婦婦《ふうふ》の部屋

吾妻栄子

婦婦《ふうふ》の部屋

「やっと出来た」

 やり残しがないか採点を終えた答案の束をチェックした上で汚さないように指定の封筒に入れる。

「終わった?」

 パソコンに向かっていたたまきがヘッドフォンを両耳、パソコンの差込口から一気に外す。

 聞き覚えのある俳優の声が部屋全体に響いてきた。

「そっちは仕事じゃなかったんだ」

 通信教育の採点バイトと中学校の講師を掛け持ちする私に対して彼女はれっきとした大企業のエンジニアだ。

 新型コロナウィルスのおかげでここ数日は在宅勤務が続いている。

「いや、私もさっき終わったとこ」

 あくびすると彼女はソファにゴロンと寝転がった。

「また、それ、見てんだ」

 私は良く見ていないが平凡なサラリーマンが男性の上司から恋の告白をされて大騒動になるとかそんなストーリーだ。

 異性でも同性でも上司が部下に恋の告白をするなんてセクハラだと思うけれど、この国では男性同士だとゴールデンタイムのドラマにされる面白ネタなのだ。

「ドラマは下らないけど、圭ちゃんが主役だから見てる」

 ソファに寝転がったまま環はパソコンに向かって苦笑いする。

 画面からの光と色を反射して彼女の顔が赤らんだかと思うと蒼くなった。

「そう」

 主演の彼の罪ではないが、私は正直、苦手だ。あまり美男子だと思えないし、何よりも環の別れた夫(こちらはもっと不細工だったけど)に似ているからだ。

 自分は家で何もしないくせにこちらの家事には文句ばかりつけるモラハラで女にもだらしない、酷い人だった、後悔しかない結婚だったと語るくせにその男に似た俳優を贔屓にしてわざわざ下らないドラマまで熱心に彼女は観るのだ。

 影が差してきた気持ちを振り切るようにして私はキッチンに向かう。

「コーヒーかお茶、淹れようか?」

 この家での主婦役はどちらかと言うと私だ。女性同士の暮らしでも一方が稼ぎも少なく家にいることも多いとなると、必然的にそうなる。

奈緒美なおみの好きな方でいいよ」

 それでも彼女はこう答える配慮を一緒に暮らし始めて二年経っても忘れない。

「じゃ、先週、買い足したからコーヒーにしようか」

 私は一人ならジャスミン茶か緑茶ばかり飲むが、コーヒーは決して嫌いではないし、何より環はコーヒーの方が好きだ。

「ありがとう」

 彼女はソファから立ち上がり、パソコンを止めて寝室に向かう。


*****

「プラリネ買ってくれたんだ」

 普段、二人の共有の生活費でお茶菓子を買うのは私の役割だ。

 チョコレートと言えば、スーパーで売っている大袋。それもプライベートブランドやメーカー品でも割引されたものばかり。

 共有の生活費といっても大部分は環が出しており、家でチョコレートを主として食べるのは私の方なので高いものを買うのは気が引けてそんなチョイスになる。

「ホワイトデーだからね」

 温かに甘いコーヒーの香りが広がる中で環は目を細める。

 そうすると、目尻に刻まれる皺がまた増えて深くなったことに気付く。

 彼女ももう三十七歳。私と同い年で三ヶ月生まれは遅い。

「奈緒美の好きなのから食べていいよ」

 六個の小さな、チョコレートというより工芸品じみた塊を前にした彼女は告げる。

「ありがとう」

 きっと環の目に映るこの顔も老けているだろうと思いつつ、私は微笑んで丸いホワイトチョコレートに手を伸ばす。

 彼女は苦手で、自分はまあまあ好きな味だ。

「じゃ、私はこれにしよ」

 環は一番特徴に乏しいフォルムと柔らかな茶色からしてミルクチョコレートと思われる一粒を摘まみ取る。

 これは彼女がそこそこ好きで、私が進んでは選ばない風味だ。

 二人ほぼ同時にがりりと噛む音が響く。

 これは何かのドライフルーツだ。

 甘過ぎるほどのホワイトチョコレートに酸っぱい果実が入り交じる。

 コーヒーを流し込んで嚥下すると、どちらも主張して中和されない甘ったるさと酸っぱさが微かに残った。

「さっき、塩原しおばらからLINEが来てね」

 出来るだけさりげない風に私はコーヒーにまた口を着ける。

「今年の命日はコロナで危ないから来なくていいって」

 コーヒーの甘い香りが満ちた中、環の顔にまるで自分が婉曲な拒絶を受けたかのような寂しい笑いが過った。

小平こだいらの妹さんとこも今、妊娠してるから行かないみたいだよ」

 極力どうということもない口調で言い放って小さな筒じみたチョコレートの一粒を口に入れる。

 パキリと噛むと、ドロリと焼け付くように甘ったるい中身の酒が舌の上に溢れた。

――チョコレートも酒入りのがあるから気を付けないと。

 あの人の顔と声が蘇る。

 私の夫だったあの人が事故で世を去り、お腹にいた赤ちゃんも流れてしまってから、そろそろ五年になるのだ。

 あの時、独身だった妹さんも今は結婚して母親になろうとしている。

 塩原にいるあの人のお父さんお母さんはたった二人で息子の五回目の命日を迎えようとしているのだろうか。

「後で何か向こうに送らないとね」

 環は淡々と述べると、ティーカップの底に描かれた水色の薔薇を見せて飲み干した。

 私たちのティーカップは色違いのお揃いで環が使う方には水色の薔薇、私が使う方にはピンクの薔薇がそれぞれ刷られている。

「もうちょっと貰うわ」

 ガラスポットに残った、一杯には微妙に足りないコーヒーを新たに注ぐ。

 甘いがもう醒めた香りが微かにこちらにまで広がった。

「何がいいかな」

 環は本来は彼女にとって何の関係もないはずの私の元舅姑(といっても基本は横浜と塩原に離れて住んでいて盆暮れに向こうにお邪魔する程度の付き合いだったけど)にまで配慮できるのに、私本人はまるでこういう方面に気が利かない。

「ちょっとしたお酒とかハムの詰め合わせとか」

 こんな風に具体的な案が出せるのも彼女だ。

「お義父とうさんは飲めるけど、お義母さんが飲めないし、どっちもハムやソーセージはそこまで食べないから、果物の缶詰とかの方が良さそう。すぐに食べなくても保存が利くし」

 夫が生きている時にはお義母さんが季節ごとの果物をこちらに送ってくれた。

梨恵りえちゃんも果物好きだし、やっぱり缶詰めやジュースの詰め合わせにするかな」

 口に出してから五年前までは義理の妹だった人を名前で親しく呼んでしまったことに気付く。

 むろん、そう言っても表面的には誰も怒らないだろうが、環の前では極力「妹さん」とあまり本人の顔が浮かび上がって来ない呼び方をするようにしている。

 私にとっては「梨恵ちゃん」でも環にとっては「同居している恋人の死んだ夫の妹」という直接には顔を合わせたこともない他人だからだ。

「妹さん、塩原に里帰り出来るの?」

 環は残った二つのプラリネの内、楕円形のミルクチョコレートの上に黒いビターチョコのソースでジグザグの線が描かれている一つを取った。

「ああ、そう言えばそうだったね」

 やっぱり彼女の方が常に私より現実を見ている。

 プラリネの小箱には緋色のハート型の一粒が残った。

 これは赤いからいちご味だろうか。それなら普通はもっと淡く優しげなピンクの気もするが、普段は買わない高級なチョコレートなので趣向が今一つ図りかねる。

 とにかく私のために残された一粒なので摘まみ取ると、程よく冷えた滑らかな感触がした。

 パキリ。

「向こうは知ってるの?」

 口の中で緋色のハートを噛み砕くのと同時に環が呟いた。

 一足遅れて薔薇の香りが舌の上に広がる。これはどうやら真紅の薔薇をイメージした風味のようだ。

「私たちのこと」

 環は手元の水色の薔薇の描かれたカップに目を落として言い添えた。

 こういう青い薔薇はもう交配に成功して多少は咲くようになったんだっけ? それともまだだったか。

 薔薇の匂いと味が一体になったチョコレートを噛み砕きながら、頭の片隅にそんな疑問が掠める。

 ゴクリと飲み込むと、喉の奥に小さなとげが刺さって通り過ぎたような痛みを微かに覚えた。

 もっと噛み砕いてから飲み込むべきだったようだと悔いつつ、ピンクの薔薇のカップに残ったコーヒーを一気に飲み干す。

「塩原のご両親や妹さんには学生時代からの女友達と住んでるって伝えてあるよ」

 実際、学生時代は純粋に友達だったのだ。

 私はその当時から彼女も夫(当時は彼氏だったが)も好きだったが、実際に気持ちを伝えて恋人になり、結婚したのは男性である後者だった。

 いわゆる両性愛者バイセクシャルだという性的傾向は当時の自分の中でも隠し通すべき秘密であった。

 海外スターやアーティストならともかく容姿も資質も平々凡々な私のような女に同性愛的な傾向があると知られれば異常者としか扱われない。

 大半の人はLGBTなどと聞けばメディアの中にいる著名人かいかにも気色悪い変態じみた人間の話だと思っている。

 自分の隣にいるありふれた人間がそうだとは思いも寄らないし、そうと知った瞬間、忌むべき異常者として眺める。

――環だって女の私から告白されたら気持ち悪いとしか思わないだろう。それで友達関係すら終わってしまうだろう。

――私は男の人も好きになれるんだし、男の人しか好きになれない女だと周りには思わせておくのが一番いいんだ。

 亡くなった夫にも死ぬまで打ち明けることはなかった。

 そもそも最も伝えてはいけない相手に思えた。

 私だって彼が実はゲイで世間へのカモフラージュのために結婚したなどと聞かされれば絶望するし、バイセクシャルで一応は愛情を持って結婚したと聞かされた場合でも打ち明けられた側には根深い不信が残るのではないだろうか。

「まあ、それで向こうも安心するだろうね」

 環は何でもない風に語りつつ、空になったチョコレートの小箱をバタバタと資源ゴミの形にすべく畳み出す。

「私も奈緒美のことは友達だって両親には話してるし、前の旦那には直接連絡してないけど多分友達とルームシェアしてると思ってるんじゃないかな」

 何だか自分がいわゆるヒモか何かをしている世間体の悪い男のように思える。

 同性愛のパートナーというのは日本の世間体においてはそれ以上に隠されるべき関係性なのだ。

 無職のヒモでも犯罪者でも男なら今の法律上は環の正式な配偶者になれるが、私はそうはいかない。

 夫を亡くし、女友達とルームシェアをする中学校の女性講師。

 それが世間に向けて私の付けた仮面なのだ。通信添削の生徒たちもまさか答案の向こうにいる「先生」が同性愛の恋人と暮らす両性愛者バイセクシャルだなどとは思いも寄らないだろう。

 こちらは教室や答案の向こうにいる生徒たちの中にも性的マイノリティが紛れていて秘かに苦しんではいないかと案じてはいるけれど。

「LGBTなんて言ったって『おっさんずラブ』とか『きのう何食べた?』とかゴールデンのドラマになるのはゲイばっかりなんだよね」

 話しながらキッチンに行って、水を三分目程入れた洗い桶の中にピンクの薔薇のコーヒーカップを横倒しに転がす。

 ゴロン。

 先に入っていた水色の薔薇のコーヒーカップに寄り添うようにして沈む。

「それ、どっちもゴールデンじゃなくて深夜だよ」

 プラリネチョコレートの包装を燃えるゴミ、プラスチックゴミ、資源ゴミに分かれた台所のゴミ箱に少しずつ捨てながら環はぽつりと答えた。

「そうなんだ」

 異性愛者が主人公のドラマなら不倫でも教師と生徒の禁断の愛でもゴールデンで流せるが、ゲイが主人公だと同棲カップルの平穏な日常をテーマにした作品ですら大人も寝静まって日付が変わる時間帯でなければ日本の公共の電波では差し障りがあるのだ。

 ビアンが主人公のコンテンツなど日本のテレビでは一日のどの時間帯でもお呼びではない。

 生得的女性のマイノリティはそんな風にしてメディアでは透明化され、男性のマイノリティより人目に付かない場所に追いやられる。

「ネットだと百合とかGLとか女性同士の話もあるけど、学園の美少女同士がどうたらみたいな感じで今一つ読む気がしない」

 環は部屋着の肩を竦めた。

「ガールズとかボーイズとかいう括りがおかしいんだよね。学生の時だけ打ち込む部活やクラブ活動じゃあるまいし」

 異性愛者が少年少女の時期を過ぎても異性愛者であり続けるように、性的マイノリティも年齢によってセクシュアリティが変わるわけではない。

――アイドルみたいな美少女なら同性愛者でも許せるけど、それも大人になったら男と結ばれるべきだし、まして美人でも才女でもない女がおばさんやおばあさんになっても同性愛者なのは気持ち悪い。

 こういう差別的な感覚が日本のマジョリティなのを私たちは知っているし、だからこそ「夫とお腹の子供を亡くした後、遺産となったファミリータイプのマンションで離婚した女友達とルームシェアして暮らし続けている未亡人」で私は通している。

――カミングアウトして、世間の差別や偏見と戦うべきだ。

――隠すからバカにされるんだ。

 自分は安全な場所からそう批判する人はいざ当事者がカミングアウトして孤立した時にはやはり安全な場所から傍観するだけだ。


*****

「じゃ、行ってくるよ。帰りにお弁当も買ってくる」

 布マスク越しだと声が届くか不安で声のボリュームがいつもより二割増しくらいになる。

「気を付けてね」

 パソコンを再び開いて見入っていた環は目を上げて微笑んだ。

 会社用のパソコンだから、多分、今度はあの俳優が出ているドラマではなく本当に仕事だ。

 答案を入れた通信教育の会社指定のバッグを手にドアを開け、エレベーターに向かった。

 今から最寄りのバス停に歩いて行けば、提出先のオフィス近くで停まるバスに十分間に合うはずだ。

 この時間帯のバスなら多少タイムラグがあっても提出先の受付時間内に届けられるだろう。

“20”

 エレベーターの表示が最上階で止まっているのを確かめてから下降のボタンを押す。

“19”

“18”

“17”

“16”

……。

 表示がカウントダウンしていく。

 無事に答案を出したらまた逆方向のバスで戻ってきて近所のスーパーに寄って、二人の弁当と共通のお惣菜、デザートを買って帰る。

 これが通信教育の採点済み答案をオフィスに出した日の午後のスケジュールだ。

 今日はプラリネチョコレートを食べてコーヒーを飲んだから、共通のお惣菜は省略して弁当とデザートだけで良いかもしれない。

 スーパーで良いのが売っていたら、環の好きな苺を買おう。

“10”

 そこまで考えた所で目の前で閉じていたエレベーターの扉がパッと開いた。


*****

「あ……」

 扉が開いて出ようとしてから向かい合って立つ相手の存在に気付いた。

“8”

 エレベーター内の表示はまだ途中の階であることを告げている。

「こんにちは」

 マタニティ服の下腹部を微かに膨らませた相手は微笑んで会釈すると、髪をツインテールに結った四歳の娘の手を引いて新たに乗り込んでくる。

「こんにちは」

 鸚鵡返しに挨拶しつつ、エレベーターの「開」ボタンを押す。

 むろん、このくらいの短時間ならいちいち押さなくても大丈夫だとは分かるが、妊婦の前で扉が急に閉まる事態は少しでも回避したいからだ。

 お腹の赤ちゃんを含む三人の家族が無事にエレベーター内の斜め後ろに並んだのを確かめてから「閉」のボタンを押す。

“7”

“6”

……。

 ふわりと足の裏が微かに浮き上がる感触がして、エレベーターの表示がまた減り始めた。

「下のお子さん、ご予定はいつですか?」

 極力さりげない笑顔で振り向いて尋ねる。

「七月の初めです」

 相手もどこか予想していた風なごくにこやかな顔つきで答えた。

「そうですか」

 名前は知らないが、下の階のこの奥さんも五年前、私と同じ時期に上の子を妊娠していた。

 あの頃、同じようにマタニティー服を着てエレベーターで乗り合わせると、特に深い話はしなくても温かい空気になった。

 こちらのお嬢さんは無事に生まれて、私の赤ちゃんは生まれることはなかった。

 しかし、本来の予定では前後して生まれるはずだったから、こちらのお嬢さんも今、四歳だということは知っている。

 私の赤ちゃんもエコー診断では女の子だったから、無事に生まれていれば、今頃はもしかすると幼稚園等も一緒で仲の良い友達だったかもしれない。

“1”

 扉が開いた。

 私は「開」のボタンを押す。

「どうぞ」

 微笑んで後ろの三人に前を示す。

「ありがとうございます」

 お腹の大きな相手はどこか安堵したように笑うと幼い娘の手を引いて出ていく。

 つと、小さなツインテールの頭が振り向いた。

「バイバイ」

 目を細めた親しげな笑顔だ。

 この子の中で私は「エレベーターで時々一緒になる別の階のおばちゃん」なのだろう。

 手を繋いだ母親も目を細めたそっくりな顔つきでツインテールのゆらゆら揺れる辺りを眺めている。

「バイバイ」

 すぐに同じく出るわけだが、私も手を振った。


*****

 マンションエントランスの自動ドアの外に出ると、ひやりと梅の香りを仄かに含んだ空気が頬に触れる。

 和文英訳の問題で「春が来た。」の正解は“Spring has come.”

 別解は“Spring is here.”

 小一時間前まで繰り返し採点した問いと答えが蘇った。

 暦の上では二月からもう春のはずだが、三月の半ばでもまだ春になりきっていない感触がある。

 言うなれば、「春はまだ来ていない」、“Spring has not come yet. ”だ。

 ただ、目には見えなくてもどこかで咲いている梅のこの香りを嗅ぐと、“Spring is here.”、「春はここにある」という気がする。

――塩原は三月でも雪が降ることもあるから、横浜は本当に暖かいよ。

 亡くなる少し前、この道を並んで歩きながらあの人はそう言った。

 その日もやっぱりこんな風に晴れていてもちょっと寒くて、吸い込む空気は梅の香りがした。

 息を吸う度にお腹の娘も元気に動いていたのを覚えている。

 今はここにいなくなってしまった二人にとってはこれが“Spring has come.”だったのだろう。

 角を曲がってすぐそこが公園前のバス停だ。

 と、バス停の屋根の後ろに一本の薄いピンクの梅の木がちょうど花盛りを迎えているのが目に入った。

 今まで微かに匂っていたのはこの梅の香りだったのだ。

 梅なのに花びらの色はむしろ桜じみた淡い色合いだ。

 真っ白ではないから白梅はくばいではないが、紅梅こうばいと呼ぶには紅味あかみが薄過ぎる。

 これだって同じ香りを咲かせる梅のはずなのに、何故「紅梅」「白梅」ときっちり「紅白」の二色にしか分かれないような言い方を日本語ではするのだろう。

“Spring has come.”

 今日は他に誰もバス停にはいないし、通り掛かる人もいないから、布マスクのなかで呟いてみる。

“Spring is here.”

 百二十四枚採点した答案でそう書かれたのはたった一枚しか無かった。

 名前からすると女の子で、丁寧な字で、しかし迷いなくそう綴られていた。

 合計した全体の点数も高い部類の子だったから、当てずっぽうではなく本人の中でも確信を持っての解答のはずだ。

“Spring is here.”

 それも確かに正解だから、私はきちんと丸を付けた。

 音もなく冷えた風が吹いてきて、薄紅の小さな丸い花びらがはらりと靴の上に落ちる。

 これは環が去年の誕生日に買ってくれた革靴だ。

 改めてそう意識しなければ履いていることを忘れてしまうほど、外を歩く時の私の足に馴染んで同化してしまっている。

 暫くぶりに履いたせいか、爪先がほんの少し窮屈に感じた。

 でも、きっと、これもすぐ慣れるはずだ。

 サーッ。

 排気ガスの匂いが梅の香りを蹴散らすようにしてバスが入ってきた。

 とにかく今はやるべき仕事を終えて、彼女の待つ部屋に戻るのだ。

 そう念じるような気持ちで、目の前で開いた扉の向こうに足を踏み入れる。(了)

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