愛逢月の空
涼暮有人
第1話
じっとりとまとわりつくような暑さの中、彼女は立っていた。
その長い髪はさらさらと風になびき、彼女の周りだけ世界が違うように見えた。
これは僕が心の中にしまっている、彼女との記憶だ。
傍から見ればどうでもいいような、そんな話。
でも、僕にとっては何よりも大切な話。
ぷしゅっ、こっ。
炭酸飲料の缶を開ける音だ。
誰だ?
僕の知り合いに僕の周りで炭酸飲料を開ける者はいない。
なぜなら、僕はこの音が苦手であることを知っているからだ。
皆、配慮をしてくれているのだ。優しい友人ばかりで良かったと思う。
僕の周りでこの音がするということは、僕の知らない誰かが僕の近くにいるということだ。
その事実は、人見知りの僕をひどく緊張させる。
僕が嫌悪感と緊張の入り混じった顔でいると、その音を立てた人間が声をかけてきた。
「大丈夫?体調悪いの?」
やめてくれ。話しかけないでくれ。僕に構わないでくれ。
僕は静かに窓際で本を読んでいたいだけなんだ。
声の主は話しかけることをやめない。
「ねえ、本当に大丈夫?保健室行ったほうがいいんじゃないかな?」
僕は、勇気を振り絞って声を出す。
思えば、その掠れた声はひどく滑稽に聞こえた。
「だ、大丈夫です。その……炭酸の音が苦手で」
よし、言えた。
これでこの居心地の悪さは終わる。
そう思ったのが間違いだとわかったのは、それから数秒後だった。
「そうなんだ。ごめんね、知らなくて。お詫びにお茶でも奢るよ」
聞こえた予想外の言葉に、思わず顔を上げた。
声の主は話すことをやめない。
「私、野々瀬。野々瀬山桜桃。君は?」
困った。
人に名前を教えるということに、僕は悲しいほど慣れていない。
とりあえず返さなければ。
不快感を人に与えたくはない。
「空木。空木、蒼良」
よし、言えた。
そう僕が安堵すると、また予想外の言葉が返ってきた。
「昼休み、ラウンジで待ってるから来てね!待ってるから!」
そう言い放つと、彼女は去っていった。
まったく、嵐のような人だった。
ラウンジには行かなくてもいいだろう。
僕はこの窓際から離れたくはない。
一連の会話のあと、なぜか他の男子連中からの視線を感じる。
僕がなにをしたって言うんだ。
静かに窓際で無害に過ごしたいだけなのに。
HRが終わり、帰宅部の僕は帰る支度を始める。
午前の出来事なんか忘れて、教室を出ようとした、その時。
「ねぇ、空木くん。空木蒼良くん。ちょっと待って」
彼女の声がした。
なんだ?やっぱり昼休みに行かなかったのがまずかったか?
「昼休み、来なかったでしょ。ちょっと放課後付き合ってよ」
嘘だろ?
そんなひどい話はあるか。
僕が断ろうとした、その矢先。
彼女の友人であろう人が彼女に話しかけた。
「山桜桃ー、帰ろ」
彼女は僕の予想に反した返答をした。
「ごめんね、ちょっと用事あって。先に帰ってて」
彼女の友人は少し残念そうに
「そか、また明日」
と言って帰っていった。
目の前の彼女は僕の目を見て言った。
「じゃあ行こっか、空木くん」
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