第44話 お母様を廃人寸前に追い込んだ悪夢の舞踏会に、私達は再び挑むのです。そこにソロモンが暗躍しているとも知らずに。

「……ねえ、スカーレット。私のこのドレス、変じゃないかしら」


お母様は姿見に映った自分の姿に目をやり、不安げに問いかける。


身をねじり、後ろのスカートのひだまで、必死に確認しようとする。

独楽のようにくるくる回る。

万事おおらかなお母様にしては、病的なまでに念入りだ。

そんなことをすれば、かえってドレスが着崩れてしまう。あわてて着つけけ担当のメアリーが走ってきて、お母様をぐるりと取り囲むように次々に姿見を設置した。


「奥様、とてもお美しいし、よくお似合いと思います」


メアリーが褒めるし、私も同意見だ。


なのにお母様は、「……いいのよ。お世辞なんて言わなくても。自分で自分のことはよくわかっているの。そうよ、私なんか、ドレスが欠片も似合わないゴミクズ。社交界の面汚しなのよ。ああ、自信がない。私なんか生まれてくるんじゃなかった……」


その場に座り込みそうなぐらい、ひどい卑屈っぷりだ。

猫背になり、ぶつぶつ呟き始める。

憔悴しきったお母様の前屈した姿を、周囲の無数の鏡が映し出す。

……なんか除霊の儀式でもとりおこなっているみたいだ。


私はため息をついた。呆れたからではない。

お母様がかつて受けた心の傷がどれだけ深かったかが窺えたからだ。

私はしかたなく奥の手を使うことにした。


「お母様は、英雄『紅の公爵』が永遠の伴侶として選んだ方です。これ以上、誇らしいことがありますか? 胸を張ってください。……さあ!! ここを舞踏会場と思って!! 鏡の向こうから、お父様がエスコートにやってきました!!」


私的にはあんなお母様命のクレージー公爵はどうかと思うが、お母様への効果は抜群だった。

はじかれたように、はっと顔をあげ、きっと前を見据え、堂々と歩き出す。

私は満足した。どこに出しても恥ずかしくない貴婦人ぶりだ。


「……ヴェンデル……ああ、愛しい人……」


ああっ!! お母様、鏡にキスは無用です!!

イメージ世界に没頭しすぎです!! 


私の両親のバカップルぷりは今日も健在である。

ま、まあ、でも落ち込んでいるよりは数倍いいか。

これなら、きっとなんとかなる。……なるよね。……なってほしい。

正直、一抹の不安はぬぐえません……。


じつは、今夜は私達、これからちょっと一勝負に出かけなければならないのだ。

ドレスと女の意地がきらびやかに火花を散らすフィールドへ。


かつてお母様は「赤の貴族たち」の凄惨ないじめで、廃人寸前まで追い込まれた。その元凶の一人に、舞踏会に招かれているのだ。お母様と一緒にね。


元凶の名前は、ローゼンタール伯爵夫人。


ハイドランジアの先王の寵姫で、その権勢は今なお健在だ。

厳密には彼女は「赤の貴族」ではないのだが、その勢力と思いっきり癒着している。

美しく残忍で、自分より目立つ者には容赦しない。

私設の暗殺部隊も抱えていて、逆らう相手には闇討ちも辞さない危険人物だ。

私も「108回」で何度か殺されかけた経験がある。

主にアリサのやらかしの巻き添えでだけど……納得がいかぬ。


そんなローゼンタール伯爵夫人からの舞踏会の招待だ。

もちろん好意からのはずがない。

魔犬ガルム討伐で名をあげたお母様、それに神童として王族と懇意にしている私が気にくわなく、嗤いものにしてやろうと罠をはって待ちうけているのだ。


ハイドランジア現国王はローゼンタール伯爵夫人と対立している。現国王を中心とした王族が力を増すことで、彼女の力は相対的に大きく削がれた。現王家復興の立役者である私は、不倶戴天のにっくき仇になるわけだ。


だいたいお父様の出張中を狙って、わざわざ招待状を送りつけてくるスタートからして、不穏な気配とあやしさ大爆発だ。


しかも舞踏会開催の一週間前に届いたんだよ!! 

普通は一カ月近くは猶予をもたせるのに!!

それも仮装舞踏会!! 

今回の服装テーマは、ハイドランジアが第二次繁栄期だった頃、銀の時代の宮廷衣装だ。

これ、意地悪いなんてもんじゃない。

百年以上前の衣装だから、今とはまったくドレスの形が違っているのだ。

ほぼ現存していないから、どこからか借りることもできず、本人達でつくるしかない。

当時の生地だって容易には手に入らない。

しかも悪いことに神話の時代と違うので、過去の絵画や記録に正確なデータが残っている。

ごまかしがきかないのだ。

……明らかに嫌がらせだ。

出だしからこれなのだから、敵の本拠地の舞踏会では、それこそ何が起きるかわからない。


でもね、罠の中心に敵がいるなら、罠ごと粉砕すれば、その喉許に刃を突きつけることもできるんだ。災い転じて福となす。虎穴に入らずんば虎児を得ず。私は・・・・私とお母様は、ただ黙ってボコられるだけのやわな存在じゃないんだ。

私達を甘く見たことを、地獄で後悔させてあげる。


たとえ三歳でも、私は男爵の爵位もちだ。

名目爵位ではない。

領地も俸給もないけれど、国王から特例で授けられたれっきとした爵位だ。

私としてはお金か現物がよかったけどね。あのケチじじい。


ローゼンタール伯爵夫人はもちろんそれを知っている。

だけど我が実家が、ヴィルヘルム公爵家が、いまやハイドランジア屈指の大富豪になっていることは知らない。徹底した情報管制を敷き、うちは変わらず貧乏であるという噂を、社交界にわざと流し続けたのだから当然だ。


我が家の本当の実力を知っているのは、ハイドランジア王家、信頼おける政府の重臣たち、それに極限られた人間達だけにおさえている。

こちらの態勢が整うまで、あちこちから余計な警戒心を抱かれ、邪魔されたくはなかったからだ。

でも、もう雌伏のときは過ぎた。

力は十二分に蓄えた。これからは隠す必要はないのだ。


私は腕組みをし、玄関口の広い石段で、仁王立ちをして馬車を待つ。


柱廊式の大きな玄関は、ロマリアの遺跡を思わせる。張り出した屋根の下には柱の間を通るように、たっぷり空間を取った車寄せがある。たとえ大雨でも客人はまったく濡れることなく、横付けした馬車から直接玄関に入ることができる。来客にやさしい建物なのだ。


高い階段をへいこら登るしかなかったはったりだらけだった旧屋敷とは大違いだ。

あれはひどかった。建主のバイゴッド侯爵夫妻の性格を反映して、見せかけだけの無数の煙突、尖塔だらけの厳めしい、ほんと見てるだけで圧迫されるような、気が滅入る建物だったもの。

あんな中に閉じこもっていたら、そりゃあお母様もどんどん病んでいってしまうよ。

だから新公爵邸は採光性が高く、吹き抜けを多様したつくりになっている。

自然が大好きなお母様が邸内でもくつろげるよう、植物の緑や花もあちこちに配置している。

でも、おかあさま、植え込みの中に罠を仕掛けるのは勘弁してください。庭師が死にます。  


新公爵邸には、オランジュ商会の協力でつくりあげた温室もあり、この国では見ることができない異国の植物も多く栽培中だ。まだ「この時点では」ハイドランジアで知られていない、外国の生花を提供出来るので、王室にたいそう重宝されている。貴族社会においては、誰も用意できないものというのは、贅をつくした高級なもの以上に価値があるのだ。


……私にとっては容易いことだ。「108回」の知識を活用すれば、未来においてハイドランジアに初輸入されるさまざまなものを事前に押さえておける。どれなら国内でも生育可能かまで、おおよそ把握している。くりかえすが私は勤勉な悪徳女王だったのだ。あとは海外に伸ばせる手と、購入できる財布さえあればいい。そして私にはブロンシュ号という、世界最速の帆船が味方についているのだ。

宮殿に私が献上した花を見て、大貴族どもが目を白黒させていたと、国王陛下は痛快そうに私に耳打ちしたものだ。もちろん贈り主は大貴族たちには内緒だ。


……夜の向かい風に私の赤髪がなびく。

メアリーの手入れのおかげで、髪はいつも艶やかだ。

ただあまり長髪だと性別をあやしまれるので、残念ながら肩口までしか伸ばせない。


だけど今宵は仮装舞踏会。

ならば、「男であるはずの私」が、女の格好をしていても、おかしくはあるまい。


私はリボンと宝石をあしらった履物のかかとで石床を鳴らし、足を一歩踏み出した。

レースとフリルにいろどられた大きな白い寝かせ襟が逆三角形のラインを描く。

襟をのぞけば、ドレスの基調の色は赤だ。

ハイウエストでしぼった襞の多いスカート。

中の骨組みはなく、ペチコートの重ね着でボリュームをもたせてある。

慎ましやかな髪飾りと各所の締めのリボン以外、私に装飾品は必要ない。

胸元には相棒である「神の目のルビー」のペンダントが光っている。

百カラットごえのこの涙型のルビーの前には黄金の輝きさえ色褪せる。

ちょうちん袖に入れた切れ込みが風をはらみ、鮮やかな裏地をさらす。銀の時代の宮廷衣装の特徴のひとつのスラッシュだ。白雪姫のドレスの、ぷっくらふくらませた肩の袖口の縞模様みたいな例のあれだ。


うん、やっぱり、ドレスは悪役令嬢の戦闘服だ。華だ。鎧だ。

百年以上前の意匠なのが少し残念だが、気合いが入ることに変わりはない。

今夜の私とお母様は戦うシンデレラ。

この舞踏会を皮切りに、私達を敵にまわす愚かさを、腹に一物かかえた連中に知らしめなくてはならならない。

私の輝かしい引き籠り生活のために!! 

そしてお母様を不当に貶めた奴らに目にものみせてくれん!!


足首まであるスカートを颯爽とさばき、私は手にした扇をばっと開いた。

悪役令嬢には扇子がよく似合う。幼児用の小型の木扇であり、華美な房も絵も描かれていないけど、希少な香木でつくられており、価値がわかる者なら涎を流して欲しがる逸品だ。

私は煌々とした月をふり仰ぐ。扇の透かし彫りの向こうに月が輝く。


さあ、戦闘開始だ!!

魔王姫と私が貴族社会でおそれられる意味を、その身をもって思い知るがいい。


それにしても、一応男のふりをしているのに、魔王姫とは、これ如何に……

姫みたいに可愛らしいのに、魔王みたいに性格が悪いというのが由来らしい。

ちょっとショック……

まっ、いいか。ならば悪評も力に変えるべく、私は悪役令嬢伝統の高笑いを月夜に奏でるのみ!! 

今夜は女装しているから、気兼ねなく高笑いができる。


「……おーっほっほっ!! ……まずは、豪華馬車、おいでませ!!」


ああっ、お嬢言葉が声で出るって素敵!!

新生児時代は、高笑いしようとしても、アーッアッアッアッだったもの。


びしっと扇を振り下ろした私の呼び掛けに応じ、八頭立ての巨大な馬車が、地響きをたてて、我が家の玄関前に急停止した。石段の角と車輪にかぶせた鉄がぶつかって火花が散る。馬車が鼻先をかすめる。ぶわっと風が押し寄せ、私の髪とスカートを舞いあげた。平静を装ったが、正直かなりびびった。幾らなんでもやりすぎだ。誰が石段削るところまで馬車を寄せろと言ったのだ。あとでドヤ顔している御者の女装メイドをどついてやらなければならない。


「……な……な……な……!」


背後のお母様が呆然と立ち竦んでいるのがわかった。


「八頭だての馬車……!?」


絶句している。

貴族でもなかなか八頭立て編成の馬車は使わない。

せいぜいが四頭までだ。

頭数が増えれば、それだけ人員が必要になるからだ。

馬車は御者が一人座り、手綱と鞭を振るえば進むというわけではない。

運転手がいれば事足りる機械化された車とはまったく違うのだ。

ゆったり歩かすならともかく、走らすとなると一大行事となる。

発着に馬のサポートをする口取り役。

扉を開いたり便宜を図る車従役のもの。

頭数が多くなりすぎれば御者一人では手に負えなくなり、騎手だって必要になってくるし、馬の口取り役の数も増やさないといけない。豪華になればなるほど、とにかく金と人員が必要になるのが馬車だ。だからこそ馬車は富の象徴足りうるのだ。


八頭だての馬車は、まあ、はったりだ。

ほんとうはもっと増やすつもりだったが、途中のカーブが難しくなるとブラッドが判断し、八頭だてに抑えた。


貴族は馬車を見て、相手の格を判断する。

舞踏会場に乗り付けたところから、すでに戦いは始まっているのだ。

だから、私は心の中で、馬車を戦車と呼んでいる。

社交界という戦場で、最初に度肝を抜いておいて、心理的な優位に立つための重要な武器だ。


馬車の車体にも半端でないお金を注ぎこんでいる。

車両のいたるところに貼り付けた金箔と金細工が、車体の四隅のランタンの光できらきら輝く。

広い平面が確保できる扉などには、豪華な絵をあしらっている。

ぱっと見の印象は、金の額縁に覆われた絵で作り上げた馬車というところだ。

そのうえに房と飾り布でデコレーションしている。車体だけではなく、馬達もそうだ。

車体の内装は、馬車の座席というより豪奢なソファつきの応接室を切り取ったようだが、扉も壁も光沢ある上質な革で内張りがほどこされているのが異なるところだ。私の秘密工場でひそかに作らせていたので、お母様はこの馬車の存在を知らなかった。


「……あの、スカーレット。この馬車、幾らぐらいかかったのかしら」


おっかな吃驚というふうに、お母様が尋ねてきた。


馬車の扉の銀の取っ手と巨大な紋章から目を離し、私は振り向いてにっこり笑った。

我が家の紋章だけでなく、王家の紋章の銀の浮き彫りも取りつけてある。

国王陛下から私が賜ったのは、男爵爵位だけではない。

王家の紋章をつかう特別許可もだ。

貴族社会に疎遠だったお母様は、その意味がわかっていない。

これからは水戸黄門のように、王家のご威光も使い、私は悪党どもを制圧するのだ。


「心配いりません。「基礎の部分」はだいぶ安くつきましたから」


私が口にした金額を聞いて、お母様はいくぶんほっとしたようだった。

私は心の中でお母様に謝った。私が今述べたのは、車輪を含むシャーシ部分と、馬と馬車を繋ぐ牽引具や馬具だけの値段だ。馬の値は含んでいない。もちろん「基礎の部分」の上に乗っている「車体」の価格もだ。


たぶん正直に言ったら、お母様は卒倒寸前になり、座席に座るのさえ尻ごみしてしまうだろう。

もともと馬車よりも直接馬に騎乗するほうが気が楽なお母様には絶対に明かせない。

ただ今回それをされるとドレスがむちゃくちゃになるし、貴族には貴族としてのルールがやはりある。この馬車は、そのルールに則った戦いにいろいろ便利なので、どうしても必要だったのだ。


勘の鋭いお母様は、私の引け目を敏感に感じ取り、いぶかしげにこちらを見たので、私はあわててお母様の手を両腕で抱え込んだ。お母様が目を細め、私の頭をなでる。


薄緑をベースにしたお母様のドレスはとても可憐だ。

私の格好と違い、後ろ腰のところでローブをたくしあげるようにまとめ、リボンでとめている。例のメルヴィルのとんでも伝統衣装の反動でか、お母様はクラシカルなドレスを好むので、百年以上前のよそおいというのは逆に安心したらしい。


正直、一週間で布を調達し、ドレスを仕立て上げるのは、無茶を通りこし、不可能に近かった。だが、私達にはオランジュ商会という海を駆ける商人たちと、裁縫の天才のメアリーがいた。オランジュ商会の会頭セラフィは、コスプレ衣装づくりが趣味のメアリーとうまが合うらしく、次々にいろいろな種類の布地を無償で我が家に届けに来る。その中に今回の仮装舞踏会のテーマの時代衣装にふさわしい布地が偶然あったのだ。そのかわりメアリーは、オランジュ商会の新作衣装の制作を請け負っている。私に着せるべく衣装制作に日夜励んだメアリーの腕前は、いまや神業のレベルに達していた。


それにしてもお父様がいなくて幸いだった。

お母様命のあの人が、お母様のドレスアップした姿を見たなら、跪いて手にキスをしたあと、お姫様だっこをして、舞踏会を無視し、寝室に運び去りかねない。

三年たった今もその狂恋はいささかも衰えない。

仲睦まじいを通り越し、夫婦の仲は激甘の蜜月そのものだ。

子供ができないのが不思議でしかたない。

房事過多なんじゃないだろうか。


恥ずかしがり屋のお母様は、フード型のヘッドドレスを着用している。

後ろのベールだけではなく、前までベールを垂らして顔を隠そうとしたので、皆であわてて止めた。

お母様、それじゃ、慎み深いを通り越して、まるで黒子です……


「……で、どう、ブラッド。その馬車の調子は」


私は下から見上げるとずいぶん高い位置にある御者席に声をかけた。

断じて私がチビだからではない。高級馬車の御者席はかなり高所にあるせいだ。


「ばっちりだ。……な、みんな」

 

馬の視野に入って刺激しないよう、長い棒の先端についた鞭を高くあげ、ブラッドが前後に声かけする。その言葉に、車体を牽引する馬の騎手たちが笑顔でうなずく。


横二列縦四頭づつの八頭の馬たち、これだけ頭数が増えると、さすがに御者のブラッド一人ではさばけないので、サポート役として左側の列の先頭と最後尾に騎手がまたがっているのだ。

車体の後ろのステップに足をのせ、革ひもに掴まり立ち乗りした四人の車従兼口取り役も、ばらばら降りてきて、問題ないということを手動作で伝える。うちの馬車、横幅広すぎ……


そして、あほブラッドめ。馬の口取り役が降りるより早く、あんな危険な急停車したのか。

みんな苦笑してるじゃない。あとでお説教よ。


彼らは皆、うちのフットマンたちだ。

今日は乗馬服に殉じた特注の衣装を着てもらっている。

物腰の柔らかいにこやかな彼らだが、その素性を知れば、武にくわしい人間達や、裏社会の人間達は、ぎょっとするだろう。絶対に敵にまわしてはいけない伝説的なタブーそのものの存在だからだ。


私も「108回」の女王時代にどれだけ辛酸を舐めさせられたことか。

その彼らが今は味方なんて、ほんと人生なにが起きるかわからないものだ。

すべては、ブラッドがあの日、ひょっこり公爵邸に紛れ込んだところからはじまったのだ。


張本人であるブラッドは、あいかわらずのメイド服のまま、ちょこんと飾り布だらけの席に腰をおろし、まるでケースのなかの人形に見えた。

三年前より少しだけ背と髪が伸びたが、それ以外はほとんど変わっていない。仕草に優美さが加わったぶん、前よりも女性らしく見える。今夜は格好つけて乗馬ジャケットをマントのように肩から羽織っているが、女の子がぶかぶかのシャツを着て、かわいらしさを強調するみたいになってしまっている。こいつ、いつになったら、細マッチョの強面に変わるんだろう。

こんなのが次代の長でいいのか、「治外の民」……


「ああ、前に言ったろ。跡を継ぐのは兄貴のほう。だから、オレは好き勝手やれるの」


 三年前よりもキレ度を増した読心能力でブラッドが笑いかける。

私が赤ん坊でアウアウ語だった頃からやり取りしていたせいか、私とブラッドは互いの考えがツーカーだ。ブラッドもいくら血液チートがあるとはいえ、他の人間の考えはそこまで的確に読むことが出来ないらしい。


私だけプライバシー筒抜けかよ……

ま、今さらだけどね。私もすっかり慣れっこだ。

この天真爛漫……いやさ、あほの事を深く考えても仕方ない。


「……それよか、おまえ気負いすぎてないか。あんまり一人で抱え込もうとしないで、オレにも遠慮なく話をふれよな」


その屈託ない笑顔には時々どきっとさせられるけどね。

妙なところで気配りできる、不意打ちの優しさは卑怯だと思う。

笑いかただけは女の子のものでなく、輝く少年の笑顔だ。


「……コーネリアさん、その緑のドレス、よく似合ってるぜ。森の色がやっぱりコーネリアさんには映えるな。……もちろん、スカーレットのドレスも可愛いぜ。赤はおまえの色だもんな」

 

はいはい、どうせお母様と違い、私はお子さまですよ。と拗ねかけた私をブラッドがさりげなくフォローする。まったく……おまけみたいな褒め言葉だけど、許してやるか。


やさしい私はくるりと回ってドレスを全方位から見せてやった。

うむ、苦しゅうない。とくと鑑賞するがよい。

人間~五十年~下天のうちを~比ぶれば~夢~幻のごとくなり~

せっかく扇子を持ってるんだし、ついでに出陣の舞をひとさし……

とどめに、べーっと舌を出して、あかんべえをしてやる。


「……あんた今、馬子にも衣装って言おうとしたでしょ。そして続く台詞は、馬子は御者役のオレのほうだけどな、でしょ。……なーんで会話にオチをつけようとするかな」


「会話にオチをつけようとするのは、おまえのほうだろ。舞踏会に行く前に、扇子広げていくさ舞なんて踊り出す令嬢、おまえぐらいなもんだぞ。賢いのにほんとアホだな。スカチビは」


「……むきーっ!! あほにあほって言われた!! スカチビってゆーな!! あんただってチビじゃない!! 私、絶賛成長期なんだからね!! みてなさい!! 一年後には必ず背丈で追い抜いてやる!! そう、蛹から蝶に華麗に生まれ変わるようにね!!」


「……いや、一年でオレより背が高くなったら、おまえ蝶どころかモンスターだろ。華麗とか言うんなら、ドレス着て暴れるなよ。むきーっ、とか、多分おまえ以外つかわないぞ」


「むきききーっ!! 言うに事欠いて、このハイドランジアの宝石をモンスターとは!! せめてトゥインクルスターと言い直せ!! 由緒正しい漫画的表現をなんと心得る!!」


地団太踏む私にブラッドが呆れ顔を向ける。


「だから暴れるなって。パンツ丸見えではしたないぞ。ハイドランジアの珍石」


「ほ・う・せ・き!! わざとらしく間違えるな!!」


おのれ、少しばかり高いところに座っているのをいいことに、上から目線で話しかけおって!!

憤懣やるかたなしッ!! 布切れの一枚や二枚見られようが、なにほどのものか。新生児時代におむつを人目にさらし続けていた私が、いまさらパンチラぐらいで怯もうか!!

見てなさい!! 今すぐ馬車のてっぺんに登って、あんたを逆に見降ろしてやる!


怒りにまかせてスカートをまくりあげて馬車によじ登ろうとした私を、見送りに来ていたメアリーがひきとめた。


「……お嬢様、そろそろ出発されないと、舞踏会に遅れますよ」


メアリーに脇の下から両手をいれ持ち上げられ、武士の情けじゃ、お放しあれ、と叫んで空を足で蹴っていた私は、その言葉にはっとなった。

たしかにアホのブラッドにかまけている場合ではない。

身軽に後方のステップから飛び下りた車従役が、すっと馬車の扉を開き、タラップを据え付ける。


「……参りましょう。お母さま!!」


私は気を取りなおし、ブラッドとのやりとりに顔をやわらげ笑顔を見せたお母さまに手を差しのばした。さっとメアリーが後退しながら、私だけにわかるようにそっと囁く。


「……奥様の緊張をほぐしていただいて感謝します。奥様を頼みました。お嬢様、ブラッド」


すべてを見通していたメアリーの微笑みに、私は赤面を悟られないよう扇で隠した。ばれてたのか。ブラッドも気まずそうにぽりぽりと片頬をかいている。

まったく、メアリーにはかなわないよ。さすが我が家の精神的大黒柱だ。

この舞踏会の招待状をうけたとき錯乱したお母様を支えてくれたのもメアリーだった。


そのときのお母様の様子を思い出すと、今も胸が痛む。

お母様は蒼白になって、手紙を取り落とした。

がたんっと人形が落ちるように床に転がり、背中を丸め、発作を起こしたようにがちがちと歯を鳴らしていた。毅然としたお母様を見慣れていた私にとって、それは衝撃的な光景だった。物音で駆けつけたブラッドも私も言葉を失って立ち竦んでいた。


舞踏会の会場のローゼンタール伯爵夫人邸は、かつてお母様の心をうち砕いた虐めの現場だった。

十年間お母様をひきこもらせた悪夢、それは今だに深いトラウマになって、お母様の心の奥底を蝕んでいた。それが手紙をきっかけに一気に噴出したのだ。


大好きな凛としたお母様が、髪の毛をぐしゃぐしゃにかきむしり、ひいっと笛のような悲鳴をあげて痙攣していた。


「……コーネリアさん……!!」


見るに耐えられず、かけよって背中に手をあてたブラッドが悲しそうに首を横にふる。

ブラッドの血液チート技でもお母様の錯乱は止められなかった。

我を失うほど神経が興奮しきってパニックに陥っている。

お母様の症状は、私が「108回」の最期の記憶が次々にフラッシュバックしたときと同じだった。

お母様の意識は今この場でなく「赤の貴族達」に集団リンチを受けた恐怖のまっただなかに、逆行してしまっていたのだ。メルヴィル家のおじいさまと、私のお父様の名前を叫びながら助けを求め、いやいやするように頭を振り、涙を流し続けている。


「……お母様!! 落ち着いてください!! ここは、お母様のお家です!! お母様を傷つける人なんて、ここには誰もいません!!」

 

私は堪らずすがりつき、お母様を揺さぶった。

だが駄目だ。お母様の目の焦点がとんでいる。

お母様には私の声が届いていない。

涙があふれてきた。

私はお母様の頬にほおずりした。二人の涙が混じり合う。


お母様がいじめられた話は、もちろん私も知っていた。

だけど、もうとっくにお母様は克服していたと思っていたのだ。

まさか、心の傷がこんなに深く残っていたなんて・・・・・!!


お母様は過呼吸におちいり、傷ついた小鳥のように震えていた。

私は己の甘さを呪った。

お父様がそのときの話をしてくれたとき、髪を逆立て怒りの形相を浮かべていた理由を、私はようやく正しく知ることが出来た。お父様は、「赤の貴族たち」の嘲り笑う輪の中でいたぶられる、この状態のお母様を直接見てしまったのだ。怒髪天をつくのは当然だ。

見るのと聞くのでは大違いだった。

みんなで寄ってたかって、ここまでお母様を追い詰めたのか。

なんて酷いことを……!!


ローゼンタール伯爵夫人の招待状を断じて見せるべきではなかった。私が迂闊だったのだ。


「……ごめんなさい……! ……お母様、ごめんなさい……!!」


私の揺さぶりもお母様には届かない。

お母様の意識はここではなく、地獄にとんでいたからだ。

私は非力だった。

しがみついて、わんわん泣くことしか出来ない非力な幼児そのものだった。


「……お嬢様、あとは私にまかせてくださいますか」


途方に暮れる私達を救ってくれたのはメアリーだった。

居間にティーセットを持って入ってきた彼女は、お母様と部屋の様子を一瞥しただけで、事態を悟った。私達以外誰も入って来ないようてきぱきと指示をとばしたあと、跪いて私ごとお母様を優しく抱きしめた。なにごとが起きたのかと尋ねさえしなかった。


あまりのお母様の狂乱ぶりを見かね、一度気絶させようとしていたブラッドがメアリーに場所を譲る。


「……おつらかったですね。奥様。みんなに気持ちを踏みにじられて……理不尽な目にあって、とても悲しかったですね。おかわいそうに……」


メアリーは自分の姉妹をなだめるように、お母様の髪をなでながら語りかける。


「……ねえ、奥様、奥様が過去にあわれた苦しみは、私の言葉なんかでは慰めきれません。だけど、ここには奥様を心から愛するお嬢様がいます。光が目の前にあるのに、つらい闇にこれ以上苦しめられるなんて、悔しいじゃないですか。……だって、あの人達はおもしろ半分に奥様を突き落として笑い者にしたんですから。だから、光を見てください。お嬢様を見て、名前を呼んでください。公爵さまだって、どんなに奥様を愛していることか。あのひどい人達にはない宝物を私はもってるって、そう胸を張ってください」


メアリーは過去に立ち向かえとは言わなかった。

母親としてふさわしくあれとも言わなかった。

ただ、お母様を抱きしめ、娘の私を見てと言っただけだった。


愛する息子のヨシュアを目の前で噛み殺されたメアリーは、哀しい過去を背負っている。

絶望し、我が身の非力を呪い、運命の理不尽に納得がいかなかったはずだ。

それでも彼女は立ち上がり、また人生を歩みだしている。

その言葉には理屈をこえた不思議な重みがあった。


「……私の娘……? ……スカーレット……」


お母様の呟きに、メアリーが頷く。

メアリーの言葉はお母様に届いたのだ。

お母さまがまばたきをし、目に焦点が戻った。その瞳が私の泣きべそを映し出す。

は、恥ずかしいなあ。私、鼻の頭まっかになってるし、涙と鼻水でぐしゃぐしゃ顔じゃない。

赤ちゃんの頃とあまり変わっていない気がする・・・・・


「……スカーレット……? どうしたの? そんなに泣いて。怖い夢でも見たの? だいじょうぶよ、母がついていますからね……」


現実に戻ってきはしたが、まだショックから覚めやらず、お母様の意識は朦朧としたままだった。今しがたの記憶が飛んでしまっていた。それでも私を認めると、心配そうに手を伸ばし、私をぎゅっと抱きしめた。無意識に子守唄を口ずさむ。


「……お母様……」


それはメアリーに教えてもらった彼女の故郷の哀切なメロディー、春の渡り鳥の歌だった。背中でその子守唄を聞きながら、私はお母様の胸に顔をうずめて泣いた。


お母様とメアリーの切ない優しさに胸が痛くなる。

二人とも悲しみを乗り越え、人を愛することが出来る、私の最高の母親たちだった。

だから、私はお母様の背中に両手をまわして誓った。

どんな手を使ってでも、私はこの二人だけはこれ以上不幸にさせない。

そのためになら、私は鬼にも悪魔にもなろう。


……しばらくして完全に正気を取り戻したお母様は、蒼ざめた顔のまま、けれどしっかりした口調で、ローゼンタール伯爵夫人の招きに応じると言った。


「スカーレット、あなたは私を守るために、あのおそろしい伯爵夫人と対決する気なのでしょう。私は昔の傷にも怯える臆病な人間だけど、娘のかげで震える卑怯な母親にはなりたくない。娘に背中で語れなくても、ともに手をとりあう資格ぐらいは失いたくないの。だから……私も戦うわ」


いいえ、お母様、あなたはいつも私を背中で守ってくれました。

私をかばうため、たった一人で魔犬ガルムに挑んだあの背中を、私は生涯忘れることはないでしょう。もしも私に勇気があるというのなら、それは紛れもなくお母様から受け継いだものなのです。


トラウマをこえて立ち上がろうとするお母様に感極まり、私はその手を固く握りしめた。


「……お母様!!  私達母娘が力を合わせれば、おそれるものなど何もありません」


そうだ。弓でも剣でも鉄砲でも持ってこい。

ローゼンタール伯爵夫人や赤の貴族達がなんだ。

私のお母様は、一人で魔犬ガルムと渡り合ったんだ。

あんた達のうちの誰がそんなことができる。

権力の安全な鎧に隠れているあんたらには一生かかっても持てない勇気を、お母様は私に何度も見せてくれた。私の母親だからとか関係なく、この人はあんたら程度に笑いものにされていい人じゃないんだ。


「……ま、オレも貴族百人を敵にまわすより、スカチビとコーネリアさんを敵にまわすほうが、よっぽど怖ろしいな。そのうえ、あの公爵の旦那もいるしな。オレの父上もきっと同じ意見だぜ。「オレ達」があんた達家族の味方についた、その意味を理解して誇ってくれると嬉しいな。四大国からのスカウトも「オレ達」は蹴り続けてたんだぜ」


にかっとブラッドが笑う。

その言葉はお母様をずいぶん勇気づけたようだった。


「……怖いだなんて、ずいぶんな褒め言葉ね。それは喜んでいいことなのかしら」


顔色が明るくなり、はにかんだ笑顔が浮かぶ。

私はジト目でブラッドを軽くにらんだ。

私の見せ場を横からかっさらいおって・・・・


ほんとタイミングがいいというか、機に聡いというか……

ブラッドの奴、「一〇八回」では気づかなかったけど、ほんとはすごい女たらしなんじゃないでしょうね……ガードの固いお母様の懐に、ブラッドはいつもするりと入り込む。こいつがその気になったら、大抵の女の子はころっとまいっちゃうんじゃ……


あほのくせに妙に恰好良く見えるときがあるんだよね。まったく……

でも、よく考えたら、女装してる限り、こいつに惚れる女の子がいるはずもなしか。むしろ掘られる心配のほうをしなきゃいけないよね。

仕方ないから、ハイドランジアの宝石と謳われた未来の美女の私が、これからも遊んでやろう。

こいつと一緒だと、いろいろと飽きないしね。

私、かわい優しい!! ちゃんと感謝してよね!!


ふんぞりかえる私を見て、ブラッドが苦笑した。


「……あー、メアリーさん。かわいいスカーレットが、仮装舞踏会にはフリフリ全開のドレス着ていきたいってさ」


「まあ、お嬢様!! ついにロリータファッションに目覚められたのですね!! まかせてください!! 腕によりをかけて、最高のものを用意させていただきます!!」


「ちょっ……!! ブラッド、あんたなんてことを……!!」


目を輝かしだしたメアリー、その手にはいつのまにかボンネットが握られている。

顔周りから詰め物のようにフリルがあふれている被り物に私は悲鳴をあげた。


メアリーは隙あらば、私に「かわいい衣装」を着せようとするのだが、それは無数のフリルとレースとリボンで武装されたものすさまじい代物だ。

冷酷女王の記憶をもつ私にとっては、恥ずかし殺しの拷問に近い。

甘い高級菓子用の包装で、むりやり激辛煎餅を飾り立てているような違和感に閉口する。

メアリーのことは大好きだが、この少女趣味だけはいただけない。

私、赤ちゃんの頃にそういうの卒業したんだから!! 

頭も見かけもマシュマロみたいなぶりっこアリサなら大喜びするだろうけど、私には似合わないし、着たくないんだってば!!


「……待ってください!! お嬢様!! ちょっと、ちょっとだけでいいですから!!」


「ぎゃああ!! 服脱がさないで!! ストップ!! ストップ!! ストリップ!! こら、ブラッド!!のん気に見てないで止めなさいって!! あんた女装好きなんだから、代わりに着ればいいじゃない!!」


「……ちっちっちっ、わかってないな。オレの女装はあくまでメイドに身をやつしての護衛のため。そして、やるからには、とことんやる。つまりな。メイド業を極めるまでは、メイド服以外に袖を通す気は一切ない」


なんなのよ!! その変なこだわりは!! あんたは偏屈の料理人か!! 

そもそも、あんたのやってる護衛メイドなんて職種、ふつうのメイド業のカテゴリーには存在しないっての!! おい、妙な決めポーズをとるな!!


メアリーと私の追いかけっこと、ポイントがずれた格好つけをするブラッドに、お母様が笑い転げる。


今回の仮装舞踏会は、銀の時代の衣装がテーマだから、ドレスもそれにあわせてつくらなきゃいけないんだと説明して、なんとかメアリーをなだめることができ、私はほっとした。まさかローゼンタール伯爵夫人に感謝する日がこようとは思わなかったよ。


「……では、残念ですが、今回はあきらめましょう。お嬢様の描かれた絵のとおりに、奥様とお嬢様のドレスを仕立てればよろしいのですね。さいわいお話どおりの生地も手元にありますし、五日で仕上げてみせましょう」


私のデザイン画をみて頷くと、メアリーが片膝をつき、両手をさっと胸元でクロスさせる。

開いた指のあいだに魔法のようにさまざまな裁縫用具があらわれる。おおっ、かっこいい!!


「たたかいの為の衣装づくりは、私にまかせてください。平凡な私でも、少しはお嬢様や奥様のお役にたてるなんて嬉しい限りです」


風をまいて颯爽と立ちあがるメアリー。


……いや、少しどころかいつもメアリーは足向けて寝れないほど役にたってくれてるよ。

それと、ぜったい平凡じゃないからね!!どんなドレスでも短期間で縫製しちゃえるおつきメイドなんて、王妃さまだって喉から手が出るほどほしいスーパーレアな存在なんだから!

 

そしてメアリーの心強いサポートをえて、私とお母様は今日の出陣の日を迎えたのだった。


いざ、髪をなびかせて戦場へ!!


私はお母様の手をひき、タラップに足をかけ、獅子のように威風堂々と馬車に乗り込もうとし、凍りついた。


……段差越えられない。三歳幼女の足、短すぎ……


「……ふんっ!! ふんっ!! よいさ!」


顔をまっかにして奮闘するも、どうやってもつま先が次の段にかからない。

動きが大きく制限される盛装のドレスだからだ。

段差が絶望となって私の前に立ちはだかっていた。

結局私はメアリーに両脇を抱きかかえられるようにし、馬車に乗車した。

まるでデブりすぎて動けなくなり飼い主に強制移動させられるみっともないダメ猫のような出陣姿だった。

おい、こら!! 笑うな、ブラッド!!

私とお母様は隣り合って座席に腰をおろした。

クッションの絶妙な柔らかさと革の光沢と張りをお尻と手でたしかめ、私はその出来栄えに満足した。両脚ぶらぶらは諦めるしかない。次からは足乗せ台用意しとこ・・・・・

タラップがとりのぞかれ、馬車の扉が閉められた。


「……ねえ、スカーレット。この馬車って、ひょっとしてもの凄いお金がかかって……」


内装の豪華さに引き気味のお母様が、再びおずおずと問いかける。


「(大国の王様クラスのものとしては)わりとよく見かけるレベルの馬車です。気にしすぎです。お母様。それより一緒におろしたての新車の初乗りを楽しみましょう」


もちろん()内は口にしない。私は場をごまかすため、お母様にべたっと密着した。

いい匂いと柔らかさを堪能する。


あくまで誤魔化すためよ!! どさくさにまぎれて甘えてるんじゃないんだからね! 

だって、私達はこれから戦いに向かうんだから。

さあ、ドレスという名の戦闘服に身を包み、馬車という戦車で、舞踏会という名の戦場にカチコミましょう!!


……だけど、ほんとのところを言うと、いやな胸騒ぎがおさまらない。

窓の外から見える月が不気味にぎらついている。

私はその不安をかきけそうと、お母様のぬくもりに寄り添っていた。

お母様はトラウマを受けた現場に再び挑むのだ。

つきそう私が憂いた顔をしていてどうするの。


……そのときの私は、例えであったはずの戦場が、本当に行く手に待ち受けていようとは思いもしなかったのだ。

私の胸騒ぎを感じ取り、お母様が語りかけてきた。


「なにか心配ごと? 大丈夫よ。スカーレット。これを見て」


お母様はほほえむと、苦労して身を屈め、幾重にもなったペチコートの縁に指をかけ、めくりあげた。私は目を丸くした。ペチコートを膨らませていた鳥かごのような骨組みが露出する。その内側に小型の矢筒と短弓がコンパクトにくくりつけられていた。


「……メアリーが、私に御守り代わりにこっそり持たせてくれたの。舞踏会でつらい目にあったら、魔犬ガルムと戦った時の勇気を思い出してくださいって言いながらね」


メアリーの発想は私とまったく同じだった。いや、私よりずっと過激だった。

まさか舞踏会の衣装に弓矢を仕込むなんて。

鼻息を荒くしてお母様を鼓舞するメアリーが目の前に浮かんだ気がし、私は緊張を忘れてふきだした。見送るメアリーは車内でなにが起きているかわからず、きょとんと見上げている。私達母娘は顔を見合わせて笑いだした。


……心遣いありがとう。メアリー。

私も頑張るよ。お母様を悪意から守り抜いてみせる。

あほだけど頼りになるブラッドもいるしね。


「……出発、進行!! そら行け!!」


ブラッドが馬達に掛け声をかけ、手綱をしならせ合図を送る。

馬の横についた口取り役たちが、扶助として馬の口についた革紐をひいて歩き出す。

馬と車体を繋ぐ曳く革帯が、馬に引っ張られて、ぐんっと張り詰め、車体ががたんっと揺れた。

八頭の馬の力で牽引され、ゆっくり車輪が回転しだす。

重々しく馬車は動き始めた。


私達は窓の外のメアリーに手をふった。メアリーも手を力いっぱいふる。

馬車はぐんぐん加速し、屋敷は遠ざかっていく。

私は軽くなった気持で、馬車の外を流れる夜の光景に目をやった。

こころなしか差し込む月光がやわらかになった。

 

そうよ。私たち母娘とメアリーやブラッド達との絆は、意地悪な運命なんかに負けないんだから!!


拳を握りしめた私の目の前を、馬の口取り役をしていたうちの使用人たちの服の色がかすめた。

私は頭を抱えた。

彼らは馬車に並走していたからだ。

無事に馬車が動き出したのに、車体の外側後ろの張り出しの、車従用の立ち乗り席に、まだ移動していなかったのだ。敷地内だからいいようなものも、よそでやったら仰天されるだろう。これだけ速度が出ている馬車と等速の人間などいるはずがない。


私は渋面になり、閉じた扇子で馬車の後方を指し示した。

私のサインに気づき、彼らはわかっているというふうに笑顔で頷いた。

すっとその姿が視界からかき消える。

私はさらに頭を抱える羽目になった。

彼らは斜め上に向かって消えていったのだ。着地の衝撃が軽く馬車を揺らす。


あほかあっ!! どこの世界に後方ジャンプで馬車を飛び越え、最後尾のステップに華麗に着地するフットマンがいるのだ。忍者か、あいつらは。両手を伸ばした横山光輝跳びが見えた気がしたよ。彼らの里では常識の身体能力でも、一般社会の視点だと化物すぎるんだよ!!


あほのブラッドに彼らの教育をまかせたのが失敗だった。


まったく、私、ただでさえ魔王姫なんてあだ名持ちなのに、こんな連中引き連れていったら、妖怪の親玉あつかいされかねないよ!!



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



ローゼンタール伯爵夫人は窓際に立ち、集まりつつある招待客達を見下ろしていた。

銀の時代がテーマの仮装舞踏会なので、まるで百年以上前の光景を見ているようだった。


今の時代よりもスカートの膨らみは横に広がっており、慣れない婦人たちはあちこちにスカートをぶつけ赤面している。互いのスラッシュだらけの衣装を見て、知り合い同士の男達が笑いあう。

次々に玄関口に馬車が到着し、貴族たちを吐き出しては、誘導にしたがって待機所に走り去っていく。ひっきりなしに続く車輪の音と、高らかに招待客の名前を読み上げる声は途切れない。

正賓会だけでなく舞踏会でもゲストの名を読み上げるのは、赤の貴族の流儀だ。


人でごったがえす広大な玄関ホールを抜け、ゲスト達は巨大な階段を登る。

コートをあずけたり身づくろいしたい者は着替え室に、くつろぎたい者は応接の間に。一刻も早くローゼンタール伯爵夫人に挨拶したいものは、そのまま舞踏の間に足早に急ぐ。舞踏の間に直行する者が一番多い。彼らのほとんどは夫人への阿諛追従で参加しているのだから当然だ。


だが、彼らを出迎えるべき当の屋敷の女主人は、ドレスこそ盛装しているが、彼らを待たせたまま、平然と自室でくつろいでいる。まるで権力者の権利を誇示するかのように。それが許されるのがローゼンタール伯爵夫人という人間だった。


若くして先王の寵姫になった彼女は、まだ女盛りだ。

生来の美貌に、傲慢な自信が加わり、おそれるものなど何ひとつないというふうなオーラを放っていた。ぎりぎりなまでに開いた胸元に、過剰に盛り上げ飾り立てた髪、つけぼくろ、南国の鳥を思わすど派手な色彩の格好の組み合わせは、一歩まちがえると噴飯ものだ。だが、周囲を圧する雰囲気と立ち振る舞いで、それらを見事に着こなしていた。少なくとも、ローゼンタール伯爵夫人は自分の魅せ方を知らぬ道化ではなかった。美しく年季の入った一筋縄ではいかない女優、それが彼女の印象だ。綺麗なブラウンの髪と目の色だけが、かつて彼女が乙女だった時代の残滓だった。


「……お飲みものをお持ちしました」


三つ編みの若いメイドが、盆に銀のゴブレットをのせ、部屋に入ってきた。

まるで人形のように無表情だ。

ローゼンタール伯爵夫人は、杯のくびれに指をかけ、ゴブレットの中身をメイドにぶちまけた。

メイドは瞬きもせずに、頭からそれをかぶった。

中身は赤い葡萄酒だった。血のようにメイドを染め上げる。

葡萄酒がまともに眼に流れ込んでいるのに、メイドは瞼ひとつ動かさず、視線は前に固定されたままだ。異様な光景だった。


「……飲み物はもういらない。この部屋には赤が足りない。もっと赤の彩りが欲しい」


自室は壁も床も赤一色だった。

ローゼンタール伯爵夫人は、テーブルの上に置いてある果物入れの横のナイフを一瞥する。

その目が不気味に輝く。


「……かしこまりました」


メイドは頷くと、ナイフを取り、自らの白い喉元に押し当てた。

それまで自動人形のような動きだったのに、メイドの表情に戸惑いが浮かんだ。


「……あっ……私……なに、を?」


泣きべそになり、手ががたがた震えだす。


「……早くしなさい」


だが、ローゼンタール伯爵夫人の目がさらに強く輝くと、メイドの少女から再び表情が消えた。


「……はい。わかりました」


そのまま躊躇うことなく、一気に喉をかき切った。

少女の腕力では到底不可能なだけに、目を覆うような異様な光景だった。

背丈ほどの血飛沫が噴出し、メイドは高価な絨毯を血に染め上げ、どうと倒れ伏した。

無表情なままのまなじりに涙が光っていた。


「……おかあさん……おとうさん……」


血泡とともにそう呟き、メイドの少女は目を開いたまま息絶えた。

血だまりが少女の身体の下に広がっていく。

ローゼンタール伯爵夫人は、生々しい赤に染まる絨毯をうっとりと眺めていた。


「……あの人の、紅の公爵さまの瞳の色だわ。なんて美しい……!!」


伯爵夫人は自らの身体を抱きしめるようにし、恍惚として吐息を震わせた。


「まるで、あの人の瞳に見つめられているような気がする。もし、あの瞳の中に私だけを映してくれるなら、私はなにもいらない。すぐに絞首台に登ったっていい!!」


「……ふふっ、社交界の怪物と恐れられる貴女が、恋のために命を投げ出したいとは!! 恋とは、なんと研究意欲をそそる猛毒なのでしょう!」


夫人の背後からいきなり声がかけられた。

先ほどまで誰もいなかった場所に、漆黒のアカデミックガウンをひるがえし、長身の青年が両手を広げて立っていた。かぎ爪のように十指を捻じ曲げ、鼻眼鏡の丸いレンズを昆虫のようにぎらつかせる。白皙の端正な顔立ちだけに、にじみでる狂気が余計に目立つ。


「……ソロモン。相変わらず神出鬼没ね」


ローゼンタール伯爵夫人は驚かなかった。

驚くだけ無駄だからだ。

この銀髪の怪人の力はよく知っている。四大国の玉座の間にさえ出入り自在だろう。


「まずは御婦人の部屋に無断で入った御詫びを。……私のお与えした人をあやつる魔眼、なかなか御上手に使いこなしていますねえ。五人の勇者の一人のルディを思い起こさせます。……これは失言。今ではなくつい「一〇八回」のことを。……しかし、そのせいでこんな残酷な光景を目にすることになろうとは。ああ、恋も知らぬ、穢れなき三つ編みの乙女がかわいそうに」


饒舌なソロモンは天を仰ぎ、わざとらしく嘆いてみせた。


「……恋は人を生かしも殺しもする。命短し、恋せよ。乙女。生まれ変わって恋の素晴らしさを知りなさい。しばし、おやすみ。よい夢を」


少女の傍らに屈み、あてつけのように開いた瞼を閉じてやるソロモンに、ローゼンタール伯爵夫人は苛立ち、羽根扇をぱちんと胸元で手にうちつけた。


「偽善者のマッドサイエンティストが。力をくれたことには感謝するけれど、私の使用人のことに口出ししないでちょうだい。生かすも殺すも、所有権をもつ私の勝手。けがれを知らずに死ねたことはまだ幸せ。弱者の心が自由になるのは、死んでゴミとして捨てられるときだけよ。・・・・おまえたち、早く死体を片付けなさい」


吐き捨てるローゼンタール伯爵夫人の命令にしたがい、ぞろぞろと数人の使用人達が入室した。亡くなった少女と同じで、足取りと表情に生気が欠けている。まるで亡霊の群れだった。ローゼンタール伯爵夫人の魔眼で自由意志を奪われているのだ。皆で無造作に少女の死体を掴みあげ、無言で運び去る。棺桶を運ぶ巨大蟻を思わせた。


「……くっ、マッドサイエンティスト!! 学問に魂を売った私には、最高の褒め言葉です。人間、好きなもののためには、身も心も魂までも売り渡さなければねえ。狂気の果てに純情はある。だから、私は貴女に共感し、力を貸したのですよ。人生すべてを投げうち、紅の公爵に近づこうとした貴女の、報われないあわれな恋心にねえ」


ソロモンは含み笑いをしながら、長い指を伯爵夫人に突きつける。


「貧困のどん底にいた貴女は、その目的のために愛娼の道を選ぶしかなかった。そして、血みどろの努力をし、ついに先王の寵姫の座まで登りつめた。伯爵夫人の称号も手に入れた。やっと紅の公爵に近づける、貴女の胸は高鳴った。しかあし……」


「うるさい!! 黙れ!! あんたに私の何がわかる!! 死ね!!」


ローゼンタール伯爵夫人は怒鳴った。

般若のような形相になり、双眸が凄まじい光を放つ。

ソロモンは平然と視線を受け止め、眼鏡をくいっと鼻のところで持ち上げた。


「おやおや、誰が貴女に魔眼を授けたと思っているのです。この私に魔眼は効きませんよ」


肩で息をして睨みつけるローゼンタール伯爵夫人に笑いかける。


「そう怒らないでください。こう見えても私は貴女を買っているのですよ。紅の公爵にとっての相手役は貴女ではなかった。一生かけて彼の背中を追った貴女は、彼の人生の脇役にさえなれなかった。だから、紅の公爵の愛妻、コーネリアへの目をそむけるような苛めに加担した。常識で言えば貴女の行動は身勝手な屑以外のなにものでもないが、自分の不幸を少しでも、幸せなライバルに味あわせたい気持ち、私もよくわかりますよ」


「うるさい! うるさい! うるさい!」


ローゼンタール伯爵夫人は羽根扇で乱暴にテーブルの上をはらった。

水差しがとび、甲高い音をたてて床で砕け散る。


「……あれが目をそむける苛め? 不幸? はん、笑わせないで!! 私はあのとき、あの女が羨ましくて死にそうだった!! ヴェンデル様はあの女を抱きしめて泣いていた!! あの女のために、その場にいた貴族全員を切り捨てる気だった!! あの女のことしか目に映っていなかった!! もし私があの女の立場に成り代れるのなら、両手両足を切り飛ばされても喜んでかわってあげたわ。ヴェンデル様に愛されるなら、私だって聖女にさえなってみせる!! あの女はどんなに自分が幸せかわかっていないんだ!!」


激昂するローゼンタール伯爵夫人の目に、暗い情念が燃える。

怪人ソロモンの目を真正面から睨みすえる。


「……豚の血をかけられ、貴族たちに数時間嘲り笑われたからなに? 馬鹿な義父母にいびられたからなに!? ……私はね、十歳のときに実の親に客を取らされたわ。泣いて嫌がったのに、断ればかわりに弟たちを売るって脅されてね。一晩変態たちに犯された。止めようとした弟たちは殴りとばされて気絶した。嘔吐してもどんなに泣き叫んでも血まみれになっても、誰も助けてはくれなかった。一晩だけじゃ済まなかった。毎晩毎晩、入れ替わり立ち代り、冷たい藁に押さえつけられて……!  滅茶苦茶にされて私の子宮は孕めなくなってしまった。外見は無傷に見えても、もう子供は産めないの……先王様たちには内緒だったけどね」


淡々と思いを吐き出したローゼンタール伯爵夫人は深いため息をついた。


「絶望してもう死のうと思っていた雪の橋の上で、私は少年のころのヴェンデル様に会ったの。寒いだろうと上着を肩にかけてくれた。ありったけの手持ちのお小遣いを渡してくれ、屋敷に連れて行こうとまでしてくれた。きたない身体になってしまったと泣く私の涙をぬぐって、君の目はきれいだと言ってくれた。童話の王子様に見えたわ。私たち姉弟の恩人よ。地獄みたいな日々だったけど、あの出会いの思い出があったから生き延びてこれたの。ヴェンデル様は私の顔なんか忘れているようだけどね。当然か。小汚い貧民の餓鬼なんか」


自嘲気味にローゼンタール伯爵夫人は乾いた笑い声をたてた。


「私は所詮悪女。悲劇のヒロインは似合わない。ならば悪女としての役を貫いてやる。ヒロインのコーネリアを食い破るくらいにはね。ヴェンデル様に愛されないのなら、愛妻をいじめる敵役としてとことん憎まれてみせる。ヴェンデル様に殺されるなら本望よ」


ローゼンタール伯爵夫人は羽扇を拾うと、ソロモンに背を向け、舞踏の間に行くため部屋を出ようとした。その背にソロモンは声をかける。


「……貴女はどうしようもない悪女だが、心の奥底に無垢な悲しい乙女がいる。私は恋する乙女の味方です。その心意気に祝福を。けれど今夜のヒロインはコーネリア一人だけではない。気をつけないと足元をすくわれますよ」


ソロモンの言葉にローゼンタール伯爵夫人は足を止め、いぶかしげに振り向いて思案したが、心当たりがなかったので再び背を向けた。


「……ご忠告ありがとう。心にとどめておくわ。それから、この力をくれたことにもね。今夜は貴族たちばかりだから、人目につかないように帰ってちょうだい。あなたにとっては朝飯前でしょう」


ばたんと扉が閉められ、伯爵夫人の姿が消える。

見送ったソロモンは、くくっと笑った。


「……私は好きですよ。伯爵夫人のいびつな恋が。愛されないなら、せめて真逆に憎まれたい。恋とはなんと悲しく興味深いものなのか。……ねえ、そうは思いませんか。アリサ」


ソロモンの言葉が終わるか終わらないかのうちに、奥の寝室に通じる扉が、ばたんっと開いた。

ごおっと風が吹きよせてきて、ソロモンは手をかざし、目を細める。


「おやおや、私の姫はだいぶお怒りのようで」


寝室には巨大な天蓋付きのベッドがある。

風はそこから吹いてくる。

四隅の豪奢なカーテンがめくれあがる。

ベッドに幼女が腰掛けていた。

輝く金髪の巻き毛が流れる。

まるでビスク・ドールのように整った顔立ちの女の子だった。

雪のように白い肌。蒼い瞳は魔性のサファイアを思わすぞっとする色だ。

さくらんぼのような可憐な唇が三日月型に吊りあがり、凄愴な笑みを浮かべる。


「……ふふっ、私に内緒で、よくも好き勝手に動いてくれたわねえ。ソロモン。あの女に力を与えるなんて、どういうつもり? ……そう、それほどローゼンタール伯爵夫人が気にいったの。私への反逆とみなしていいのかしら?」


「まさか! 貴女への忠義はゆるぎませんよ。その証拠に心を隠してはいないでしょう? もちろん、王大后と伯爵夫人の確執は存じております。しかし、このソロモンは乙女心の味方でして……ほんのちょっと力を貸しただけ……」


胸に手をあて腰を折り、くっくっくっと笑うソロモン。

アリサの瞳が氷壁の輝きのように鋭くなる。


「そんな誤魔化しが私に通用すると思っているの。ずいぶん侮られたものね」


アリサのケープつきのハイウェストの青いドレスがかすかに揺れた。

金髪が風をはらんで広がる。

殺気がふくれあがり、ソロモンははっと顔をあげた。

部屋中の燭台の灯が一斉に消え失せた。気温が一気に下がったようだった。

アリサの気の質が変わった。


「……臣下の裏切りも、また一興。でも、その小馬鹿にした眼と口元はいただけないわ……私は侮辱を見逃してあげるほど寛大ではないの。えぐりだしてから言い訳は聞くわ」


コマ落としのように、アリサの嗤う顔が、突然ソロモンの目の前に出現した。

背中の大きなリボンが死の天使の羽根のように流れる。

アリサの小さな手刀が閃いた。

宣言どおり、一足飛びに眼と口を潰しにきたのだ。

尋常でない風切り音が爆発する。


「……ちっ!! いきなり問答無用ですか!!」


ソロモンは腕をあげ、間一髪で目をガードした。

ひるがえったソロモンの黒衣が、アリサとぶつかりあって火花を散らす。

黒衣の袖が一瞬で大きく引き裂かれた。ソロモンの目が大きく見開かれる。

二人の間で空気が炸裂した。

十字受けでも勢いを殺しきれず、はじかれたように飛び退くソロモン。


「……あははっ! 無粋ね!! 格好つけておいて逃げるなんて。せっかく踊りに誘ってあげたのに。今夜は舞踏会なのだから、私達も愉しみましょう。こんな眼鏡なんかで気取っていないでね」


アリサは追撃しようとはせず、ふわりと優雅に着地した。

窓から差し込む月光の下、妖精が降り立ったようだった。

格子の影が、蒼く染まった部屋の壁と床を折れ曲がって這う。

逃げる際にソロモンの鼻からずれ落ちた鼻眼鏡を、アリサは楽しげに小さな足で踏みにじった。


「……私のアカデミックガウンは、刃を通さない特殊繊維で編み込まれているんですがねえ。それを、まるで紙屑のように引き裂くとは。……とはいえ、私のチャームポイントの眼鏡を踏み潰されると、少しむっとしますねえ……」


ソロモンの多重円の灰色の瞳が苛立たしげに歪む。


「……私はアリサの家臣ではなく、同盟者です。最低限の敬意をはらってもらいたいものですね。幸い今夜は満月ではなく、折れそうな三日月だ。生意気な貴女を屈服させ、「大好き、おにいちゃん」と挨拶するよう調教するのも悪くないかもしれませんねえ」


ソロモンの挑発に、アリサはえへらと嗤った。


「……あはあっ! やれるものなら、やってごらん。でも、私に勝ちたいのなら、本性を隠していては駄目。秘密主義はかなぐり捨てて、すべての力をさらけ出しなさい。私を心底愉しませたのなら、今回の裏切りは不問にし、キスとハグをしてあげてもいいわ。それ以上のことも、ね」


アリサの掠れたささやきに、ソロモンの口元も三日月のように吊りあがる。


「……いいですねえ!! 男の力を引き出すのは、いつだって想い人からのご褒美です。やる気が俄然わいてきました!! では、いきます。……まずは身体強化技、「血の贖い」」

 

ソロモンの目が真紅に輝き、血の霧がぶわっと立ち昇る。

冷たい月明りに照らされ、対峙する二人の怪物は嗤い合った。


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