老人と蝶

平崎芥郎

老人と蝶

 自室には大量の原稿と本が積み重なっている。その真ん中に、老人が机に両手を放り出した状態で眠っている。  

 しばらくすると、老人は目を覚ました。

 「う……あ、あぁ……眠ってしまったか……。」  

 左右にはご存知の通り「山」が広がる。目の前には書きかけの原稿があり、半分過ぎたところで万年筆のインクが下へ一直線に流れ、それは老人の方へと続いている。  

 「なんてことだ!あぁ……」  

 老人は後悔する。その様子は最寄駅を寝過ごしたような反応だ。  

 「なぜわしは寝てしまったのだろうなぁ……歳のせいかのぉ……」  

 すると、一本の電話が鳴る。  

 「おぉ!なんだなんだぁ」  

 慌てながらも心を落ち着け、電話に出た。

 「はい……吉川です」  

 『あ、吉川さん?新作執筆終わりました?今日で締切日ですよ?』  

 「……え」  

 老人は書きかけの原稿の先にあるカレンダーを見つめるが、老眼のせいかなかなか焦点が定まらず、諦めて老眼鏡をかける。  

 「あぁ……わしは二日も眠ってしまったというのか……」  

 『え!?寝てたんですか!?吉川さん……もうこれ以上は待てないですよ……?本来の締切日から二週間も経っているんですから……僕もね、編集長から他の担当になるよう命じられたんです。でも、吉川さんがまた前のように面白い作品を書いてくれることを信じて、その命令を断ってるんですよ……。しっかりしてください……』  

 「あぁ……申し訳ない……はい…………はい……とりあえず、あと三日で終わらせますから……はい……申し訳ない……はい、はいぃ……」  

 電話を切る。  

 「はぁ……いつからこれほどまでに書けなくなってしまったのか……」    

 老人は決して、創作意欲が衰えたわけではなかった。むしろ、アイデアは川の上流のように湧き上がっている。しかし、身体はそれと相反した行動しか取れなくなっていた。浮かんだ小説の種は消え、時間感覚は日に日に狂う。肩や腰はろくに動かず、少しのストレスで胃腸炎になってしまうほどに、精神的にも限界を迎えていた。  

 「あぁ……もう、引き際かもしれないなぁ……」  

 老人は溜息をついた。それはここ数年で最も深く、悲哀と虚無感で部屋を染めるような、諦めであった。  

 「そうか……もう終わり、か……おや?」  その時、老人の視界に何かが横切った。いや、横切ったというよりは、横切ろうとしたという方が適切な表現だろう。    

それは二枚の羽を懸命に振り、机に全身をぶつけながらも、必死であった。  

「おやおや……こいつは……蝶か?」  

その見た目はあまりにもみすぼらしく、蛾に間違えられてもおかしくは無い。二本あるはずの頭部の触覚は一本しか無く、片目は抉るような傷があった。足も折れているのか、バランスが悪い。  

「こいつは……なんて様だ……」  

老人はそれをゆっくりと両手ですくった。  すると、蝶は羽を振ることをやめ、羽を上にしたまま、必死に両手に止まった。  

「さて……どうするべきか……」  

「おじいさん……おじいさん……」    

「…………ん?」  

老人は耳を疑う。声は確かに、目の前にいる蝶から発されている。それは少年のような純粋さを感じるが、まさに虫の声という言葉がふさわしい弱々しさであった。  

「お前は……話せるのかい……?」  

「おじいさんには……僕の声が聞こえるんだね……でも、今更遅いか……僕はもう、終わってしまうんだから……」  

「終わる、というのは……君の寿命がかね……?」  

「うん……ほぉら、こんなに羽が傷ついてる……足だって短くなってさ……目なんてもうほとんど見えていないんだ……もう、終わりさ。おじいさんも、終わってしまうんでしょ……?じゃあ、僕と一緒に終わろうよ……」  

「ふむ…………何か出来ることはないのかね……」

 老人は両手の上にいる喋を落とさないようにしながら、重い腰をゆっくりと上げた。  「おじいさん……何をするつもりだい……?もう、僕はこのまま足掻くならそっとされたいんだよ……」  

 「悪いなぁ……わしはまだ、足掻きたいようでな」  

 老人は横にあった「山」を片足で器用に押し退け、自室を出た。  

 大きな通路が広がり、五つの扉から彼は真ん中の扉を開け、蝶に話しかけた。  

 「蝶よ……見えるかね。あそこに鈴蘭の花が一輪だけ咲いているだろう?あの花は不思議な力を持っておってな……。わしはあれを見る度に、何故か……生きてみようか、と言う気持ちになるのだよ……何故かはわからん。ただな、これだけは分かる。人は美しいものを見ると、昔のような純粋な気持ちを取り戻せる気がするのだよ」  

 「……そんなことを僕になぜ言うんだい? 」  

 「……この蜜を吸ってみて欲しいのだ。」  

 「…え?」  

 「君が生きることを諦めるのを、わしは止めはしない。だから、あの鈴蘭の蜜を吸ってみて欲しいのだ。それだけしてくれれば、わしはお前と一緒に終わろう。」  

 「そう……じゃあ、あの鈴蘭の所まで、僕を連れて行っておくれよ。」  

 そう言われると、老人は鈴蘭の咲いている花瓶に近づき、蝶の止まっている両手を蜜腺に近づけた。  

 「…………これは……」  

 そう言うと、蝶はみすぼらしい羽を振り、鈴蘭の蜜腺に止まる。老人はそれに驚き、老眼鏡の位置を整えながら、目を凝らした。  

 「…………どうかね……?」  

 「……あぁ……あぁ……良い蜜だよ……。今まで僕は何年か頑張って生きてきたけれど、こんなに美味しい蜜は初めてだよ……」  「おぉそうか……おや」  

 その時、老人は目を疑った。

 

 先程まで、蛾のような姿をしていた蝶はあれよあれよという間に生気を取り戻しているではないか。その証拠に、みすぼらしかった羽は少しずつ青と黒の美しい羽に変わり、一本しかなかった頭部の触覚は一本生え、目の傷はいつのまにか無くなっていた。    

 「おぉ……君は……そんなに美しい蝶だったのだね……」  

 「おじいさん……もし、貴方が横切った僕を放っていたら、こんなに美味しい蜜を吸えなかったかもしれない。言葉じゃ伝えられないよ……ありがとう」  

 「いやいや、わしはただの老いぼれた爺だよ。ただ、人より好奇心があるだけでなぁ……まだ、そこだけは衰えていなかったようでの……。なぁ……蝶よ。今、どうしたいかね?」  

 「……僕、また外を飛ぶことにするよ。外の空気を吸いたい。羽を広げたい。たくさんの花を見て、蜜を吸いたい。色んな世界を見たくなったんだ。」  

 「そうかい。」  

 老人は鈴蘭の花瓶の先にあった小窓を開き、蝶の止まっている方を窓に向けた。  

 「じゃあ……行っておいで。」  

 「うん……おじいさん、ありがとう……また、この近くを飛んでいたら、この鈴蘭の蜜を吸いに来てもいいかい?」  

 「あぁ……もちろん。いつでもおいで。」  

 「ありがとう……それじゃあね。」  

 蝶はその美しい羽をゆっくりと広げ、小窓から飛んでいく。それは老人にとって、幸福感とささやかな喜びが染み込むような感覚を覚えさせた。   

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老人と蝶 平崎芥郎 @musehasn0talent

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