第33話 ひとり(真理亜の場合)

 総也に振られてから、2ヶ月の時が経過していた。

 その間、真理亜は一度として登校しなかった。

 一度として総也に顔を見せることはなかった。

 それどころか、自室を出ることすらほとんどなかった。

 死んだように、ベッドの上で膝を抱えながら震える日を繰り返していた。


 メイドのはるかは自分のことを心配してくれる。

 それはとてもありがたい。

 毎日決まった時間に、栄養バランスを考えた食事を持ってきてくれる。

 それはとてもありがたい。

 でも、その優しさが今の真理亜には鬱陶しいものだった。


 食事は喉を通らない。

 でも、真理亜はおなかの中の我が子を産むと決めたのだ。

 だから、少しずつでもいいから食事はしなければならない。

 もし、赤ちゃんが死んでしまったら、何のために自分は愛する人を捨てたのか分からなくなるからだ。


 だが、真理亜は徐々にやせ細っていった。

 ふくよかだった体型は肉がこけ、あばら骨が浮き上がっていた。

 食事をしても、吐いてしまうのだ。

 特に、ここ最近はそれが顕著だった。


 なんのことはない。

 つわりだ。


 気持ち悪い。

 気持ち悪くて仕方がなかった。


 落ち着くこともある。

 だが、それゆえ突然その吐き気は襲いかかってくるのだった。


 食後は特に酷かった。

 食事をして胃が動くと、つい戻してしまう。

 食道が逆方向に蠕動運動をしてしまうのだった。


 辛かった。

 苦しかった。

 もう死んでしまいたかった。


「死ぬのだけはだめよ」


 自分に言い聞かせる。

 だが、それもいつまで保つだろうか。

 こんなんで、自分は赤ちゃんを産むまでの後7ヶ月を乗り切れるのだろうか。


 そんなわけがなかった。

 このままでは、おなかの中の子はやがて流産し、真理亜も程なく死に至るだろう。


 だが、どうしようもなかった。

 生きる気力が湧かないのだ。

 積極的には死にたくないというだけで、生きたいとも思えないのだった。


 総也に会いたい。

 今すぐ総也に会って、抱き締めてもらいたい。


 でも、総也は自分のことなど決して許しはしないだろう。

 真理亜はそれほどまでに重い罪を犯した。


 どうして自分はあんなことをしてしまったのだろう。

 レイプの恐ろしさは、真理亜自身が最もよく思い知っていたというのに。

 総也は一度未来にレイプされ、レイプにトラウマを持っていたというのに。

 そんな総也を、愛する総也を、真理亜はレイプしたのだ。

 いま考えても、何度考えても、あの時の自分は頭がおかしかったと断ぜざるを得なかった。


「う、うえっ、ひっく……」


 涙はとうの昔に枯れ果てた。

 だから、泣き声だけが、嗚咽だけが口からは漏れる。


 どうして自分はあんなことをしてしまったのだろう。

 あんなこと、したかったわけじゃなかったのに。


 答えは簡単だ。

 子どもが生まれれば、総也も自分と同じ道を歩んでくれるものと思い込んでいたからだった。

 同じ未来を見つめてくれるものと思い込んでいたからだった。

 愛する子どもの手を握りながら、隣り合って同じ道を歩んでくれるものと思い込んでいたからだった。

 隣り合って、隣り合って、隣り合って、同じ道を歩みたかった。


 なんと愚かな女なのだろう。

 こんな過程で生まれた子どもを、総也が愛してくれるはずなんてなかったのに。

 こんな罪を犯した自分を、総也が愛してくれるはずなんてなかったのに。


 もう、総也に合わせる顔なんてない。

 彼に会いに行くことなどできない。

 でも、心は狂おしく彼を求めている。

 今でも、彼を愛している。


 胸が張り裂けそうだった。

 頭がおかしくなりそうだった。

 いっそ、おかしくなってしまいたかった。


 そうだ。

 あの時みたく、総也を犯した時みたく、おかしくなってしまえれば。

 きっと楽になれるだろう。

 気持ちよくなれるだろう。


 だが、真理亜は冷静になってしまうのだった。

 こうしているだけで、心は狂おしく彼を求めていても、頭は、本能は生きることを、子を産むことを求めてしまう。


「ん……んくっ……」


 遥が置いていった盆に置かれたおかゆを、一口だけ口に運ぶ。

 嚥下する。

 それだけで、真理亜の胃はひっくり返った。

 食道が逆方向に蠕動運動する。


 気持ち悪い。

 ああ、気分が悪い。

 真理亜は、這うようにして自室のトイレに向かっていった。


「うっ……お、おええぇ……」


 いま飲み込んだばかりの胃の内容物を全て戻す。

 入れた以上の量の液体が、真理亜の胃からは吐き出された。

 特に最近は、こんなことの繰り返しだった。


 つわりが酷い。

 気持ち悪い。

 ああ、なんでこんなに気持ち悪いんだろう。


 そうだ。

 こいつが悪いんだ。

 自分の腹の中にいる、こいつがこの気持ち悪さの原因だ。

 ああ。

 殺してやりたい。

 縊り殺してやりたい。

 今すぐ産婦人科に行って――。


「できない……できないよ……」


 その時、枯れ果てたはずの涙がひとしずく、真理亜の頬を流れた。


 そうだ。

 できない。

 おなかの中のこの子を殺すことだけは、できない。

 そんなことはしちゃいけない。


 今の真理亜には、この子しかいない。

 今の真理亜が生きている理由は、この子だけだ。

 生きなきゃ。

 そして、産まなきゃ。


 這うようにしてトイレからベッドに戻る。

 そして、その上に置いたおかゆにもう一度手を付けた。

 一口、飲み込む。

 さいわい、真理亜の胃は暴れないでいてくれた。

 次は水だ。

 嘔吐で失われた水分と電解質を取り戻さなければ。

 真理亜は、遥特性の経口補水液を一口飲み込んだ。


「んくっ……」


 大丈夫だ。

 飲める。

 この調子だ。

 保ってくれ、自分の胃……。


 その日、真理亜は珍しく食事を完食することができた。

 一仕事終えた真理亜は、ふぅと息を吐きながらベッドの上で膝を崩す。


 食欲は満たされた。

 三大欲求の内の一つが満たされた真理亜は、久々に、本当に久しぶりに性欲がもたげてきた。


 だが、自慰行為をする気にはなれなかった。

 オナニーをするなら、オカズは当然総也だ。

 だが、今の真理亜にとって、総也のことを考えながら自慰行為をするというのはとても罪深いことのように思えてならなかった。


 ああ、股間が彼を求めている。

 子宮には既に別の命が宿っているというのに、股間が愛する人の子種を求めてやまなかった。

 だが、今の自分にはそんな資格などない。

 総也に愛される資格など、ない。


 真理亜は、耐え忍ぶかのように膝を抱えた。

 呼吸を整えて、火照りを鎮める。

 大丈夫だ。

 落ち着いた。

 今はこうして、膝を抱えてじっとしていよう。


 真理亜はそっと目を瞑った。

 そのまま、横になる。

 三大欲求の最後、睡眠欲が押し寄せてきた。

 寝てしまおう。

 寝てしまえば、楽になる。

 そうすれば、きっと……。


 そして、真理亜の意識は深い闇の中に飲み込まれていった……。


********************


 真理亜を起こしたのは、遥の焦りの声だった。

 焦燥した様子の遥が、主人の部屋にノックもせずに飛び込んでくる。


「お嬢様! 大変です! お嬢様!」


 うるさそうに真理亜は目を覚ます。

 だが、食事を摂り、睡眠も取ったことが功を奏した。


 真理亜は続く従者の報に、急速に脳を回転させ始めた。

 生きる気力が湧く。


 そうだ。

 総也以外にも、おなかの中の子ども以外にも、自分には生きる理由があったじゃないか。

 今の今まで忘れていたその存在を救うため、真理亜の身体は行動を開始した――。

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