第1章(第3回)

 攻撃をかわしたはいいが、へたり込むような姿勢になってしまった。まずいと思った。やられる。そう思うと同時に、いつの間にか不恰好なスタートダッシュで駆け出そうとした。がくんと体が傾く。左足を掴まれたのだ。引っ張られ、タイミング良く拳が振り下ろされる。右腕に激痛が走る。苦悶するよりも先に床を這いずるように飛び出した。そのまま右腕を庇いながら左腕に力を込め立ち上がる。息を切らせながら部屋に入った。息を整える。この部屋にはすぐに入って来るだろう。右腕は熱を帯びたように熱い。この状態だと腕は折れているだろう。室内を見渡す。武器になりそうなものはなかった。不意を突くしかない。入ってきた数秒が勝負所だ。ドアからの死角に体を縮こまらせる。しかし、息を潜めていてもドアは開かなかった。こちらが出てくるのを待っているのだろうか。守は覚悟を決めると、慎重な足取りでドアに左耳をあてる。無音だ。自分の心臓の音だけがはっきりと聞こえる。ドアを少しだけ開ける。左にも右にも青年はいなかった。一体、どうなっている。

 守は部屋を出た。廊下は一直線で、守が逃げ込んだのはすぐ近くの部屋だ。青年はすぐに部屋に入って来たはずだ。見逃がしてくれるとも思えない。そこで守は考える。自分にとっても青年にとっても予想外のことが起こった——。それは、他の招待者の「文字」のよる仕業か、あるいは、部屋の空間移動のようなことが起こった。後者のような気がする。道化師の姿が割り込んできた。守は眉をしかめた。

 突然、守の目の前でドアが開いた。身構える暇もない。しかし、予想に反して姿を現したのは、眼鏡をかけた女子だった。守と同年代くらいだ。

「あ、人がいる。よかった〜」彼女は安堵した表情になった。

 守は身構えていた。

「わたしは戦う気はないですよ」両手の手のひらを振っている。

 彼女は守に一通り視線を動かした後。左腕で庇っている右腕に視線を止めた。慌てた口調で「怪我しているじゃないですか」と言った。続いて「治します」と、守の左腕を引っ張り部屋へ連れて行った。

 守を椅子に座らせ、本を開いた。刻まれた「治」の字に人差し指の先を当てた。字が浮かび、指先にくっついた。それを守の右腕に触れさせる。すると、見る見るうちに痛みが引き、腕の色も正常な色に戻った。守は驚いた。その表情を見て、彼女は嬉しそうにほころばせた。

「これでもわたしの『文字』は万能じゃないんですよ。軽い傷とかしか治せないし、回数制限もあります。でも、分かったことがあります。通常は1文字しか使わないんですけど、症状が重い場合は複数使用するんです。さっきのあなたの腕では、文字が重複しました。こんなことは初めてです」彼女はなぜか嬉しそうだ。

「あなたは『文字』を持っていないんですか?」

 守は本を取り出す。手帳サイズが文庫本サイズになっていることに気づく。

「ありますね」

 守は彼女を見る。彼女ははっとした。

「ええと。わたしは『治したい』と思ったら使えるようになりました。あと、イメージですけど。文字の箱に自分をすっぽりと収める感じですかね」

 守は彼女を真似て「火」の文字に指先を当てる。目を閉じ、意識を集中させる。真っ暗な中、自分がいる。前には扉があり、ゆっくり近づく。突然、扉が炎に包まれる。燃え盛る扉から後ずさりする。「自分には無理だ」と思う。すると、燃える扉はだんだんと燃え尽きるようにその姿を小さくしていった。燃え尽きた場所にはマッチがある。その先には火が点っている。それを拾う。目を開け、指先を離す。文字は浮かんでいない。「駄目か」と思った時、花に蝶が止まるように火が揺らめいた。オレンジ色をした蝶だった。

「出来ましたね」

 彼女の言葉を聞きながら、守は消えている暖炉に指先を近づけた。火は移り、暖炉は明かりを取り戻した。守は自分の火に息を吹きかけた。指を振った。だが、消えない。文字に指先を当てる。火は吸い込まれた。


 


 


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