第12話 虫の居所が悪い

 無料の法律相談で岩崎と出会ってから、わずかではあるが梨華は前向きになれる気がした。 

 やはり、何もかも話せる味方がいると言うのは違う。昨日は、小食なりに、吐かずに食事が出来たのだ。ちゃんとご飯を食べれば力が出るのだと、梨華は身をもって知った。

 それでも夫が帰宅すると途端に気分が悪くなる。そういう自分も嫌だった。しかも今夜は早めの帰宅だ。

 そして、顔色の悪い梨華のことを気にするでもなくいつも通りに自宅で過ごしている頼人が、たまらなく許せない。彼が家で何か悪い事をしているわけではない。帰宅して靴を玄関に脱いだというだけで、その靴を揃えるのが嫌になる。用意しておいた夕食を温めて出すという事も嫌悪感が溢れて辛かった。なんで自分がこんな男にこんなことをして上げなくてはいけないのだと、そればかりをこころの内で叫んでいた。

「海斗と陸斗は?」

「もう二階に行って寝てるわ。朝練で毎朝早いから。」

「そうか。部活熱心なのも結構だが、ちゃんと勉強はしてるんだろうな。」

「塾にはちゃんと行ってるみたいよ。」

「・・・塾代も安くは無いだろうに。」

「だからわたしが働いてるんでしょう。」

 何をいまさら言っているのだ。

 勉強しないのなら塾へ行かせろと言い出したのは頼人だ。

 家のローンもまだ支払っているので、頼人の月給だけでやっていくのはきつかった。だから梨華も家にお金を入れている。子供にかかる費用はほとんど梨華が払っているのだ。頼人が支払っているのは住宅ローンと光熱費などの生活費と保険料だけ。塾代や部活でかかる費用は妻の収入から賄っており、何より育ち盛りの息子たちの食費が非常に大きいが、それはどうにかやりくりしてやっている。若い女性と遊びまわっている誰かさんと違うのだ。

「来週末の予定は?」

「・・・は?」

「土日、お前は休みじゃないのか?」

 驚きを通り越して目が点になるとはこのことだ。

 頼人が梨華の予定を聞いてくるなんて、天変地異の前触れだろうか。

 平静を装いながら、梨華はリビングの壁に掛けている大きめのカレンダーを指差した。 

「予定なら、カレンダーに書き込んである通りだけど。」

 梨華は仕事の予定は全てカレンダーに記入している。そして、子供たちの予定もわかる事は全部書いてある。いつが試合で、いつからテスト休みに入るとか。梨華のシフトの予定もきっちり書いてある。

 頼人はろくろくそれを見たことも無いのだろう、そこにカレンダーがあることにはじめて気づいたような顔をしていた。

 海斗と陸斗が少年野球を始めた頃から、ずっと梨華はそこに書き込んでいたのに。そこに頼人が自分の予定を書いたことは無い。

「土曜日は仕事で・・・日曜は試合か。残念だな、久しぶりに外食でもしようかと思ったんだが。」

 今度は持っていた皿を取り落としそうになった。

 夫が外食に行こうと誘うなんて、ここ数年全くなかった事だ。今夜は一体どういう風の吹き回しなのだ。

 帰宅も早かったし、やけに梨華に話しかけてくる。何かあったのだろうか。

「残念だったわ。・・・他を当たってくれる?」

「他?」

「ええ。私は行けそうにないし、そもそも今外食ができるほど懐が豊かじゃないの。給料日まであと少しだし。」

「他ってどういう意味だ?」

「は?」

「他の女とでも行けという意味か?」

「・・・はあ?」

「俺とは一緒に飯も食えないと言うわけか。」

「何言ってるの?」

「お前俺の前で飯を食わなくなったな。いつからか、俺の夕食はいつも独りだ。前は俺と一緒に食べるために待っていてくれたのに。」

 頼人の前でだけではない。

 ここしばらくは誰の前でもまともな飯など食えない梨華である。食べたとしても、吐いてしまうので、いっそ食べないほうがいいと思っている。

 梨華の食事は流動食のゼリーか大豆バーだ。それさえ満足に食べ切れないことも多い。

「俺とは飯を一緒に食うのさえ嫌か。」

 睨みつけられているのがわかった。わかったが、梨華は目を合わせられない。

「他の男なら同席してても平気なのに、俺と向い合せに座るのも嫌か。」

 吐き捨てるような口調だ。

 頼人の言う事は確かに事実だが、それをそのまま肯定していいかどうかは別問題だ。動転している梨華も、そのくらいの判断はついた。

「ちょっと待って、何を言ってるの。」

 声が震える。でもようやくそれだけ言えた。大きく唾を飲み込んで、息を吸って、吐く。呼吸が止まりそうだった。

 なんだか知らないが、頼人の虫の居所が悪いらしいことだけはわかった。

 家ではほとんど家族に話しかけなくなっていた頼人が、こんなことを言い出すなんて。嫌なことが会社であったのだろうか。

 仕事で面白くないことがあったからと言って、八つ当たりするような男ではなかったはずなのに。

「お前職場で男と会ってただろ。俺が客として来店してたの気付かなかったのか?」

 リビングのソファに座り込んで、キッチンにいる妻を見つめている夫の眼は険しい。口調は明らかに責めている。

 だが、梨華には何を責められているのかまったくわからない。

 食事をまともに取らないのは、何も夫の前だけではない。

 職場であるショップに来店した岩崎は、本当に彼にとっての仕事で来てくれていただけだ。何もやましい事など有りはしない。もっとも、正直に言えばまだ今の段階で弁護士を頼んでいる事を頼人に知られたくはなかった。

 だが、万が一バレたとしたって、何だと言うのだ。梨華は何も悪くない。自分と子供を守るために彼を雇っているだけの話だ。どこかの誰かみたいに不倫しているわけではない。

「ああ、知ってたけど来客中だったからバイトの子に対応を任せたのよ。あの人は仕事でうちの店に来てただけだし。」

「仕事だ?二人仲良く相向いでお茶を飲むのがか?」

「・・・いい加減にしてくれる?」

「やましいことが無ければ言えるだろ。」

 お前がそれを言うか。

 よくも自分を棚に上げてそんなことが言える。

「そんなに言うならバイトの子に聞いてみたらいいじゃない?あの人は法律事務所の人よ。仕事で来てただけ。」

「・・・法律事務所?」

 頼人の表情が揺らいだ。

「わたしが雇った弁護士よ。それなのに、わたしが他の男と逢引でもしてるかのような言い方よくできたわね。」

「弁護士、だと!?なんのために?」

 ソファから立ち上がった夫がキッチンまで押し寄せてきた。その勢いに押されるように、梨華は後ろの冷蔵庫へ貼り付く。

 恐怖と怒りで頭の中が真っ白になっている。頼人の激怒した顔はちびりそうなほど怖い。普段穏やかだから、一層怖いのだ。

 両手で頭を抱えながら、梨華は叫んでいた。

「浮気者を懲らしめるためよ!!」



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