第6話

「真剣勝負をしないか?」


 金曜日の放課後。

 四季さんは対面に腰を下ろすと、開口一番にそう言った。


「勝負、ですか?」

「そうだ。負けた方は一つだけ何でも言うことを聞く、というのはどうだ?」


 少しだけ逡巡する。

 四季さんなら無茶な事は言わないだろう。

 真剣勝負のスパイスとしては面白いように思えた。


「なんでも、ですか?」

「可能な限りなら何でも、だ」

「一局だけですか?」

「一局だけだ。あとから三本勝負とかは言わないよ」


 頷いて、駒袋をひっくり返す。

 じゃらじゃらと駒が盤面に広がった。


「わかりました。受けて立ちます」


 駒を並べようとすると、四季さんが五枚の『歩』を手にとった。


「振るよ」

「あ、はい」


 四季さんが五枚の『歩』を転がす。

 振り駒。

 普段はジャンケンで適当に先手後手を決めるのに、四季さんは敢えてそれを選択した。

 いつもの遊びではない、という事なのだろう。


「四季さんの先手ですね」

「ああ」


 転がされた五枚中、四枚が表だった。

 表が多い場合、振り手が先手を取る事になる。

 四季さんは残った駒を並べると、ゆっくりと息を吐き出した。


「じゃあ始めようか」

「はい。よろしくお願いします」


 昨日の様子が嘘のようだった。

 指し始めた四季さんは盤面を油断なく睨み、何とも言えない気迫があった。

 しん、とした部室に着手の音だけが響く。

 久しく感じたことのない緊張感があった。

 こういう緊張感は、霧香と指している時には微塵も感じたことがなかった。

 対等な相手だからこそ味わえる特別な空気。


 肺腑の中の空気をゆっくりと吐き出し、意識を集中させていく。

 このために将棋部を創設したのだと、初心を思い出した。

 誰かと競い合って、互いの知力を振り絞る。

 そういう事が、多分したかったのだと思う。

 ずっと忘れていた。

 なんとなく将棋を指す毎日に埋没していた。

 だから、この一瞬を提供してくれた四季さんには感謝しないといけない。


「……むぅ……」


 四季さんの口から、小さな呻き声が漏れた。

 将棋は基本的に先手が有利と言われている。

 しかし、まだ押し切られていない。四季さんは攻めあぐねているようだった。


 ゆっくりと視線をあげ、四季さんの表情を見る。

 思考の海に沈む四季さんは、俺の視線に気づかない。

 いつもより真剣な表情が気になった。

 四季さんは勝てば何を命令する気なのだろう。

 購買で昼食をおごって欲しいとか、宴会芸のような何かをさせるとか。

 そういうありきたりな事ではないように思えた。

 まだ一ヶ月ほどしか一緒に過ごしていないが、人に何かを命令したがる人ではないはず。

 勝った時は恐らく、お願いのような形で望みを言うのだろう。

 そこまで考えた時、ふいに四季さんが顔をあげた。


 視線が合う。


 吸い込まれるような大きくて黒い瞳。

 時間が止まったような気がした。

 目を逸らす暇もなく、互いの視線が正面から絡み合ったまま停止する。

 四季さんは何も言わず、俺のことを見ていた。

 何か言おうとするも言葉が出てこない。

 沈黙が場を支配していた。

 反射的に盤面に視線を落とす。

 同時に四季さんの右手が動き、着手する音が響いた。


「待たせて悪かったね。竜也くんの番だ」

「え? あ……はい」


 頭の中が真っ白になっていた。

 考えていた読み筋がどこかに飛んで、思考がまとまらない。

 小さく息をつき、盤面から視線をあげる。

 四季さんはまだ俺のことを見ていた。

 視線が一瞬重なって、そのまま絡み合う前に視線を盤面に戻す。

 春の涼しい時期なのに、手に汗が滲んでいた。

 心臓の鼓動が早くなっているのが自分でもわかった。


「今日はよく目が合うね」


 四季さんが小さく笑いながら言う。


「そう、ですね」


 考えがまとまりそうになく、直感に従って着手する。

 四季さんはそれを確認すると、一拍置いてからすぐに次の手を指した。

 焦りが生まれるのを自覚しながらも、それを抑える術が俺にはなかった。


 部室に駒を指す音だけが響く。

 対局中、ずっと四季さんが俺を見ているのが分かった。

 恐らく、意識してのものではないのだろう。

 時折こっちから視線を向けると、四季さんは不思議そうに首を傾げた。

 それが余計に思考を狂わせた。

 いつもより真剣な四季さんと、いつもより思考が乱れた俺。

 結果は目に見えていた。


「……ありません」


 投了を告げる。

 中盤からは終始劣勢だった。

 ずっと主導権を握っていた四季さんは満足そうに一度頷くと、背伸びしながら大きく息を吐いた。


「今日は調子が悪いんじゃないのか?」

「……完敗です」


 弁解の言葉も思いつかない。


「それに敬語はナシだと言っただろう、部長」

「……もしかして、それが命令ですか?」


 盤面の駒を片付けながら問いかける。

 四季さんなら、そういう命令もありそうだった。

 しかし、四季さんは首を横に振った。


「いや……命令というかお願いになるんだが……」


 珍しく歯切れが悪い。

 口に出すことを躊躇するように、四季さんの目が左右に泳ぐ。


「……明後日の日曜日に、飛山さんと遊ぶんだろう?」

「はい。その予定です」

「……じゃあ土曜日は予定がないのか?」

「何もないです」


 じゃあ、と四季さんの声が大きくなる。


「ど、土曜日にどこか遊びにいかないか?」

「遊びに、ですか?」


 意外な申し出だった。

 きっと女子一人では行きづらい所なのだろう。


「どこか行きたいところがあるんですか?」

「い、いや、そういうわけではないんだが……竜也くんはどこか行きたい所はないのか?」

「えっと……ごめんなさい。すぐには思いつかないです」

「そ、そうか……いや、場所はどうでもいいんだ。土曜日は私と遊びに出かけて欲しい」


 想像していた中では、ずっとソフトな命令だった。


「それくらいなら大丈夫です。命令はそれだけで良いんですか?」

「ああ……命令と言っても嫌なら別にいいんだ。無理して付き合わなくても……」

「大丈夫ですよ。嫌なんかじゃありません」


 それで、と言葉を続ける。


「場所はどうしましょうか。明日出かけるなら今日中に決めておきたいです」

「そ、そうだな……ちょっと待ってくれ」


 先輩がスマホを取り出し、調べ物を始める。


「……雨の予報になっているな……」

「屋内だとカラオケとかボウリングでしょうか?」


 問いかけると、先輩は少しだけ黙り込んだ。

 それから、意を決したように俺の方へ視線を向けた。


「いや……どうせなら私の家にしよう」


 対局中に感じた、どこか粘り気のある視線だった。 

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