第20話 息子たちの行き先

 慰謝料だの離婚だの、そんな事ばかり考えていたせいか、日常の事に上の空になっていたらしい。

 二人の息子が通っている塾から、書類が届いた。内容は月謝の銀行引き落としが残高不足で出来なかったために、支払いに来て欲しい、というものだ。

「・・・やらかした。」

 お金の事には常に気を配っていたつもりだったのに、たまにこんなポカをやらかしてしまう。

 英語と数学を見てくれるこの塾は地元密着型の私塾だった。二人が小学生の頃から世話になっているため、もう五年目に入ろうと言うつきあいだ。

 もしも離婚となれば、子供のことにかかる費用は全て梨華の肩にかかってくると言うのに。こんなことでどうする。

 そう思って自分を叱咤したが、現在とそんなに違わない事に気付いて、なんだか力が抜けてしまった。

 そうだった、もともと息子たちの塾代は梨華が支払っていたのだ。

 仕事場から直接、学習塾のある建物へ向かう。疲れた体をひきずって。

 子供らの通う中学校、そして通っていた小学校からも徒歩15分という近さが何よりもありがたい。だから二人の息子たちも塾通いが続いているのだろう。

 近在の大学生らを雇って講師にしているが、塾の経営は家族経営だったはずだ。アットホームな感じが、とても安心できた。

 せっかく近在にちょうどいい塾があって、中学校からも近くて、いい立地の家を買う事が出来たのに。

 離婚したら、家はどうなるだろう。ローン返済は済んでいるので、売って、その代金を折半することになろうか。 

 実家の両親の元へ帰る気は無い。自分にも仕事があり息子たちにも彼らの世界がすでに出来上がっている。転校などもってのほかだろう。

 出来れば現在の家から離れたくはなかった。

 そうなれば、家の代金の半額を支払って梨華と子供たちは済み続けることが出来るのだろうか。だとしても、一件の住宅の購買価格の半額は、中古とは言ってもとても高額だ。シングルマザーに支払えるものか疑問だった。

 お金の事ばかりを考えながら歩いているうちに、二人の息子が通う学習塾の看板が見えてくる。

 駅からも徒歩で20分ほどの好立地の八階建てビルである。一階と二階を借り切っていて、二階が中学生の教室だ。事務所は一階にあり、三つの教室を過ぎ最奥の突き当たりに、講師室兼事務所を構えている。

 玄関をくぐると、子供たちの歓声が聞こえた。たった今授業の終わったタイミングなのだろう。小学生たちの高い声がそこかしこで聞こえて、懐かしくなる。海斗や陸斗が小学生だった頃は、自分がここまで迎えに来たものだ。今は、勝手に行って勝手に帰って来るスタイルに定着しているが。

 子供の声や足音で騒がしい廊下を歩いて事務所へ向かった。軽く会釈し、若い講師とすれ違うように中へ入る。

「こんばんは。お忙しい所すみませんが、月謝のお支払いに来ました。」

 窓口になっているカウンターテーブルへ足を運ぶと、年配の女性がすぐにやってくる。

「はい、こんばんは。ご足労頂きましてすみませんね。」

 塾の経営者である村島むらしま塾長だ。随分と久しぶりに会うが変わらない人だな、と思う。愛想が良く、いつ会ってもニコニコしていうところも相変わらず。

「先月のお月謝が引き落としされなかったようで・・・申し訳ありません。今日現金でお支払いを。」

「はいはい。ありがとうございます。領収書を書きますのでね、どうぞ、そちらの椅子にお座りになってお待ちください。」

 梨華は言われるまま椅子に腰を下ろした。

 年代で言えば自分の実母と変わらない年のはずだが、塾長の方が若いなと感じる。それは、彼女が若い子供たちと常に接しているからかもしれない。

 ぼんやりと塾長が窓口に戻ってくるのを待っていると、ネルシャツに黒い綿パンツと言ったラフな格好の青年がお茶を持って来てくれた。

「よかったらどうぞ。先ほど父兄の方に差し入れを頂いたんですが食べきれなくて。どうぞ持って帰って下さい。」

 優しそうな風貌の青年は確か、塾長の息子だ。見覚えがある気がした。以前にも顔を合わせたことがある。

「まあ、申し訳ありません。遠慮なく頂いて行きます。」

 青年がお茶と共に差し出したのは、大きな房のバナナだった。まだ少し青いが、一週間もすれば食べごろになるだろう。ご丁寧に紙袋まで出してくれた。

 この塾に差し入れが持ち込まれるのは珍しい事ではない。

 高校受験で合格した親が、お礼にと持ち込んだり、卒業した子供たちが修学旅行の土産にと言って持ち込んだりする。

 五月を過ぎる今の時期、進学先でようやく落ち着いた子供の父兄が差し入れることが多いのだ。塾長は、塾生の親身になってくれる人なので評判もいい。梨華も多分に洩れず、海斗と陸斗が受験で失敗しないようにくれぐれもとお願いするつもりでいる。 

 梨華が緑茶に手を伸ばす頃になって、塾長が戻ってきた。

「海斗くんも陸斗くんも、すっかり大きくなりましたよね。」

 嬉しそうに、まるで自分の子供であるかのように言う塾長は、領収書に日付を入れている。

「初めてここに来た時はまだ、こんなだったのにね。立派になったもんですよ。」

 お茶を持って来てくれた塾長の息子も手で高さを示しながらそう言った。塾長の息子は確か、講師もやっているはずだ。

 この塾に入れた時はまだ、梨華も夫の不倫の事など知らなかった。

 子供の事が心配で、そのことだけで頭がいっぱいで、評判のいいこの塾へ二人を連れて来たのだ。

 忙しかったけれど。

 子供の事で頭がいっぱいだったけれど。

 あの時は、なんて幸せだったのだろう。今の自分と比べたら。

 毎日夢中で、とにかく忙しくて、二人の子供の事で生活のすべてが埋まっていて。こんなの、いつまで続くのだろうなどと思いながらも、幸せだった。

「・・・向井さん?」

 塾長親子が目を丸くして、梨華の顔に見入っている。

 ぱた、と音がして、カウンターテーブルの上に水滴が落ちた。

 涙がでてしまったのだ。

 どうしてだろう。

「やだなぁ、年を取ると涙腺が緩むって本当ですね。なんで泣けてきちゃったんだろう・・・、アレかな、二人の成長が嬉しくなっちゃったのかな。ははは。」

 両手の袖で慌てて顔を拭った。笑って誤魔化そうとするが、心配そうにこちらを見ている親子の視線は、誤魔化せそうにない。

 こんな人前で泣けてしまうなんて、いよいよ自分はヤバイところまで来ているのだろうかと不安になる。

 明日にでも心療内科へ行って薬を増やしてもらおうか。

「長い事家族やってると、色々ありますよね。」

 村島塾長が、優しい声で呟いた。

「でも、向井さんところは大丈夫!奥さんがちゃんとしてますもの。海斗くんたちもしっかりしてるしね!」

 彼女の息子がニコニコ笑って頷く。

「お母さんが笑ってご飯を作ってくれる家庭は、絶対に大丈夫。それが出来ないようじゃ困るけど。・・・だから、調子が悪い時は無理せず休んでくださいね。笑えなくなったら、笑えるまで休んでていいんですよ。・・・奥さんちょっと痩せちゃったみたいだし、無理はしちゃ駄目ですからね。」

 何故だろう。

 なんでそんな優しい事を言うのだろう。

 まるで、梨華がいま辛い事を知っているみたいな、そんな優しい言葉が、どうして出てくるのだろう。

 塾長は塾生に親身になってくれる。そう聞いている。

 まさか親にまでそうしてくれるなんて。

 不思議でしょうがないと思いながらも、有り難くて。

 世の中には優しい人はたくさんいる。ほんの少しでも手を伸ばせば、誰かが手を貸してくれる。優しい言葉をかけてくれる。

 ずっと、ずっと誰にも言えなかった。一人で悩んで苦しんでいた。

 でも、あの弁護士と出会ったことをきっかけに、こんなにも理解者がいることを知る事が出来た。

 息子たちは梨華の味方をしてくれた。

 友人やママ友達にも言えなかったけれど、もしかしたら誰かに打ち明けていればもっと早く何かが変わっていたのかもしれない。離れて暮らす両親にも、余計な心配を掛けたくなくて何一つ伝えていないけれど、もしかしたら子供たちのように味方をしてくれるのかもしれない。なんでも抱え込んでしまうのは、梨華の悪い癖だ。

 涙がにじむのを隠しながら梨華は小さく礼を言った。

 そして、ふと思った。

 もしかしたら、塾長は、二人の息子が父親の不倫を知ってしまった不安に気付いていたのかもしれない。

 海斗と陸斗の様子から、家庭でなにかが起こっている事を察していたのかもしれない。

 

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