モップアッパー
平都カケル
1章 序曲
開演
海浜幕張を最寄駅とする千葉マリンスタジアムは駅から微妙に遠くてアクセスが良くないし、海風が冷たく寒いから正直なところ野球観戦に向いているとは言い難いのだが、プロ野球でも数少ないリリーフカーを導入している球場のひとつでもある。俺が生まれるより前からこの仕事をしている千葉マリンの名物ウグイス嬢が「ピッチャー
リリーフカーが停まって助手席を降りようとした俺に運転席のユミちゃんが頑張ってくださいと声をかけてくれた。可愛いユミちゃん。スポーツジムに通うことが趣味らしい。そのせいか肢体が引き締まっていて固いから抱き心地はあまり良くない。でもそれを補って余りあるテクニックに魅力がある。特に口でしてもらった時は腰が砕けるかと思うくらい気持ち良かった。俺はそんなことを思い返しながら微笑み、任せといてと言った。
小走りでマウンドへ向かうと俺の仕事場にキャッチャーの
野手がそれぞれのポジションに散って俺の投球練習が始まる。ランナーを背負っているからいつものノーワインドアップではなくセットポジションからの投球だ。グラブの中にボールを握った右手を入れて腰の前に置く。左足を上げ、一本足で立つ右足はかかとを少し浮かす。腰のところにあったグラブを一気に高く掲げて投球する方向より上に向けると左肩が上がって右肩が下がる格好になる。左足をホームベースに向かって踏み出しつつ右腕を引き上げ、反対にグラブの高さを下げていく。こうしてグラブを上から下に使うことで身体が縦に回転し、右腕を真上から振り下ろすオーバースローになる。腕を振り切った後は右足を大きく蹴り出してフィニッシュだ。なかなか豪快な見た目をしたこのフォームは中学でも高校でもプロでも「バランスが悪い」だの「かかとを上げるのはやめよう」だの「右肩は下げるな」だの言われ何度も矯正されそうになった。だがそういう指導は一切聞き入れなかった。これこそ俺が築き上げてきたスタイルだ。俺はそれを貫いたからここにいる。
投球練習を続けながら自分が投げるに至った状況を整理する。今日のトゥンヌスの先発はルーキーの
吉田さんの言葉通りにフォックスは代打を仕掛けてきた。8番打者の
一方の俺たちは進塁打も阻止したい。そのためのセオリーは右方向に引っ張ることが難しいアウトコースの速球を投げることだ。俺は右足でプレートを踏み、村田が送ってくるサインを半身の姿勢で確認する。一度首を横に降り、次のサインで頷く。球種は教科書通りのストレート。
百戦錬磨の馳さんはこの場面のセオリーなんか読み切っている。ストレートが来ることもわかっていて、アウトコースに投じられたそのボールをレフト前に流し打とうとしているのだ。だから手が出ない。148キロで“インコース”へ投じられた速球に球審がストライクを告げる。馳さんの表情に僅かな驚きが見えて俺はニヤッと笑う。
26歳の俺と25歳の村田という若いバッテリーに裏をかかれた馳さんは迷っていた。2球目のストレートには手を出したものの明らかに振り遅れたファウルでツーストライク。こうなれば勝負はもう決まったようなものだ。3球目にフォークを投げてやると滅多に三振しないはずの馳さんのバットがあっさり空を切る。俺は投球の殆どがストレートとフォークで占められているから打者が狙いを絞るのは難しくないのだが、追い込まれると落差とキレを兼ね備えたフォークにバットを振らされてしまう。
続く9番の
打順が1番に戻って右打者の
無事に捕球されたのを確認した俺は拳を握って吠える。そのままベンチへ引き揚げようとする俺の耳にウーメヒラ!ウーメヒラ!とトゥンヌスファンの歓声が聞こえてくる。駅から遠いし風が冷たく寒い千葉マリンスタジアムだが、俺にとっては力強いファンの声援が背中を押してくれる世界一の球場だ。飯も美味いから多くの人に観戦を勧めたい。
ベンチに帰った俺はチームメイトたちの祝福を受ける。パチパチパチパチとハイタッチの応酬。ヘイヘイヘーイナイスピッチと男たちの野太いかけ声。特に梅さんありがとうございますと熱い感謝を口にしたのが先発の児島だ。心の底から安堵したことが手に取るように伝わってきて、こちらまで嬉しい気持ちになる。俺はこういう風に前のピッチャーが作ったピンチを抑えた時の達成感が好きだ。
ベンチ裏に下がって汗でベタつくアンダーシャツを着替える。今日はこれでお役御免。8回は助っ人外国人のディッキー、9回は抑え投手の
試合はトゥンヌスが2点のリードを守ってそのまま勝利した。安田さんが最後のバッターをショートゴロに打ち取り、守備に就いていた選手たちがベンチに帰ってくる。ヘイヘイヘーイナイスゲーム。パチパチパチパチ。俺たちは野太い声とハイタッチで迎え入れた。それから児島と猪原さんがヒーローインタビューに呼ばれたのを後目に荷物をまとめてベンチを後にする。トレーナーのマッサージを受けてシャワーを浴びて着替えれば球場での一日が終わる。
諸々を済ませて駐車場へ向かおうとすると出待ちのお姉さまたちが
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