モップアッパー

平都カケル

1章 序曲

開演

 海浜幕張を最寄駅とする千葉マリンスタジアムは駅から微妙に遠くてアクセスが良くないし、海風が冷たく寒いから正直なところ野球観戦に向いているとは言い難いのだが、プロ野球でも数少ないリリーフカーを導入している球場のひとつでもある。俺が生まれるより前からこの仕事をしている千葉マリンの名物ウグイス嬢が「ピッチャー梅比良うめひら」とアナウンスすれば背番号30の俺はブルペンを出てその車の助手席に乗る。そして一塁側の内野スタンドと外野スタンドの狭間に作られた空間を出発し、グラウンドの中心で小高く盛り上がったマウンドへ時速15キロくらいで向かっていく。この千葉マリンスタジアムは俺が所属する千葉トゥンヌスのホームスタジアムだから、俺が登板する際には自分で選んだ登場曲を流してくれる。モーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』第3幕より『そよ風に寄せて』。この曲が流れると球場は何とも言えない荘厳な雰囲気に包まれる。それが物珍しいからか俺に「オペラリリーバー」なんて渾名を付けたメディアもあるが、俺は実際にオペラを観たことがない。じゃあどうしてこの曲を採用したかって『ショーシャンクの空に』の劇中で使われていたからだ。あれは素晴らしい映画だ。思い出すだけでどんな時でも希望を抱かせてくれる。トゥンヌスは2点をリードしているが、この7回表の守りはランナーが一塁と二塁にいる上にひとつのアウトも取れていない。ホームランでも打たれようものなら対戦相手の福岡フォックスが逆転する状況とあってレフトスタンドのフォックス応援団は既に大盛り上がりで歓喜の瞬間を待ちわびている。しかし俺が千葉マリンのマウンドに上がっている限りは誰もトゥンヌスの勝利を奪うことができない。これが希望というやつだ。

 リリーフカーが停まって助手席を降りようとした俺に運転席のユミちゃんが頑張ってくださいと声をかけてくれた。可愛いユミちゃん。スポーツジムに通うことが趣味らしい。そのせいか肢体が引き締まっていて固いから抱き心地はあまり良くない。でもそれを補って余りあるテクニックに魅力がある。特に口でしてもらった時は腰が砕けるかと思うくらい気持ち良かった。俺はそんなことを思い返しながら微笑み、任せといてと言った。

 小走りでマウンドへ向かうと俺の仕事場にキャッチャーの村田むらたと4人の内野手、それから吉田よしだピッチングコーチが集まっていた。ダンディな髭がトレードマークの吉田コーチはここから左の代打が続くだろうと言った。俺は右でも左でも関係ないですよと言って不敵に笑う。こういう場面のリリーフは強気にならなきゃ務まらない。するとファーストを守る猪原いのはらさんが尻を叩いてきた。気合いを入れてやったつもりらしい。しかし俺は集中しているところに水を差された気分になる。舌打ちでもしてやりたい。相手は年上だから我慢したけど。安心して打たせていけよとの言葉にはエラーしないでくださいよと返しておく。

 野手がそれぞれのポジションに散って俺の投球練習が始まる。ランナーを背負っているからいつものノーワインドアップではなくセットポジションからの投球だ。グラブの中にボールを握った右手を入れて腰の前に置く。左足を上げ、一本足で立つ右足はかかとを少し浮かす。腰のところにあったグラブを一気に高く掲げて投球する方向より上に向けると左肩が上がって右肩が下がる格好になる。左足をホームベースに向かって踏み出しつつ右腕を引き上げ、反対にグラブの高さを下げていく。こうしてグラブを上から下に使うことで身体が縦に回転し、右腕を真上から振り下ろすオーバースローになる。腕を振り切った後は右足を大きく蹴り出してフィニッシュだ。なかなか豪快な見た目をしたこのフォームは中学でも高校でもプロでも「バランスが悪い」だの「かかとを上げるのはやめよう」だの「右肩は下げるな」だの言われ何度も矯正されそうになった。だがそういう指導は一切聞き入れなかった。これこそ俺が築き上げてきたスタイルだ。俺はそれを貫いたからここにいる。

 投球練習を続けながら自分が投げるに至った状況を整理する。今日のトゥンヌスの先発はルーキーの児島こじまだった。前回の登板でプロ初勝利を挙げ勢いに乗っていた彼は6回まで4安打1失点と好投していたが、7回に入ってから制球を乱しヒットと四球でランナーを溜めて降板した。こうして俺に今シーズン17回目の出番が回ってきたわけだ。トゥンヌスは今日が46試合目だから全143試合を終えた時点で俺の登板数は52か53という計算になる。まだ足りない。

 吉田さんの言葉通りにフォックスは代打を仕掛けてきた。8番打者の樫井かしいさんに代えて左打者のはせさん。首位打者のタイトルを手にしたこともある打撃職人の彼は衰えてこそいるが、今でもそう簡単に三振なんかしてくれない。フォックスの須藤すどう監督にすれば最悪でも右方向に転がして進塁打という期待をしているだろう。

 一方の俺たちは進塁打も阻止したい。そのためのセオリーは右方向に引っ張ることが難しいアウトコースの速球を投げることだ。俺は右足でプレートを踏み、村田が送ってくるサインを半身の姿勢で確認する。一度首を横に降り、次のサインで頷く。球種は教科書通りのストレート。

 百戦錬磨の馳さんはこの場面のセオリーなんか読み切っている。ストレートが来ることもわかっていて、アウトコースに投じられたそのボールをレフト前に流し打とうとしているのだ。だから手が出ない。148キロで“インコース”へ投じられた速球に球審がストライクを告げる。馳さんの表情に僅かな驚きが見えて俺はニヤッと笑う。

 26歳の俺と25歳の村田という若いバッテリーに裏をかかれた馳さんは迷っていた。2球目のストレートには手を出したものの明らかに振り遅れたファウルでツーストライク。こうなれば勝負はもう決まったようなものだ。3球目にフォークを投げてやると滅多に三振しないはずの馳さんのバットがあっさり空を切る。俺は投球の殆どがストレートとフォークで占められているから打者が狙いを絞るのは難しくないのだが、追い込まれると落差とキレを兼ね備えたフォークにバットを振らされてしまう。

 続く9番の釜田かまたにも代打が送られ赤石あかいしさんが打席に入った。内外野を問わずどこでもこなす守備とミートの上手い打撃で1億の年俸を勝ち取った名脇役。でも俺の敵じゃない。俺は初球に投じた150キロのストレートでキャッチャーへのファウルフライを打たせて簡単にふたつ目のアウトを奪う。

 打順が1番に戻って右打者の今井いまいさんと対戦する。俺はストレートだけを4球続けて2ボール2ストライクと追い込んだ。5球目でそろそろフォークかなと思われているのを見計らってまたストレートを投げる。今井さんの打球は完全に力負けして一塁側へのふらふらしたファウルフライになった。猪原さんが落下点に走り込む。エラーすんなよ。

 無事に捕球されたのを確認した俺は拳を握って吠える。そのままベンチへ引き揚げようとする俺の耳にウーメヒラ!ウーメヒラ!とトゥンヌスファンの歓声が聞こえてくる。駅から遠いし風が冷たく寒い千葉マリンスタジアムだが、俺にとっては力強いファンの声援が背中を押してくれる世界一の球場だ。飯も美味いから多くの人に観戦を勧めたい。




 ベンチに帰った俺はチームメイトたちの祝福を受ける。パチパチパチパチとハイタッチの応酬。ヘイヘイヘーイナイスピッチと男たちの野太いかけ声。特に梅さんありがとうございますと熱い感謝を口にしたのが先発の児島だ。心の底から安堵したことが手に取るように伝わってきて、こちらまで嬉しい気持ちになる。俺はこういう風に前のピッチャーが作ったピンチを抑えた時の達成感が好きだ。救援リリーフ投手という名の通り他の誰かを助けるやりがいがある。最初からピンチを背負って投げるのを嫌がる人もいるが、俺に言わせればこれこそが醍醐味なのだ。

 ベンチ裏に下がって汗でベタつくアンダーシャツを着替える。今日はこれでお役御免。8回は助っ人外国人のディッキー、9回は抑え投手の安田やすださんというトゥンヌス自慢の必勝リレーが見られることだろう。彼らは監督やコーチ、そしてファンから絶大な信頼を寄せられる「セットアッパー」と「クローザー」だ。カタカナのかっこいい呼び名には俺も憧れる。まあ当然ながら呼び名がかっこよければ良いという話でもないのだが。カタカナの役割なら「モップアッパー」も響きは悪くない。これは和製英語で、正しい英語なら「モップアップマン」、純粋な日本語なら「敗戦処理」という言葉と同義だ。球場のベンチをガムの包み紙やひまわりの種で散らかして「俺たちは清掃員に仕事をくれてやってるんだHAHAHA」なんてうそぶくメジャーリーガーたちが投手の役割をモップがけという意味の言葉で表現することには侮蔑の意図を感じる。

 試合はトゥンヌスが2点のリードを守ってそのまま勝利した。安田さんが最後のバッターをショートゴロに打ち取り、守備に就いていた選手たちがベンチに帰ってくる。ヘイヘイヘーイナイスゲーム。パチパチパチパチ。俺たちは野太い声とハイタッチで迎え入れた。それから児島と猪原さんがヒーローインタビューに呼ばれたのを後目に荷物をまとめてベンチを後にする。トレーナーのマッサージを受けてシャワーを浴びて着替えれば球場での一日が終わる。

 諸々を済ませて駐車場へ向かおうとすると出待ちのお姉さまたちが四季しきくーんなんて声をかけてくる。下の名前にくん付けとかアイドルかよと思いながらも人当たりの良い笑顔で手を振ってあげる。ファンは大切にしないとね。それから停めていたポルシェに乗り込むと、丁度そのタイミングを見計らっていたと言わんばかりにスマホが震えて着信音を鳴らす。言わんばかりにというか恐らくは見計らっていたはずだ。液晶画面に表示された名前は「伏田ふしだりん」。俺は溜息をついてからスマホをタップし応答した。

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