Memory

Sargent

糸と意図

 私が思い出せる最初の記憶は曾祖母に抱っこされたことだ。正確には、生まれて間もない私を曾祖母が抱っこしている写真を思い出している。だから自分の内側に保存されているイメ―ジではなく、写真という外部から触発されるイメージにすぎない。抱っこされているときの感触や匂い、風景などはまったく覚えてないし、写真を見ても何も感じない。ただ一枚の写真から、曾祖母に抱っこされていたという事実があるだけだ。とても不思議なことだ。自分で経験したという自覚がないのに、現実においてはそれが事実とされているのだから。そう考えていると、ひどく酔ったときも似たようなものかもしれないと笑ってしまう。

これはよくあることなのかは分からないが、私は過去というものを振り返る習慣を持ち合わせていない。ときどき自分の年齢さえもときどき迷ってしまうことがある。正直、過ぎ去ったことに興味などない。昨日の私と今日の私は完全に異なるし、それにいちいち過ぎ去ったことで自己憐憫に夢中になるのは、あまりにも面倒なことだからだ。しかしそうはいっても、五年ほど実家から離れて生活をしていると、なぜかは説明できないのだが、実家にいたころのことを思い出すようになった。思い出されるのは、どうでもいいことで父に怒られたことや、些細なことで母が笑っていたことなどだ。逆に重要そうに思えることほど、あまり記憶に残っていない。卒業式で恩師が何を言ってくれたのか、気になっていた人に最後なんて声をかけたのか。思い出せないということは、大したことではないのかもしれないし、もしかしたら、無意識に記憶を消しているのかもしれない。そんなあやふやな記憶の流れを探っていくと、曾祖母に抱っこされている写真に行きついた。

私がはっきりと思い出せる曾祖母についてといえば、九十歳を超えてなお、広い庭で多くの野菜を一人で育てていたこと、腰がまったく曲がっておらず、常に美しい姿勢をしていたこと、それと亡くなる直前の苦しそうな表情だ。曾祖母が亡くなったのは私が十三歳のときだから、少なくとも私の記憶に残っているのは九十歳をゆうに超えた曾祖母だ。曾祖母にとって、ひ孫の私はどういう存在だったのだろう。そもそも、曾祖母は私のことをどう思っていたのだろう。というのも、私は曾祖母とまともに話した記憶がない。物心がついたときには、曾祖母はすでに会話をすることが難しい状態になっていたからだ。現在の私がイメージする曾祖母の人物像は母から聞いたことで形成されていると言っても過言ではない。母からいくつか曾祖母のエピソードを聞いてみたところ、意外というか、想像していなかった人間性が浮かんできた。

 まず驚いたのは、曾祖母はものすごく体力的で行動的、そして直観的な人だったということだ。幼い一人息子(私の祖父だ)が正体不明の熱病で苦しんでいたときがあった。家族はいろいろと対処をしたが、まっかたく効果が出なかった。それに事情があって医者も呼べない。   

熱は下がらない状態が続き、家族は死を覚悟したらしいが、曾祖母だけは違っていた。その昔、世話になった医者なら直せるはずだと、直観的に考えて、五十キロの道のりを一人で歩いてその医者を連れてきたのだ。ちなみに当時の田舎の道はまともに整備なんかされてなかったし、そもそも道ですらなかったはずだ。今から考えると凄まじい体力が必要だと思われる。そして、なぜその医者が息子の熱病を治せるという確信を持っていたのかは分からないが、実際、その医者が作った漢方薬で息子は体調は回復したのだ。家族が諦めているなか、曾祖母だけが助かることを確信していたという。

 それともう一つ、私を驚かせた話がある。曾祖父は第二次世界大戦の際、満州に出兵していた。生きているのか死んでいるのか、本国にいる人間には何も分からない状況だ。その中でも、曾祖母だけは夫が生きているという確信があったらしい。そして、大戦が終わると各地で戦っていた兵士たちが帰国してきた。はっきりと亡くなったと分かる兵士の家族にはその連絡があったらしいのだが、曾祖父が亡くなったという連絡は届いていなかった。それでもなお、家族の中で唯一、曾祖父が帰国をすると悟っていたのは曾祖母だった。母曰く、それは信じるというものではなくて、すでに理解していたというものだったらしい。

情報が全くないのに、曾祖母は何を持って理解をしていたのだろう。それに連絡が取れないというのは文字通り、無なのだ。何も分からない。何も知りえない。そんな状態でどうやって判断するのだろう。

「なんでまた、大おばあちゃんのことを聞くの」と母は訊いてきた。

「どうしてだろう。自分でもよく分からない」と私は答えた。

 母からすればそんな大昔のことを聞いて、どうするのかと思ったのだろう。私としては、どうするつもりもないし、知ってどうなるものでもない。

「大おばあちゃんは、あんたと同じで頑固者で、変わったひとだったわ」

「そうなんだ」私は言った。

 どういう意味で同じなのか。私は想像力を羽ばたかせようとしたが、とても無理だった。

さらに母から曾祖母の人となりを聞いていると、曾祖母はかなり厳格で物事をはっきりと決めたがる性格でもあり、、男勝りということばがピッタリの人だったらしい。晩年しか知らない私からすると、とてもそのようには見えなかったのだが、あの皺だらけの顔と日ごろの姿勢と身のこなしから、当時の女性の強さのようなものがほんのりと伺えた。それも今となってから理解したことなのだが。

葬式で使われた遺影は晩年の曾祖母の写真だったので、若いころの写真がないか母に聞いてみた。若いころの写真はあまり残ってないかもしれないよ、と母はぼやきながらも三枚の写真を掘り出してくれた。三枚とも家族写真で映っているのは、曾祖父と曾祖母、それに生まれてすぐの祖父だ。モノクロ写真、服装、背景の自然、どれをとっても時代を感じさせるものだ。ただひとつだけ例外があった。それは曾祖母の端正は顔つきだった。鋭く大きな目つき、整っている鼻と口、全てを了解したような微笑み、全ての均衡がとれている美しさだ。そして何より興味深かったのは、その美しさがあまりに現代的にも感じることだった。

母は曾祖母の写真と自分の若いころ(バブル期のころだ)の写真を見せてきた。動きにくそうな服装と主張が激しい厚化粧、お世辞にも惹かれるとは言い難い髪型。私も若いころはね、と母はなにやら騒ぎ出したが、私からすれば曾祖母の美しさが余計に際立って見えた。凛、という言葉が合っている女性だなと思わずにいられなかった。

それと祖父が先祖代々の墓を移動させたという話を聞いたことがあったので、移動させる前はどこにいたのだろう、と疑問に思い母に聞いてみた。

そもそも曾祖母が生まれたのは、地鍋という山に囲まれたところで、今の実家よりもさらに田舎になる。その地鍋は夏には山登りをする人やアスレチックで遊ぶ家族連れなどがよく来る場所で、冬には雪がよく降るので、スキー場としても有名だ。たしか、祖父と母はスキーの検定一級らしいが、生まれた土地柄のせいなのかもしれない。

 そして曾祖母は明治、大正時代を過ごしていた世代だ。つまりそれは、二度の世界大戦を経験した世代でもあるということだ。生涯のうちに二度の対戦があったというのは、どういう心境だったのだろう。それも自分たちが知らないところで何かかが進行し、そして急に何かが終わったのだ。

 現在、私の母方の実家は森壮という場所にある。つまり、曾祖母の生まれた場所から引っ越しをしている。なぜ、わざわざ生まれた故郷から引っ越しをしたのだろう。嫁入りとともに引っ越ししたのかと思ったが、森壮に移ったのは祖父の代だ。祖父は事業を始めた人だから、それが理由で森壮に移ったらしいのだが、もう一つ大きな理由として地鍋という土地柄を嫌ったことにあるらしい。

 その当時の地鍋は、現在でもそう変わらないのだが、かなりの田舎で外の地域とあまり交流というものをしなかった。一応、形なりにも憲法と法律というものが出来ていた時代なのだが、地鍋の人たちからすれば、それよりも重要な掟らしきものがあったらしいのだ。つまるところ、昔ながらの暗黙の了解みたいなものだ。実は地元の人間もく分からないが、それでも彼らを強く縛っているものだ。山や川のこの部分からだれだれのもので、こっちに入れば違う誰かのものだよ、みたいなことを掟で決めているのだろうか。

 そして何よりも、地鍋には特殊なしきたりがあったらしく、結婚をする相手は地域のお偉方が決めるというものがあった。どういう経緯でそのような文化が出来たのだろうと私は考察してみた。その手の田舎にはよく分からない階級制度みたいなもの(往々にしてどれだけ大きな土地をもっているかで階級は決まる)もあるし、土着の信仰もあったのだろう。田中さんの息子は体つきはいいが、頭が悪い、だから勉強が出来て器量のある佐藤さんの娘と結婚させるか。もしくは、百平米の田畑を持つ高橋さんの息子は、一キロメートルの河を所有する鈴木さんの娘とくっつけてみるか、そんなことを年寄りたちが夜な夜な狭い祠で決めていたのだろう。平安時代から顕著に行われていた政略結婚に比べてみたが、何が異なるのか、あまり思いつかなかった。まったく同じなのは、結婚相手を自分で選んでないことだ。

そんな中で、曾祖母は、結婚する相手を自分で決めた。当然、周りの人間から白い眼で見られたことは想像に難くない。恐らく、私が想像しうる以上のことが曾祖母の身に降りかかったと思われる。そこまでして、なぜ自分で相手を選んだのだろう、と私は疑問に思った。周りの人間が選んだほうが、スムースにことは進んでいくのに。それにいちいち先々のことを考える必要もないし、周りの判断で決めたのだから、あまりにもひどい相手ではないはずだ。

何はともあれ、曾祖母は自分の意思で相手を決めて結婚をしたのだ。いろいろと苦労はしただろうが、曾祖母は息子(私の祖父)を育て上げた。今ほど開放されてない世界で、つまり土地柄においても、人間関係においても狭い世界で暮らしていた曾祖母と祖父は、どのような気持ちで生活を営んでいただろう。そもそも、村八分などにはされなかったのだろうか。

だれかに目を気にしながら、生きていくのはとても難しいことなのに。自分の知らないところで、自分の知らないことが勝手歩き回っていく。そして、気が付けば自分が何者か分からなくなるのだ。

私はありとあらゆることを想像したが、何も感じることは出来なかった。現実として起こったことは、祖父は若いころに会社を創業し、それと同時に森壮に引っ越したということだけだ。そのときに先祖代々の墓まで移動させている。それにどんな意味があるのか、どんな意図があったのか、私には分からない。

「たしかに大おばあちゃんは頑固者だったみたいだね」と私は言った。

「まあ、私も聞いた話だからね、本当のことは分からないけど」と母はそう言った。 

 まあそれでも、と母はお茶をすすってから、私を見た。

「頑固者だろうがなんであろうが、人に迷惑をかけたらよくないよ」

 何かにつけて、道徳的な話を持ち出す母の癖が出た。独立する前はそれが嫌で仕方なかったが、今は訓戒として聞き流している。ただ、話が長くなりそうだったので、ぱっと思いついた話題に切り替えた。

「そういえば、母さんはどうして父さんと結婚したの?」と私は訊いた。

 急な質問だったのか、そんなこと考えたことがないのか、母はそうだねえ、と言って黙った。この手の質問は互いが生きているうちにしようと前々からおもっていたのだ。母はお茶を入れなおした。

「父さんに結婚してくれ、って言われたからかな」と母は言った。

「それだけ?」

「それだけ」と母は言った。

 私が求めていた答えと少々異なるということを察した母は少し笑った。

「何か特別な理由があったほうがよかった?」と母は微笑みながらそう言った。

「いや、私がロマンチストなだけだよ」と私は言った。

「そういうところも父さんそっくりね」

 母は思い出したように、私の同級生がこの間結婚したという話をし始めた。そんな話は初めて聞いたし、あまり興味もわかなかった。その同級生とは中学と高校が同じで、二人ともよく知っていた。たしか高校からずっと付き合っていたと思う。

「それとね、里奈ちゃんの話は聞いた?」と母は言った。

「聞いてないね」

「前に子供が生まれた話はしたよね。結局離婚したらしいのよ。とても仲良さそうに見えたのにね」

 なぜか母は嬉しそうに話していた。私からすればどうでもいいことだ。


私はもう一度、曾祖母の写真を見たいと思った。その写真には何か大切なものがあるのではないか、何か見つけなければならないものがあるのではないか、という思いが絡まった糸のように私から離れなかった。自分で結婚相手を決めたとき、曾祖母が何を決意して、何を捨てたのか。私はそれだけでも聞いてみたかった。だが、もう一切聞けないのだ。

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