第19話 迷う

 岩崎がいつも頼むのはエスプレッソだ。

 確かにメニューの中では単価の高い商品だが、毎度同じで飽きないのだろうか。そう思って一度だけバイトの女の子が別の商品を本日のおすすめです、と言って紹介した。

「やっぱ、エスプレッソで。」

 バイトの女の子は、苦笑いして、頼まれた商品をテーブルへ運んできた。

 向かいに座る梨華のテーブルの上には水のグラスだけ。それを一瞥して、岩崎はすぐに仕事の話に入る。

「一応、返答が来ている事は来ています。聞きますか?」

 梨華が頷いた。

「相手の女性の方からは、まずは話し合いたいと。示談で済ませたいってことですかね。ご主人からは、離婚はしない、他の条件は考慮する、と。」

 それは、梨華が凡そ想定していたものだった。

 小さく息をつく。それから、グラスの水をゆっくりと飲む。

「大丈夫ですか?奥さん。」

「はい。」

「弁護士(おれ)を通さずに話し合いたいというのは、まあ、正直おかしな話なんですけど、どうしますか?相手には、どんな事でもまずはこちらを通す旨を伝えてあります。ですから、俺を通しての話し合いも、直接本人と話し合うも出来ないわけじゃな有りません。」

「岩崎さんを通しての話し合いでしたら、応じます。条件のすり合わせも、全て、岩崎さんを経由で。」

 弁護士は大きく頷いた。

「わかりました。・・・奥さんの要求条件は、変更はありませんか?」

 聞かれて、目線を下げる。

 正直、少し迷っていた。

 夫のしたことは許せないし、不倫相手にも相応の罰を受けさせたい。どちらにも制裁を与えてやりたい気持ちは変わらない。

 変わらないけれど、そうしたからと言って梨華の体重も健康もすぐに戻るわけではない。

 それに、夫の気持ちを知ってしまった今、知る前とは明らかに自分の思いも揺れている。海斗と陸斗の希望もある。

 二人の息子の顔を思い浮かべて、ふと疑問に思ったことを思いだした。

「あの、それとは別のことなんですけど、参考までに聞いていいですか?」

「おや、なんでしょう?俺のスリーサイズ?」

 それはどうでもいい、とは言わず、小さく首を横に振る。

「この間、口論になったってお話しましたよね。その時、息子たちが・・・色々と夫に言ってくれて。子供が夫の不倫の事を知っていたことも凄くショックだったんですけど、夫を言い負かすような言葉を色々知っていて驚いたのです。二人はまだ中学生で、明けても暮れても学校と部活だけで毎日が過ぎるような子達です。そんな子達がどうしてあんなこと知っていたんでしょう。パソコンの扱いは確かにわたしよりも彼らの方が上なんですけど、・・・まあ、そのせいで夫の不倫に気付いていたらしいんですが、それにしても不思議で。」

 岩崎はエスプレッソ専用の小型カップを口に運んだ。それから、うんうんと頷いて一口飲む。

「今ネットでどんな情報でも手に入りますからね。・・・どっかで入れ知恵でもされましたかね。」

「失礼かもしれませんが、岩崎さんも中学生の頃同じ境遇だったのでしょう?どう思われます?」

「俺はなんにも言えなかったし出来ませんでしたよ。わけもわからなかった。母親の様子がおかしいなとは感じてたけど、どうしていいかなんてさっぱりだった。何も教えてもらえませんでしたしね。・・・まあ、それもグレかかった理由でもあったんですが。俺としては、何の力にもなれなかったことも悔しかったし。」

「そう、でしたか・・・。」

 自分の息子たちの姿と、目の前の男性の姿を重ねてみる。

 岩崎のスーツ姿にはローティーンの面影はないけれど、若かった頃の彼の苦悩は深かったに違いない。梨華は、それを想像するしかないのだけれど、それでも。 

「辛かったでしょうね。きっと、岩崎さんも、お母様も・・・。」

「子供に言えない立場もわかるんですよ。でも、何も話してくれないことも傷つく。子供の自分たちは蚊帳の外であることも。まあ、何よりも両親の不仲ってだけで子供にはダメージなわけですが、ある程度の年齢になると色々察しちゃうじゃないですか。今時の子供は幼いって言うけど、こういう事があると嫌でも大人になりますし。」

 岩崎の母親と話が出来たらいいのにな、などと考えてしまった。どんな図々しい依頼人なんだと思う。岩崎にはこれほど世話になっているのに、これ以上厚かましいことなど言えるはずが無い。

 海斗と陸斗は自分が知らないうちに大人になってしまったのか。こんな形での成長は望んでいなかったに違いない。

 不甲斐ない両親のせいで子供の方が先に大人になる。それは世間ではままある話なのだろうけれど、よもや自分の子にそんな思いをさせていたなんて。

 駄目な親で申し訳ない。

 でも、そんな二人も、梨華と頼人が離婚するのは本意ではない。

 どうしていいのか、わからなかった。頼人の思いを知るまでは、息子たちの希望を聞くまでは、離婚しかないと思っていたのに、その硬い決意が揺らぐ。

「迷ってらっしゃるんですか、奥さん?」

 考え込んでしまった依頼人に対して、弁護士が声を掛けた。

「はい。正直に言って迷っています。離婚は当人同士だけの問題ではありません。特に子供にとっては衝撃的なことですから・・・、でも。」

「では、相手女性に対しての対応はこのままで、御主人への対応を考え直す、ということですか?」

「・・・。」

「奥さん、悩むのは仕方ない事です。状況も刻一刻と変わる。とりあえず今日はこのままでお持ち帰りいただいて、またご連絡下さいますか?」

「はい。少し考えてみます。」

 大きく頷くと、岩崎はテーブルの上の書類を片付け、鞄にしまった。



 その日の夜、子供達が塾に行っている時間に頼人が帰宅した。

「少し、話がしたい。」

 ベランダで洗濯物を取り込んでいた梨華に、そう声を掛けて来た。

 籠の中に取り込んだ洗濯物をおしこんでリビングへ下りると、頼人がソファに座って待っている。険しい表情だ。

 梨華はリビングのテーブルの脇に籠を置き、ソファでなく床に正座して洗濯ものを畳み始めた。

「離婚と慰謝料の話なら、弁護士を通して。」

 きっぱりと言い切る。

「違う。」

「じゃあ何?」

「本当に、再婚するわけじゃないんだな?」

「誰が?」

「お前だ。他に誰がいる。」

「しません。そもそも相手もいません。するつもりもないわ。結婚なんて懲り懲りよ。」

「・・・わかった。」

「貴方はしたかったらどうぞご自由に。払うものを払ってくれたらお好きになさればよいかと。」

「俺は離婚なんかしない。だから再婚もない。」

「さいですか。」

 それで話は終わりとばかりに、頼人がソファから立ち上がる。

 夫の後姿を見て気が付いた。

 その手に握られている携帯がぶるぶると震えているのだ。そのために、席を外したのだろう。

 浮気相手からの連絡だろうか。

 相手女性も焦っているのだろう。まさか弁護士からの封書が届くなんて想像もしていなかったに違いない。

 梨華だって、想像もしていなかったのだ。

 まさか自分の夫が浮気をするなんて。 




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