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エリー.ファー

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 動画を見ている。

 ずっと見ている。

 何度も何度も見ている。

 本当にただひたすらに見ている。

 動画の中で何が起き、何が起こらなかったのかを見ている。

 不思議な気分である。

 このようなことをしていると、いつのまにか時間が過ぎ去っている。

 自分の寿命を消費し、日付さえも変わり、しかし動画を見つめている。

 クリックを繰り返し、何度も何度も新しい動画を探している。まだ見ぬ面白い動画を探している。

 死ぬまでの暇つぶしなのか。

 それとも。

 暇つぶしの繰り返しの結果死ぬのか。

 別に、動画を見ることを当たり前のように日常に溶け込ませて、生活の中のうるおいとしている人間もいるのだろう。なのに、私はそのようにはできていない。

 歯止めがきかないのだ。

 ずっと動画を見て、気が付けば一日が終わる。

 大切なことを忘れてしまっている。いや、大切なことが動画を見ることにすり替わっていると言ってもいい。

 自分は何を失くしたのだろうか。そして、何を得たのだろうか。

 何も得ていない訳がない。絶対に何かを得ている。それは断言できる。

 しかし、言葉にできないし、自覚はない。

 動画に問題があるのか、いや、そうではない。動画というものが気が付けば私の中にある何かを表面化させたのだ。

 誰もが大切にしたいと思っていた心の何かに干渉してきているような感覚があるがそれも違う。あくまでこの干渉は動画が生み出したものではない。私が自分に対して動画というものを切っ掛けとして生み出したものなのだ。

 すべては動画の責任ではない。

 その動画を見た私の責任なのだ。

 厳密には私でもない。

 人間の責任なのだ。

 そういう人間の責任なのだ。

 動画は次から次へと生まれ、そこには新しい世界が広がっている。まるで自分の住んでいる世界ではないところで誰かが息を吸って吐いているかの如く新しい興奮がある。

 しかし、それも真実ではない。

 私もそこにはいられるのだ。

 本当は、私もそうやって動画の中におさまって動くことのできる存在なのだ。けれど、自分でそこに線を引き、そこからそこまでと自分で自分の生き方を定義したのだ。

 動画が持つ問題というよりも、コンテンツに触れる人間すべてに言える問題が分かりやすく煙のように立ち上る。

 動画からはそれはそれは元気のよい声や、ひたすらに陽気な叫び声が聞こえてくる。何度も何度も見ては、何度も何度も笑顔になり、何度も何度も笑い、何度も何度も自分をそこに重ねる。

 気が付くと動画を見終わっている。

 まだこの動画に出会っていないときの自分を思い出し、少し羨ましがっている。

 誰かにすすめ、それがまた誰かにすすめられていく。

 動画は増えない。しかし、動画というものに対するイメージが増えていく。そこから増殖するのは好奇心以外のなにものでもないのに、増殖を繰り返すたびに少しだけ変容する。

 不思議と流れる動画と、そこに付随する評価には差ができ始める。

 それを補おうと私は何故か分からないがその動画の評論家を気取りだす。多くの意見が生まれ、賛成と、反対と、無関心が生まれる。

 そうこうしているうちに新しい動画が生まれる。

 それらをクリックする頃には、どんな意見を持っている者たちでも静かになる。

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