾーストノートが鳴る。


 ドンッと砂浜を蹴って、海坊主に向かって駆け出した。


 襲いかかってくる奴の触手を切り飛ばして、ぐんぐん加速する。


 波打ち際が迫る。


 脚甲からブシューッと瘴気の噴流が吐き出され、その勢いを乗せて砂浜をドッと蹴り、高く跳躍した。


 両手で大戦斧を振り上げた統べる幽鬼レイン・アブザードの禍々しい甲冑姿が、すこやかな夏空に浮かんだ。


「――ぬぉおおおおおおおおおおおおおッ‼」


 〈反陰の虹ネガティブ・レインボウ〉――大戦斧の軌跡に、色の反転した虹が引かれ、それが海坊主の脳天に吸い込まれていく。


 黒い虹が海坊主の丸い頭に直撃した。その次の瞬間、衝突点を中心に真っ黒な衝撃波が爆音を伴って飛び散った。まるで夏空に上がった黒い花火だ。


 大戦斧はそのまま海坊主の真っ黒な頭をバリバリと割り裂いていき、やがて黒い虹が海面にまで到達すると、高い水柱を噴き上げて俺の身体は海中に没した。追って吹き付けた大量の瘴気が、高波と共に周囲に散っていった。


 手応えはあった。


 手加減無しの一撃。クリーンヒット。


 海坊主は死んだはずだ。


 海に沈んでいく中でその確信を得ると、俺はまた、海底を歩いて浜辺に戻った。


 ザブザブと、再び肩についた海藻を取り除きながら上陸する。


「――ショコラ?」


 ショコラの姿が見当たらなかった。


 どうやら〈反陰の虹ネガティブ・レインボウ〉の衝撃で起こった高波が、浜をさらったようだった。砂浜がびっしょりと濡れていて、海藻がそこら中に落ちている。


 はっとなって振り返る。


 瘴気が海霧となって漂う中に、ショコラの姿があった。波にさらわれたのだろう。必死に岸に向かって泳いでいるのが見える。


 まぁ、あいつの身体能力ならすぐに辿り着くだろう……。


 ひと仕事終えた俺は、どっかりとビーチチェアに腰を下ろしてタバコを取り出す。


 指パッチンで火を着けながら、ふと海を見やると、ショコラの姿が先ほどよりも小さくなっていることに気が付いた。


「――?」


 凝然ぎょうぜんと彼女の姿を見ていると、ショコラはこちらに向かって泳いでいるのにもかかわらず、どんどんと沖に流されている様子だった。もう、遠くにちっちゃくしか見えていない。


「……離岸りがん流か……」


 高波の引き潮で作られたのか、岸から離れる強い海流に捕まってしまったのだろう。それは運動神経抜群なショコラですら抗えない強烈な流れ。


 こうなると、俺にできることは何もない。


 泳げないからだ。


 重々しい甲冑は海底を歩くことしかできない。


 海面で藻掻くショコラを、助けることは、できない――。


「……ぽわっ」


 天を仰ぎ、煙を吹いた。


 瘴気が漂う砂浜に、白くて丸い円が浮き上がって夏空に消えていった。






 このエリアは特別に時間経過で陽が落ちる。丸一日夏を満喫するという目的のためだけにダンマスが発明した、執念しゅうねんのシステムだ。


 これをきっかけに、ここから先の階層では時間とともに日が昇ったり落ちたりする環境効果が加わることになった。凄いと言えば凄いのだが、動機が幼稚すぎて素直に褒める気にならない。


 おかげで今は夜だ。空には星明かりさえ浮いている。


 万謝の燭から火を拝借し、コンロに火を着けて、ミノタウロス肉と大きな野菜を切り分ける。もちろん、ショコラが食べたがっていたもろこしも準備した。一粒がレンガなみに大きいのだが、味は甘くてジューシーだとのことだ。


 瘴気が引いてすっかり穏やかになった海を見て、万謝の燭に手をかざす。


 ――何も起こらない。まだだ。


 俺はダンマスの世話もするので、実は家事万能だったりする。千年の年季が入った家政婦型甲冑騎士なのだ。


 料理もお手の物。味見は出来ないので、全てダンマスが美味いと食べるレシピに調整されているのが気になってはいるが、今のところ他の連中からも文句を言われた試しはない。調理の腕前は並のコックの超えているという自負がある。


 飲み物はココナッツ・ジュースの他、岸の奥に生えていた野生のベリーを使った特製ベリー・ジュースも用意した。


 テーブルにそれら飲み物を並べ、手甲から瘴気を吹きかけて冷却し、キンキンに冷やす。炎の光を受けて光る水滴が表面に浮いて滑り落ちた。


 まだかな……。


 俺が何度も万謝の燭に手をかざして、やきもきしていたその時。思いがけない音が遠くの海から聞こえてきた。


 ここ数十日ずっと聞き続けている、ころころとした声音だ。


 まさかと驚いて顔を上げる。


「……あいつ、猫のくせに泳ぎは得意なんだな」


 ショコラだ。


 何か不思議な塊に捕まって、岸まで泳ぎ着いたようだった。


 そう言えば、猫じゃなくて豹だったか……豹は泳ぎが得意だったような? いや、でも女豹めひょうとはほど遠い雰囲気だなぁ……。やっぱり猫だ。


 そんなことを考えながら波打ち際に歩み寄る。打ち上げられたショコラを抱き上げると、彼女はあらゆる穴から液体を零しながら俺に縋り付いてきた。


「――でぃ、でぃいぜるざあああああああん! 怖かったですぅぅぅぅ‼」


 甲冑が汚れる。でも我慢してノシノシと万謝の燭まで連れて行く。


「夜の海って、もの凄く暗くて、暗くて……足元に広がる闇黒くらやみに飲み込まれてしまいそうで、心が海に溶け出してしまいそうで、自分が自分じゃなくなっていくようで……ううううううぅぅ……」


「よく、助かったな」


 泣きじゃくるショコラをなだめながらも、自然と俺の視線は浜に残された謎の塊に向いた。ショコラが抱きついていた塊だ。それは透明で、水に浮いているようにも見えた。


「はいいいぃ……もう駄目だと思ったんですけど、途中で思いついたんです。アイス・ファルシオンを使って、海水を氷に変えて浮き輪代わりにすることをッ!」


 俺の腕から下り、エッヘンと胸を張ったショコラ。


 なるほど、あれは氷の塊か……賢い。


「これを思いつかなかったら、いまごろ土左衛門どざえもんになって浜に打ち上げられて、ぶくぶくに膨れた醜い姿をディーゼルさんに晒し、それを写真に撮られて、おい、これを世間にばら撒かれたくなければ俺のものになれ、みたいな脅しをかけられて、お嫁に行けない身体にされていましたぁ‼」


「お前……その細かい妄想、ちょっとドルトンに似てるぞ」


 俺の嘆息混じりのひと言に、ショコラが真顔になった。


「やめてください。冗談でも嫌です」


「あ、ああ……口が滑った。あれ扱いは嫌だよな。すまない」


 しかし彼女はすぐにクンクン、クンクンと鼻を鳴らしながら頭を振った。やがてバーベキュー場の豪勢な支度したくに目が留まると、表情を明るく一変、弾けさせた。


「――ま、まさか……ディーゼルさん! 私のこと……バーベキューの準備をして待っててくれたんですか⁉」


「……ああ、もちろん待っていたぞ」


 お前がおぼれ死ぬのをな。


「あ、ありがとうございますぅ~‼ ディーゼルさんって、むっつりドSですけど、実はすっごく面倒見がよくて優しいですよねっ! 私そういうところ好きです‼」


 ……ダンマスの世話をしているからかもな。


 あの人、ちゃんと食ってるのかな……? 特に野菜。放っとくとホットスナックばっかり食うから……。


「そうか……まぁ、なんというか……頑張ったな。夕餉ゆうげの準備はもう出来ている。好きなだけ食って、今日はもう休憩にしろ。特別だぞ? 明日からはまた、急ぎスターチェイサーを追うからな」


「はーい!」


 元気よく腕を振り上げて、ぴょんと跳びはねたショコラを見届け、まずは野菜を焼く仕事に入った。


 そこにショコラが目を血走らせて口を挟んでくる。


「肉! まず肉‼ すっごい腹減った‼ ニククワセロ‼」


「まずは野菜からだ。冷えたジュースでも飲んで待っていろ。――ほら、お待ちかねの、もろこしだぞ。シーフードもあるからな、頑張ったご褒美だ」


「もっろこしぃ~!」


 もろこしに釣られて声のトーンを上げたショコラ。


 彼女に気付かれないよう、こっそり海坊主の足の輪切りを焼き始めながら、俺は海が割れて出来上がった道を睨み付け、スターチェイサーの動向に想像を巡らせるのだった。


 このスキップはでかい。すぐに追いつくだろう。

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