第6話 気付いたのは
頼人と梨華は学生時代に出会った。
コンビニエンスストアのバイト先で、何度かシフトがかぶった時に意気投合し、つきあうようになった。
近在の大学に通っていた頼人は、優しそうでよく気の付く梨華が気に入った。また、他のバイト生たちも彼女を狙っているようだったので、焦りもあった。
ふくよかで優しくておっとりした風情の梨華は、とても人気があった。仕事の呑み込みも早くオーナーからも頼りにされていた節がある。美女ではないが好感の持てる愛嬌のある顔立ちで、とても可愛かった。
短大でも優秀らしく、大学部への編入を期待されていたらしい。
だが、梨華は短大を出てすぐに就職した。二歳離れている頼人が就職するのと同時に、就職したのだ。
進学の道も開けていたのに、自分に合わせてくれたのかと思うと嬉しかった。
早く自分のものにしてしまいたくて、二年足らずで結婚した。
自分の目の届かない所で他の男の眼に晒されることも嫌だった。結婚後間もなく妊娠したのを機に退職させた。梨華自身は産み月ギリギリまで働けると言ったが、大事を取って辞めるよう説得したのだ。
梨華がずっと家にいてくれるようになると家の中は綺麗だし、帰宅後すぐに作りたての夕食が出てくる生活で、言うことが無いくらいに幸せだった。
だから、無理をしてでもと思い都内に家を購入したのだ。36年ローンだけれど、それでも可愛い妻と自分と子供の愛の巣だと思えば全然かまわなかった。
頼人は自身で働きながらコツコツとローンを返していくつもりだったのだが、そこに救世主が現れる。
ローンの半分を、互いの両親が支払ってくれると言い出したのだ。
頼人の両親は静岡で酒屋を営む自営業者だが、比較的大きな店を構えていて羽振りが良かった。実家は兄が継いでいて、両親が弟の頼人には財産を残さない代わりに家のローンを半分払うと言ってくれたのである。それを聞いた梨華の親も、向こうにばかり出させるわけには行かないと主張し、結局ローン全額の半額を互いの両親が支払うことになった。残りの半額を、頼人と梨華の二人で支払っている。
梨華の両親は都内で教師をしていた公務員で、現在は隣県の郊外へ引っ越して悠々自適の隠居生活を送っている。両親共に結構な額の退職金を受け取って都会の喧騒を離れ新居を構えた。梨華の兄弟は弟が一人いて、彼もまた都内の区役所に務めている。
二人は、明るい幸せな家庭を築いていると信じて疑わなかった。少なくとも、梨華はそうだった。年子の息子に恵まれて、子育てにこそ苦労しているがごく普通の家庭人として幸せな人生を歩んでいると思っていた。
頼人が浮気をしていると知るまでは。
気付いたのは三年前。海斗が12歳、陸斗が11歳だった冬のことだった。
少年野球に打ち込む息子たちは、毎週末が試合で、それに付き添う梨華も常に週末は自宅にいなかった。
だがその日は、試合の途中で土砂降りの雨が降り出し、冷え込みも厳しく雪に変わりそうだったので試合は中止。チームメイトの保護者に車で自宅まで送ってもらうと、誰もいなかったのだ。家で留守番をしているはずの夫はおらずもぬけの殻で。
おかしいと思いながらも、すぐに息子たちを風呂に入れて着替えさせなくてはならなかったから、梨華は夫に連絡を入れるのを後回しにしていた。
そこへ、夫からメールが入る。
《雨降った来たみたいだけど、試合続けるの?》
そのメールを見て愕然とした。
今日は天気が悪いから外出はしないと言っていた頼人だ。だから自宅にいると思っていたのに、いない。
近所のコンビニに買い物にでたのかと思ったが、もう梨華と息子たちが帰宅してから一時間以上過ぎている。それでも帰宅した様子はなく、今頃になって試合が中止かどうかを確認している。
冷静さを失った梨華は、思わずメールを返信してしまった。
《いまどこにいるの?》
その後に頼人からの返信はなかった。
二時間ほど経てから、夫は帰宅してきた。
傘を持っていたが程よく雨に濡れた上着を脱ぎながら、頼人は愛想笑いを浮かべた。
「久しぶりに、俺も試合会場まで行ってみようかと思ったんだけどね。雨降ってきたからどうしようか迷っちゃってさ。」
頼人が父親ヅラして息子たちの試合に顔を出したのは、入団した当初の二、三回だけだ。その後は何一つ手伝いもせず応援にもこなかったくせに、今日に限って試合に行くなど、有り得なかった。
疑いの眼差しを向けていたのかどうか、梨華はその時の自分が思いだせない。そのくらい動揺していた。
ただ、頼人が何かを誤魔化そうとしているのだと言う事だけは悟っていた。
何故だろう、梨華は何故自宅にいなかったのかを追求することもしなかったのだ。
「そうなの。連絡を先に入れるべきだったわね、ごめんなさいね。中止が決まってすぐに解散になったからバタバタしてて、電話も出来なかったの。他の保護者さんが車で送ってくれたし。」
「ああ、車で送迎してくれたんだ。申し訳ないね、今度何かお礼の差し入れでもしないとね。」
「そうね。考えておくわ。」
言葉を交わして玄関を通っていく頼人からはボディソープの匂いがした。
真冬に、雪も降ろうかと言う雨の日に。一体どんな理由で石鹸の匂いをその身体からさせているのだろう。サウナやジムに行くような頼人ではない。増してや銭湯など行くはずもない。
その日から、梨華は夫がソープの匂いをさせているというだけで吐き気をもよおすようになった。
疑い始めればもうきりがなかった。
掃除と称して寝室の頼人のクローゼットの中を漁れば、出てくること。風俗へ行った時の名刺やら、キャバクラのカードやら。本人がクリーニングに出してくるジャケットやスラックスなどは梨華が余り触らないので油断しているのだろう、裏ポケットやスラックスの尻ポケットから発見された。
滅多に無い事だが、稀に頼人が携帯電話を家に忘れて取りに帰ってくることがある。そういう時には中を覗くが、残念ながらロックがかかっていて見られない。
しかし、パソコンは見ることが出来た。
息子二人と頼人だけがいじるパソコンは、梨華は全くと言っていいほど普段触らない。スマホだけで大概用が済むからだ。
頼人は梨華がコンピューターに興味がないか、扱えないと思い込んでいるから、パスも設けていないし、調べ物をした後の履歴も消さない。
日付や検索履歴やら見たり、勤務評定表などを確認したり、銀行口座の通帳を細かく見ていくと、頼人は随分前から外の女性と遊んでいたらしいことが判明する。
口座から不定期に大金がおろされている時はあやしい。夫の総務に連絡して勤務表と給与明細の確認などをしてもらうと、梨華には知らせず出勤と称して有休を取得していることが10回以上あった。思い返せば、そういう時には弁当は不要だと必ず梨華に言っていた。
あくまで想定に過ぎないが、夫が外の女性と遊び始めたのは梨華が現在のコーヒーショップで働き始めた頃からだ。
仕事を辞めるように勧めたのは頼人だったが、再び働くように勧めたのも頼人だった。
今思えば、梨華が外で働いていたほうが頼人のあやしい行動に神経を使う暇もなくなるだろうと思ったのかもしれない。
元々は、仕事を続けたかった梨華だから、再就職を勧めてくれるのは嬉しかった。だが、主婦が仕事するとなれば家事も疎かになるし夫の協力も必要だ。
だが、夫があまりあてにならない事はうすうすわかっていた。頼人は必要最低限のことはやってくれるが、それ以外はない。
仕事を始めて、梨華の負担は増えるばかりだった。それでも文句も言わず黙っていたのは、やはり外で働けることが嬉しかったからだ。必死で働いてショップのチーフにも抜擢され正社員にしてもらった。そうなれたのも、彼が外で働くことを許してくれたからだと。
まさか、妻が働いていた方が頼人の浮気がしやすいからなどと想像もせずに。
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