第13話 気を引きたい
面白くなかった。
同僚の仕事の失敗があり、その埋め合わせのために駆り出された。経理の仕事は厳密にやってさえいればミスは起りにくい。起こった場合は大概は数字を報告した奴か入力した奴のミスだ。計算違いなどはほとんどない。計算はパソコンがやってくれる。表計算ソフトも簿記のソフトも充実している。だから頼人の職場で残業になる時はよほどの事なのだ。少なくとも頼人はそう思って常日頃から職務を全うしている。
「永原さん。」
「すみません・・・。」
強く叱ったわけではないが、彼女は委縮する。
もともとドジというかおっちょこちょいというか、抜けた所がある杏奈だ。不真面目なわけではないが、ミスは結構多い。
だが、部署内でいつまでも言うわけにはいかない。セクハラだのパワハラだのやかましい昨今だ。そして永原のミスは仕事を教えていた頼人のミスとなる。
「もういいよ、これは俺がやっとくから。他の仕事で優先順位の高い奴から入力はじめて。」
「はい。申し訳ありませんでした。」
杏奈はすごすごと自分のデスクへ戻って肩を落としている。
開き直られても腹が立つが、これ見よがしに落ち込まれてもやりづらい。杏奈の隣りの席の女子社員が彼女の方に手を置いて慰めているのが見えた。
後で他の社員のいない時にもう一度注意しよう思う。どうせ夜にまた会うのだから。
そして、二人で会っている時に、仕事のミスが多すぎると伝えたら、泣き出してしまった。
何度も言うが、頼人はきつく叱ったわけではない。
「ちょっとミスが多いから、本当に気を付けないと困るよ。」
優しく諭すように言ったつもりだ。
「頼人さんのことが頭から離れなくて・・・。どんなに好きでも、奥さんの元へ帰っていってしまうのでしょう。そう思ったら、なんだか辛くて。」
「辛いのなら、もう別れた方がいいんじゃないかな。俺は君の人生を邪魔するくらいなら身を引くよ。」
「別れるなんて嫌です。 捨てないで下さい。わたしにはもう、貴方しかいないのに。」
「永原さんなら他にいくらでもお似合いのいい男が見つかるよ。」
「そんなこと言わないで!!」
結局そうやって泣き縋られ、またホテルへ行ってしまったのだ。
正直に言って、頼人の気持ちは冷めかけていた。軽い気持ちで割り切って付き合ってくれると思ったから杏奈を相手にしていたのだ。若いし体の相性もよかったから、暫く続いていたけれど、仕事に支障が出るくらいならば別れた方がいい。会社の人間に知られたくない。
その翌日、永原杏奈は無断で会社を休んだ。
頼人が心配して連絡すると、
「主任が別れた方がいいなんて言うから・・・昨夜眠れなくて、体調崩しました。御免なさい、連絡もしないで・・・。」
鼻をすする音と泣きじゃくった後のくぐもった声が聞こえた。
「わかったわかった。とにかく、勤怠の方には病欠って言っておくから。」
「お見舞いに、来てくれませんか・・・主任が来てくれたら、わたし元気になれます。」
涙声で我儘を言う杏奈は、まるで子供が駄々をこねているようにしか思えない。
「・・・無理。とにかく、今日はよく休んでまた明日出勤して。」
自宅ぐらしの杏奈のところへ、どの面下げて病気見舞いに不倫相手が行けると言うのだ。
杏奈の仕事の尻ぬぐいはさせられるわ、しかも翌日は無断欠勤だわで、ほとほと神経がささくれ立つ。
しかし、ああやってべそべそ泣かれては言いたいことも言えないのだ。年齢差を考えると余りに自分が大人げない気がして。
彼女はその翌日も休み、三日目でようやく会社に顔を出した。
だが、杏奈の顔を見ても、イライラしてしまってとても誘い出す気にもなれず。彼女の、いかにも誘いを待っています、という態度にもさらにイライラが増して、あえて気付かないふりをしてしまった。
いつまでも会社に残っていると、杏奈がまた何か言ってくるかもしれないので、定時に上がって帰宅する。
携帯電話の方には連絡が来ていたが、頼人は応じずに自宅で一人の夕食を食べることになった。
一人とは言っても、二人の息子は二階の自室にいるわけだし、妻の梨華もキッチンで翌日の準備をしているのだ。完全な孤独なわけではない。
しかし、完全な孤独ではないほうが、逆に寂しいと感じたりする。
手に届く場所にいるのに、一緒に居てくれないという寂しさがある。
夫が一人でダイニングにいるのだから、妻だって家事の手を止めて一緒に座ってくれてもいいのに、と思う。
けれども、梨華はもくもくと食器や弁当箱を洗っていて、一人の食卓である自分に気付いてもくれない。
そう言えば梨華と一緒に食事をしたのはどのくらい前のことだろうか。もう、思いだせないくらい昔のことのように思える。
だって、家族で食卓を囲んでいた頃の梨華は、今よりもっとふっくらとしていたはずだ。
あんなに痩せてしまって、無理なダイエットをしたのだろう。すぐに戻るかと思ったのに、結局もどらないままだ。
スリムな女が好きな男でもいるのだろうか。その男の好みになるために減量しているのか。
コーヒーショップの奥の席で背を向けて座っていた背広姿の男が脳裏を過ぎる。
ふとキッチンの方を見れば、夫に目を向けることもなく夢中で皿を洗っている妻の姿だ。
年下の杏奈の甘えが、駄々をこねる子供と同じだと思った。自分に注意を向けない相手の気を引こうと、必死になる子供のようだと。
ああそうか、好きな相手が自分を見てくれないと、意地でもこちらを向かせたくなるものだ。
頼人はもう一度、睨むようにシンクの前に立つ妻を見つめた。
まずは、反抗期でろくに口も聞かない兄弟のことを尋ねる。父親が帰宅したというのに、顔を見せることもない親不孝な息子たち。
妻の応えは素っ気ない。
久しぶりに一緒に外出でもすればいいのではないか。少しばかりでもお金を使って、ご機嫌をとってやれば。
まるで杏奈に対してするように、頼人は梨華の気を引こうと誘うが、すげなく断られた。
妻に誘いを断られることが、これほども悔しいとは、思いもしなかった。
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