銀狼

銀狼Ⅰ

 「それが昨日の夜よ。まあ、何とか警察は撒けたってわけなんだけど…」

 モスクワ摩天楼。灰色の空の下、巨大なビル群や電子看板から放たれる光は、しかし街のすべてに届くわけではない。2102年になってもいまだに車は空を飛ぶことはなく、ハイウェイは車で埋め尽くされている。そして、その混雑を避けるように、摩天楼の全身をめぐる血管のように、歪に、複雑に発達した裏道が都市の隅々まで張り巡らされていた。

 モスクワには二つの顔がある。表の顔は煌びやかな世界。世界でも有数の大都市であるモスクワには、政治家、大企業の重役、軍将校などが会し、様々な思惑を巡らせ、表裏を問わず契約を交わし、摩天楼の絶景や、最先端技術を駆使したもてなしをうける。

 裏の顔はモスクワの闇だ。殺し屋キラー揉み消し屋フィクサー無法者アウトロー娼婦フッカーなどが、表には出せない汚れ仕事ウェットワークを求めてやってきた。彼らは決して表の世界には現れなかった。路地裏に追い立てられた鼠の様に、闇に紛れ、しかし確かに存在していた。

 表の世界を生きるものと、裏の世界を生きるものは、殆ど交わることは無い。追い立てられた鼠たちは、ともに喰らい合い、しかし生き延び、虎視眈々と窺っていた。

 復讐アヴェンジェンスの時を。

 裏道を走る車は一台だけだった。モスクワの隅々に走る血管に詳しいのは鼠達だけだ。車には二人の男が乗っていた。彼らもまた鼠達の一人だった。

 助手席に座るのは若年の生身の男。ローガン・F・アインシュタイン。美しい銀髪は彼の渾名である"銀狼"の由来の一つであった。だが、その風貌には、数々の修羅場をくぐり抜けたことを示す、凄みがあった。彼は先日あった安居酒屋での逃走劇の顛末を運転手の男に話しているところだった。あの事件では結局警察は容疑者を見つけられず、死んだ三人の機械人ドロイドたちはいわゆるカタギではない者たちであり、警察には特に深追いもされずに処理された。

 「ところで、ちょっと飛ばし過ぎじゃない?」

 「三つ目トライアドだそいつら。眼が三つあったろ」

 運転手は機械人ドロイドだった。フリッツ・"デーモン"・ミュラー。鋼色の機械の顔に、赤く、鋭く光るアイカメラデーモンの二つ名の由来だった。生身の男と同じようにジャケットを着こなし、たくましく、くすんだ色の腕がハンドルを握っていた。

 「ああ、そういえばそうだったかもな…なんでわかるんだ?」

 三つ目トライアドはモスクワを根城としているギャング組織の一つだ。老舗の組織で、規模も大きく、警察組織や政治組織とのつながりも深い。構成員のほとんどが機械人ドロイドであり、そのすべてが、三つ目を持っていることが特徴であった。

 「現在進行形で追われてるからな」

 フリッツが答える。抑揚のないボイスと変わらない顔の色が、文字通り、人間離れした冷静さの印象を与える。

 ローガンが助手席の窓から顔を出して、後ろを振り返る。

 「誰も来てねえぜ」

 「気をつけろ、撃たれたらどうする…、裏道だからな。しかし、今飛ばしておかいとこの先の合流で詰む」

 なるほどね。と、ごちながらシートベルトを外し、ローガンは後ろの席に移動する。座席を外し、クッションの下に固定されていたアサルトライフルを取り出した。車のサンルーフを開け、上半身を出す。

 「国道に入る。2台来るぞ」

 フリッツがアクセルを思いきり踏み込み、ローガンがぶっ飛びそうな速度で国道に進入する。同じくらいの速度で、後ろから他の車の間を縫って、2台の黒い車がこちらを追跡してきていた。

 「左から!」

 ローガンが、後方を走る2台の、左の車の方に向かってライフルの引鉄を引く。黒い銃身から放たれた弾丸は青い軌跡を描き、しかし、追手の車のフロントガラス届く前に小さい火花をあげながら弾かれてしまう。

 「硬っ」

 「撃ち続けろ。もうすぐ側道だ」

 カートリッジを変え、銃身を右の車へと向ける。放たれた銃弾は決定打には至らないが、追いつかせないための撹乱にはなっていた。そしてその隙にフリッツが大きくハンドルを切る。

 「入ったぞ」

 車は再び裏道に入り、ローガンが車内に引っ込む。

 「ライフルじゃ歯が立たねえ。相当良いシールドだぜ。軍か政府の研究機関から貰ったか、パクったな。ギャング風情が」

 ローガンが悪態をつく。口から唾が飛び、額には汗が流れる。これらは生身の体の特権でもあった。

 「スリングショットがシートの下にあるから使え。ライフルのすぐそばだ。シールドを破って、フロントガラスがホワイトアウトするはずだ」

 フリッツの様子は平時と変わらない。脳波を読み取り、まるで生身のように、躯体ボディボイスの色が微妙に変わるという、ドロイド用の高級スキンもあるが、彼はそういったものを無駄と切り捨てるタイプであり、実際に彼らの仕事においては無用の長物であった。

 「マジじゃん。気づかなかった、こりゃいいぜ」

 ローガンがブツを見つけてテンションを上げる。彼の声色は、彼の調子によって変わる。

 車はもうすぐ再び国道に戻ろうとしていた。

 「あと8秒で合流。右側に来る」

 ローガンが後部座席の右側の窓から身を乗り出す。フリッツが言った通り、きっちり8秒後に右後方から他の車の隙間を縫って三つ目トライアドの車が現れた。追手の車も、ローガンたちの車の姿を認めたようで、さらに速度を上げ迫ってくる。

 ローガンはこぶし大の鉄球をスリングショットパチンコで引き絞る。回転を与えるためにねじるのも忘れていない。追手の車の一台が、距離を詰めようと、こちらの車と道路上で直線に並んだ時に、鉄球が放たれる。

 ジャイロ回転しながら放たれた鉄球は、フロントガラスの電磁シールドにはじかれる。しかし、シールドは鉄球の質量と速度を殺しきることはできず、フロントガラスには無数の罅が走り、視界を完全に奪った。三つ目トライアドのドライバーもプロだ。ホワイトアウトに気を取られたのは一瞬だったが、この速度だ。事故を起こすには一瞬で十分。かくして、モスクワの高速道路では車十数台を巻き込む大事故が引き起こされ、もう一台の車も、ローガン達を追うことを断念せざるを得なくなった。

 


 「これからどうする」

 助手席に戻ったローガンがフリッツにそう聞く。一先ずは追手の来なくなった高速道路を、二人を乗せた車は悠々と走っていた。サイレンが遠くに聞こえる。ビルの側面がモニターになりエナジードリンクの広告映像を映し出す。ほとんどの車は何食わぬ顔でハイウェイを走り続ける。高速道路上での爆破事故などということは、モスクワでは日常茶飯事なのだ。

 「とにかくセーフハウスへ行く。ほとぼりが冷めるまで身を隠さないとな」

 「悪いね。俺のせいでお前まで」

 言いつつもローガンはフリッツの方は向かずに、窓の外を景色を見続けている。おまけにタバコまで吸っている。本当にそう思っているかは微妙だ。

 「いつものことだ。十分に対価はもらってる」

 その声からは、彼がどう思っているかを読み取ることはできない。

 夜空をスクリーンに、巨大な広告映像が映し出される。国民よ、宇宙を目指せ。人類は青い地球を飛び出し、他の惑星の開拓の準備を進めつつあった。しかし、今地を這う二人にそんなことは関係なかった。二人を乗せた車はモスクワ郊外へとむけて、さらに速度を上げていった。

 

 

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