令和二年一月のとある寒い深夜。

 錦野誠一郎は神奈川県警から依頼されていた司法解剖の書類を現在捜査本部が設置されている都筑警察署へ提出し終え、自宅がある都筑区に車を走らせていた。

『世界のニュースです。ルーマニアにて二〇〇四年に遺族による死体損壊事件があった男性の墓が、何者かに掘り返され、遺体の一部を持ち去られる事件が先月発覚しました。遺族からは、前回確認したのが半年前で、いつ掘り返されたのか分からないとのことです。現地警察は遺族から詳しく事情を聞いてるとのことです。続きまして――』

 車内のラジオの物騒な報道に誠一郎は深いため息をついた。

……ルーマニアも大変だな……。でも、遺族も遺族だよな……。亡くなった男性を吸血鬼になったと信じて、遺体から心臓を抜き取るだなんて……。何で心臓を抜き取るんだか……。

 昨日神奈川県警より変死体の司法解剖の依頼があったのだ。

 その変死体というのが、全身の血を抜かれるというもので、傷は首筋の、目打ちで刺されたような二つの傷穴と、両二の腕を力強く握られたと思われる、手形のうっ血した痕ぐらいだった。ただ奇妙なのが、今回の変死体も二十代の女性と聞いていたのに、外見は全く持って二十代の見た目には見えないほどの、別人の老人のようだった。

 神奈川県警の方でも当初は変死体と、その所持品の免許証の人物は別人だと思っていたのだが、DNA鑑定で同一人物だということが分かったのだ。

 最初は、ごくごく稀に(四兆七千億分の一の確率と言われている)DNA型が一致する赤の他人がいたりするので、偶然の一致だと思っていたのだが、それが何件も続けば疑う余地はなかった。

 全身の血が抜かれていたのだ。失血死で間違いない。だが、話によると被害者は昨日の朝は生きていたのだ。人間がたった数時間で老化し、あんな小さな傷穴二つで全身の血を抜かれるだなんて可能なのだろうか? 腕などの押さえつけられたような痣以外は目立った外傷はない。

 まるで全身の血液と若さを奪われたようだった。

 結局昨日の司法解剖に関しても、事故か事件か、判断に迷った。ただ、もし二つの傷穴で血を抜かれたとなれば人為的な傷に間違いはない。一応“今回のも”事件という回答をした。

 その謎で誠一郎の頭の中は一杯だった。

 実をいうと、今年に入って同じ変死体はこれで五件目だった。

 刑事からは連続殺人事件として捜査すると聞いた。

 連日それが(遺体の状態から、ただの『血を抜かれた変死体』としか報道されてないが)ニュースとして大々的に取り上げられていた。

 その殺人事件以外にも横浜市を中心に未成年の行方不明者が続出し、目撃者も証拠もなく警察は手を焼いていた。

 普段誠一郎は、現在父が院長をしている錦野監察医総合病院の循環器内科の医者を受け持っている。

 錦野監察医総合病院は個人経営で、病床数百床規模の中小病院だ。

 誠一郎の祖父が開業し、今は開業当初の医師や看護師、患者の賑わいはなく、地域の外来受診が主で、入院となると大学病院の方に依頼している。

 誠一郎が受け持つ循環器内科は主に高血圧や狭心症、心臓や血管に関する内科的な治療を行っている。

 ただ、今主としているのは、去年七十代を迎えた父が今まで行っていた監察医の業務で、昨年より誠一郎が引き継いだ。

 最近は監察医の人数も減り、神奈川県警からの司法解剖の依頼が増え、誠一郎は多忙になりつつある。

 これから四十代後半だというのに、もしかしたら院長の父よりも疲れているのかもしれない。

 誠一郎は大きなあくびをすると、薄らと白髪の混じった頭を掻いた。

 父には断ればいい、そう言われているのだが、お願いされると断れない性分で、最近は横浜市で行われる司法解剖はほとんど誠一郎に託されてると聞く。

 もうすぐで家というところで公園があるのだが、その脇道を通り過ぎようとした時だった。

 公園の生垣から真っ黒い何かが勢いよく飛び出してきたのだ。

「うわっ!」

 とっさに急ブレーキをかけ車を停めると、窓から顔をのぞかした。

「何だ? 何だっ? 猫か?」

 車のライトに照らされていたのは、土埃や枯れ葉で汚れ、腰まであるボサボサの、闇夜のような真っ黒い長い髪の少女だった。

 長い前髪で左目が隠れ、ボロボロのワンピースに泥だらけの素足だ。この時期にはまだ寒過ぎる格好だった。

……こんな夜に……女の子?

 恐る恐る車を降りると、少女に話しかける。

「……お嬢ちゃん、こんな夜に子供が一人で外にいるのは危ないぞ……?」

「……も、じゃ……い……」

 少女はモゴモゴと喋った。うまく聞き取れない。

「……え?」

「子供じゃないっ!」

 少女は気迫のこもった声で叫んだ。

 その小さな唇からのぞかせている長い犬歯に誠一郎は動揺した。

……子供じゃない、って……どう見ても小学校中学年だろうっ……。

「子供じゃ……な、い……」

 少女はその場に膝を突き倒れそうになった。誠一郎はとっさにその体を支えた。

「あぁっ! 君! しっかりしなさい!……どうしようか……」

 そっと少女の手首や首筋、頬に手を当てる。

……冷たい。衰弱してる。虐待か? こんな夜だ。一時保護して、明日警察署に連れていこう。

 誠一郎は少女を抱き上げ車の後部座席に寝かせた。その時、少女の胸元で何かがキラリと光った。

……ん? ペンダントか……。

「もうすぐで私の家だ。我慢してくれ……」

 そう呟くと、誠一郎は車を発進させ、都筑区の高級住宅街に消えていった。


 翌日、朝。少女が目を覚ますと、見知らぬ、広々とした明るい部屋だった。

 少女は綺麗なパジャマを着て、ふかふかの大きなベッドに眠っていた。

……ここは……。

「おっ、おはよう、お嬢ちゃん。……き、気分はどうかな……?」

 誠一郎が少々困惑した様子で少女に話しかけた。どうやら、ずっと少女についていたらしい。

「……若僧……誰……?」

 少女の第一声とその瞳の色に誠一郎は驚いた。

……瞳が……赤い。昨日は気付かなかった。

「……若僧? あ……いきなり知らないおじさんがいてびっくりだよな。ここは私の家だよ」

「……この寝間着は……?」

 少女の言葉に誠一郎は目を丸くした。

……その年で『寝間着』という言葉を知っているのか。普通なら『パジャマ』と呼ぶと思うのだが――久しぶりに聞いた。

 少女は胸元に手を当て、目をちらほらと動かしてる。

「あっ、寝間着、なら……お手伝いさんの柏木さんという女性に着替えさせてもらったから、私ではな……」

「ペンダントは……?」

 少女の突然の質問に誠一郎は目を点にした。

「ペンダント? あぁ、水色の石の……」

 誠一郎はベッド脇の引き出しからペンダントを取り出し、少女に差し出した。

 少女は素早く受け取ると、自身の首にかけ、安心した様子でペンダントを握りしめた。

 てっきり少女は怯えると思っていたのだが、少女はまた横になり目を閉じた。

「まだ、眠いか?」

 問いかけると少女はこくりとうなずき、少しして寝息が聞こえてきた。誠一郎はため息をつくとベッドの端に静かに座った。

……今日診察日じゃなくて良かった……。

「疲れてたんだな……。いっぱい寝なさい」


 夕方を迎え、全く起きてこない少女に不安を覚えた誠一郎は少女が眠る部屋へと向かった。

……まさかっ……。

 本当は今日、警察署に連れていこうと思っていたのだが……。

 部屋の前に着くと軽くドアをノックし、入室する。

「……お嬢ちゃん、入るぞ……?」

 ドアをそっと開け中をのぞき見ると、陽が沈みきり、真っ暗になった部屋の中で真っ赤に燃えるような瞳が二つ、誠一郎を真っ直ぐ射ぬいていた。

「うわっ! お、お嬢ちゃん……?」

 誠一郎はとっさに部屋の電気のスイッチをいれると、室内は一気に明るくなった。

「うぅっ……」

 少女はベッドの上でうずくまっていた。

「だ、大丈夫かっ?」

 すかさず少女に駆け寄り、その背中を擦ろうとすると、物凄い威力で手を弾かれた。

「痛っ!」

「……触らないでっ……」

 少女が鋭い眼光で誠一郎を見上げてきた。誠一郎は一瞬たじろいだ。

……何だ……? この子は……。子供とは思えない目付きだ。……もしかしたら、大人に不信感を抱いてるのかもしれない。やはり……虐待……?

「お嬢ちゃん、私は医者だ。虐待などしない」

「医者……? 先生……なの?」

 少女の目付きが幾分か穏やかになった。

 誠一郎は大げさにうなずいた。

「ああっ。私は循環器内科の先生でね、それ以外にも司法解剖とかしている」

……子供に循環器内科だの司法解剖と言って、伝わるだろうか?

 すると少女はおもむろに起き上がった。

「……あの……助けていただき、ありがとうございました……。このご恩は永遠に忘れません。失礼します……」

 少女は誠一郎の横を通り過ぎようとした。

「待ってくれ」

 誠一郎が少女の手を掴み、引き止めた。だが、少女にその手を呆気なく振り払われてしまった。

 少女の出で立ちからは想像できない力強さに、誠一郎はただただ驚くことしかできない。

「……何ですか?」

 少女が誠一郎を睨み上げた。

「あっ……。君は……家出でも……したのか?」

 誠一郎は震える声で問う。

 最近横浜市周辺では未成年者の失踪が相次いでいるのを、誠一郎は思い出した。

「……家出? 違います。わたしに家はありません。身内もありませんので……」

 少女は自嘲気味に答えた。

……この子は……独りぼっち、なのか……? だから――。

 少女は部屋を出ようとした。とっさに誠一郎が少女の進路を塞ぐ。

「住むところがないなら、ここにいなさい。そして、明日警察署に行こう。な?」

 少女は素早く顔を背けた。

「警察署に行くのは……嫌です」

「なら、ここにいなさい。この私が君の面倒をみてやろう」

 少しの沈黙のあと、少女は諦めたのか、肩をすくめた。その様子に誠一郎はほっ、と息をつく。

「私はこの家の主、錦野誠一郎だ」

「誠一郎……?」

 少女は驚いた表情で誠一郎を見上げていた。誠一郎はどう反応すれば良いのか困った。

「あー……あぁ。よろしく。君は?」

「……場鳥ミナ子です」

「場鳥ミナ子……珍しい名字だな。よろしく」

 誠一郎が手を差し出すと、少女こと場鳥ミナ子はもじもじしつつ、誠一郎の手を握った。

 二人は握手を交わした。

 これが錦野誠一郎と場鳥ミナ子の出会いだった。


 その日の深夜、誠一郎は薄暗い書斎にいた。どこかに電話をしているようだ。

 壁一面の本棚には医学書や医学に関する参考書、小説などの分厚い本や文庫本がところ狭しと収められており、絨毯の敷かれた床には埃の被ったヴァイオリンのケースや本棚に収まらない本やメモ書きなどが落ちている。あまり綺麗とは言えない部屋だった。

 誠一郎は困り果てた表情を浮かべては、頼む出てくれっ、と呟いている。

 時刻はもうすぐで二十三時。果たして電話の相手は出てくれるだろうか。

 コールが七回鳴ったところで、ようやく電話の相手が出てくれた。

『……もしもし』

 聞こえてきたのは、寝起きの不機嫌そうな男のだみ声だった。

「あ、もしもし。小林か? 夜にすまないな。錦野だ――」

 誠一郎が言いかけたところでスマートフォンのスピーカーから怒鳴り声が聞こえた。

『お前っ! 今何時だと思ってんのっ? 頼む! 寝かせてくれっ!』

 誠一郎はとっさにスマートフォンを耳から遠ざけた。

 どうやら電話の相手である小林は寝不足らしい。何せ、誠一郎が司法解剖した変死体の連続殺人事件の担当なのだから、現在捜査の真っ最中であろう。忙しいに決まってる。

「ご、ごめん! 実は――」

『変死体で何か気付いたのかっ?』

「イヤ……変死体のことじゃなくて……相談が……」

『相談?』

 誠一郎は昨夜場鳥ミナ子という少女を保護したことと、今後どうすれば良いのかを小林に相談した。

『場鳥ミナ子ねぇ。変わった名字だな。まあ、付近の警察署とかに聞いてやるよ。家出少女の届け出ないか? ってな』

「すまない。忙しいのに……」

 誠一郎は誰もいないところにペコペコと頭を下げた。

『まあ、錦野には横浜市での司法解剖を全部お願いしちまってるもんな……。まあ、同級生のよしみってことで、良いってことよ。じゃ』

「じゃあ……」

 そして電話が切れた。


 数日後の夜。誠一郎が書斎でパソコンをいじっていると、スマートフォンに小林から電話がかかってきた。

「もしもし、錦野です」

『小林だ。お前が言ってた家出少女の場鳥ミナ子について調べたぞ』

「捜索届け出は出てたか?」

『出てない。おまけに場鳥ミナ子という人間の戸籍は神奈川県にはなかった』

 誠一郎は自身の耳を疑った。

「はあ……? じゃあ、うちにいる女の子は誰だ?」

『“場鳥ミナ子”は偽名だろ?』

「じゃあ、彼女はどうすれば良いんだ? 児童相談所?」

『錦野のところで保護してるんだろ? そのまま保護してくれねぇか? 昨日、保護施設とかにも聞いてみたら満杯なんだってな……。と、いうことで! 最寄りの都筑警察署には話は通してあるから、誘拐犯とは言われないぞ』

「ちょ、何をっ――」

 誠一郎が反論しようとしたところで、電話は一方的に切られてしまった。

……押しつけかっ? 戸籍がない子供って学校はっ……? 今度こそ、司法解剖断ろうか……?

 誠一郎は項垂れるのであった。


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