第八章:命の選択を
第八章:命の選択 01
荘厳美麗。
その言葉を目で感じたいのなら、マーソン帝国の首都パルジャンのエライユ宮殿を訪れるべきだ。
そんな言葉を謳った吟遊詩人が以前ヴィヴィアンの家を訪れたことがあった。幼いヴィヴィアンはその言葉をなんとなしに聞いていたのだが、今ならその言葉の意味がわかる。
まるで巨人が駒を一つ一つ配置したような、正確な等間隔で並ぶ常緑樹に、美しい幾何学模様を芝生と土で描いた庭園。
そしてその先にある、壮大な建物。大理石の外壁は至る所に彫像が立ち、華麗なモチーフの装飾が彫られていた。建物の壁というより、立体的な壁画だ。
回廊には磨き上げられた黒と白の大理石が敷き詰められていた。その輝きは、ドレスから出たつま先が映り込む程。天井は高く、アーチ状にくりぬかれたその頂には宗教画が描かれており、聖母や天使が回廊を行く者たちを見守っていた。
廊下の窓は大きく、その窓から豊かな陽の光が差し込み、回廊に飾られている様々な彫刻を照らし、命を与えていた。
マーソン帝国に来た時、ティンダル王国とさほど変わらないと思ってごめんなさい。
ヴィヴィアンは美術回廊を歩きながら、港町で故郷とさして変わらないと思ったことを猛烈に反省していた。
この日のために、エムはヴィヴィアンに家から一番豪奢なアフタヌーン・ドレスと首飾りを持ってきていたが、それでも自分がとてもみすぼらしく、ここにいるのが場違いであることをひしひしと感じていた。
下手をしたら目の前にいる白い脚の従僕の方がずっと良いものを装っている可能性すらある。
それほどまでに、ティンダル王国とは雲泥の差の豪華絢爛さだった。
誰も通らない広い廊下を、案内役の従僕、ヴィヴィアン、エムと一列になって歩く。
エムもさすがにこの時ばかりは正装で、ヴィヴィアンは彼のモーニング姿を初めて見た。
一等大きな、そして隅の隅に至るまで彫刻の施されたアーチの形をした扉が開くと、赤い絨毯の先に、まだ誰もいない玉座があった。
「こちらでお待ちください」
白い脚の従僕はそう言うと、ヴィヴィアンとエムに深々と一礼をして、音もなく立ち去っていく。
美術回廊よりも数段豪華な部屋に、ヴィヴィアンとエムだけが残された。
ヴィヴィアンは誰もいないのを確認してから、ゆっくりと後ろを振り返った。
モーニングが着慣れないのか、エムはしきりに首元に手をやっていた。真っ赤な髪と緑の目が、陽の光を浴びて、初めて見た時よりも数段艶やかに輝いている。
「なに、ヴィー」
「いえ、モーニングなんて、よく持っていたと思って」
こんな最高級品の芸術品に囲まれて霞まない存在感に圧倒されていた、とは言いたくなくてヴィヴィアンは思わず、彼の衣装について触れた。
「ジャケットでいこうとしたら、プレヴェール伯爵に着せられたんだよ」
「それは……プレヴェール伯爵は命の恩人だったのね」
首をかしげるエムに、ヴィヴィアンは深いため息を吐いた。
皇帝に会うのに、ジャケットを着る馬鹿がまさか目の前にいるとは思わなかったのである。
* *
「マーソン帝国の皇帝に会う……?」
「そう。君に選択肢を与えるには、まず皇帝に会ってもらわないといけない。あと、宮殿についたら、名前はヴィヴィアンに戻そう」
さも当たり前のように話を進めようとするエムの袖を、ヴィヴィアンは思わずぐい、と握りしめた。
「ちょ、ちょっと待ちなさい。皇帝に、会う……?」
「それはさっきも言ったじゃないか」
もう3回目だよその言葉と、エムは若干うんざりしているが、ヴィヴィアンはあと4回でも5回でも同じセリフを言いたかった。
「だって、西の島国にある一王国の、公爵令嬢が大陸筆頭ともいえる大国のマーソン帝国の皇帝と会う機会なんて、そんなの天と地がひっくり返ってもあると思わないじゃない……!」
「なら、西の島国にある一王国の、子爵令嬢が大陸筆頭といえる大国のマーソン帝国の皇帝に会ったっていう本の方がよっぽどありえないじゃない」
「それはそれ、これはこれよ! あれは、だってフィクションだもの!」
支離滅裂だと解っていても、ヴィヴィアンは叫ばずにはいられなかった。
「まあ、とはいっても勿論僕が直接面識がある訳じゃないから、その橋渡しとして、この手紙をくれたプレヴェール伯爵にまずは会いに行ってほしい」
そういって、エムは随分と萎びた手紙を手に持っていた。ところどころ酸化し、黄ばんでいるところを見るに、かなり前にもらったものだろう。
ヴィヴィアンが何も言わずにじっとエムを見つめた。
「ああ、安心して。ちゃんとプレヴェール伯爵に会って話はつけてきてあるから。その為の6日間だったんだ」
言いたい事は解っているだろうに、エムはわざと笑顔を作って、伯爵の名前を出した。
つまり、まだ『エムが何者か』については、秘匿したいのね。
「そのプレヴェール伯爵は、なぜエムに手紙を送れたのかしら」
だから敢てヴィヴィアンは手紙に焦点を当てて話を切り出してみた。するとエムは少しだけ目を見張った後、何故か皮肉を言われた顔で笑った。
「出世欲っていうのは、時に居ない人を見つけだすんだよ。無いことを有ったことにしたみたいにね」
「……エムはやっぱり、性格が悪いわ」
ヴィヴィアンはその言葉に、温度のない声で返した。
言われたくない言葉なら、言ってくれるなと素直に言えばいい。そうすればヴィヴィアンだって謝れた。
敢て、ヴィヴィアンの琴線に触れることを言ってくるなんて、最低だ。
そこまで思って、ヴィヴィアンは、はたと気づいた。
自分も同じことをしたことがあった。
相手は殿下に、ひいては王家、政敵に。
その時は、謝罪などいらないから、嫌味を言ってやると思っていたのではなかったか。
ヴィヴィアンは茫然とした表情で、エムを見つめた。
エムは、先ほどの皮肉な顔から少し諦めたような顔をしていた。
「まだ、口にしちゃダメだよ、ヴィー」
その声は先ほど酷い事を言ったとは思えないほどに、優しい。聞き分けのない子の口を塞ぐ時のような、優しい声。
赤い髪に、緑の目。
* *
「またせたな」
特徴的な声が大きな回廊に響きわたった。
ヴィヴィアンは慌てて前に向き直ると、ドレスの裾をもって頭を下げた。
カツ、カツ、というヒールのある靴音が響き、玉座の前で止まった。
そして布が垂れる音がする。
「面を上げよ」
その言葉に、ヴィヴィアンは恐る恐る顔を上げた。
先ほどまで陽の光を一身に受けていた玉座に、肘をついて堂々と座る男がいた。
目鼻立ちはいいが、どこか意地が悪そうな顔の男は、アメジストの目で、ヴィヴィアンを見下ろしていた。
マーソン帝国、皇帝・アラン1世。
平定王の異名を持つ、20年にも及んだマーソン帝国の国土を分断するほどの内紛を、武力で鎮めた人物だ。
ヴィヴィアンは一度目を伏せると、ドレスの端を持ち、右足を斜め後ろの内側に引いて左の膝を軽く曲げ、背筋は伸ばした。
「陛下、この度はご機嫌麗しく……」
「ああ、堅苦しい挨拶はなくていい。俺に対してまどろっこしい礼儀など気にしないでいい。それくらいで首を刎ねたりなどもしない」
皇帝はハハハ、と大声をあげて笑ったが、ヴィヴィアンは何が面白かったのか全く分からない。
「……有難うございます」
「いっそのこと、後ろの男ほどの態度でもしてみたらいい。私は一向に気にしない」
何故か挑発的に微笑まれて、ヴィヴィアンはドキリとした。勿論、ときめきではなく恐怖からである。ちらりと後ろを見やれば、エムは足も揃えず仁王立ちしていた。
不遜にもほどがある態度に、ヴィヴィアンの肝が縮み上がる。
しかし、皇帝は本当に気にしていないらしく、エムの態度には全く触れず、彼の見た目の麗しさを褒めた。
「プレヴェールから聞いてはいたが、随分な美丈夫だな。予想以上だ。私の従僕になるか? この国は赤髪緑目に偏見はないぞ」
「……白いタイツは嫌です」
辛うじて敬語ではあったものの、エムはぎゅっと眉間にしわを寄せ、目を細めて皇帝を見上げていた。
心臓がいくつあっても足りないとはこのことだと、ヴィヴィアンは胃痛を抑えるため。咄嗟に腹に手をやり、奥歯を噛み締めた。
「冗談だ――それで、ティンダルの公爵令嬢よ」
「はい」
「此奴を私にくれないか」
「――は?」
不敬だとか、無礼だとか。そんな言葉はそれを聞いた途端、ヴィヴィアンからすっかり抜け落ちてしまった。
皇帝は最初の頃と同じ、意地の悪そうな笑みを浮かべていた。
「解っているのだろう? その男はカラムの族長の息子。そなたが主従を解いてくれれば、こいつを名目にティンダルに攻め込めるのだ――お前はティンダルに公爵令嬢として戻れるぞ」
* *
王、というものは須らく黙って玉座で胸を張る。
そして側仕えが彼の口となり、朗々と話すものだ。
その威厳を保つため、玉座に座るものは不動で、下々を見ず、ずっと前を見ている。
しかし、こと目の前の皇帝は違った。
玉座に片肘を立て、意地の悪い顔をしてヴィヴィアンを見下ろしていた。そして側仕えは無く、自らの口を開くのである。
「マーソンを平定して16年が経った。荒廃していた土地は本来の肥沃さを取り戻し、無駄にいた貴族どもは都合良く、いなくなった。なれば後はかのアレクサンドロ大王のように、トラヤヌス帝の様にありたいと願うは頂きの必然。
手始めに国が荒れそうなブルーシュ島のティンダルはどうかと、私の乳母兄弟が言った。緑の目をした彼奴は不思議な力を持っていてな、望む者がどこにいるか、たちどころに判るのだ。
もっとも、緑は赤には勝てぬ。赤は妖精の証。赤ければ赤い程、その血は人ではない。ティンダルの公爵令嬢――いやヴィヴィアン嬢、ご存知だったかな?」
名前を、憶えられている。
本来なら誉れである其れが、今はどうにも、首元に刃物の切っ先を突き付けられている様に感じられた。
「――いいえ」
首を掻き切られないように話すのは、とても難しい。ヴィヴィアンは、その3音を出すので精一杯だった。
「ほお。因果があるのは名だけのようだ。私はてっきり、そなたが近づいたのだと思っていたが……物語同様、そやつの片思いのようで、それはそれで愉快だ」
面白い、と皇帝は肩を揺らして笑い出した。
ヴィヴィアンはその様子に眉をひそめる。後ろのエムをちらりと見ると、何とも不機嫌な顔で皇帝を見ていた。
心当たりがないのは、私だけなのね。
彼らの共通認識である『物語』がヴィヴィアンの知っている『リリスの花道』でないことは確かだ。
ここでもまた置いてけぼりを食らっている。ヴィヴィアンもつい口をへの字にしてしまいそうになるのを、公爵令嬢の意地で必死に堪えた。
ひとしきり笑った皇帝が、ああ、と息を深く吐いた。そして改めて、ヴィヴィアンと、その先にいるエムを見た。
「まあ、プレヴェールはティンダル王国をと言うが、私は曇りよりも晴れが好きな男でね。ブルーシュの王国よりも、ガルシア半島の都市国家が欲しい。幸い、兄上の血もそちらにあるようだし、血による平定も悪くないかと思っているのだよ。――どこかの公爵殿のように、な。だからヴィヴィアン嬢、そなたには選択肢を与えよう」
「選択肢、でございますか」
ヴィヴィアンはその言葉に思わず反応した。
皇帝はまたニヤリと意地の悪い顔をして、そうだ、と頷いた。
「1つは先刻も言った通り、カラムの族長の子息の故郷への帰還を名目に、我らが平定した後のティンダルの統治をそなたの父に任せよう。王にはできぬが、我が帝国の公爵の位をやろう。さすればそなたはマーソン帝国の公爵令嬢。あの醜聞は消える。もう1つは、今聞いた話をすべて忘れ、我が臣民となること。だが、その代わりそなたの名誉と身分は戻らない。まあ、なれて平民だろうな」
こともなげに、皇帝はそれを口にした。
ヴィヴィアンは思わずぎゅっと拳を握り、スカートを握りしめた。
「そこの『稀代の魔法使い』は、『湖の貴婦人』の決定に従うと言って聞かないのでな。三晩、やろう。決めるがいい。――話は終いだ。すまないが、私はこれでも、忙しい身の上なのでね。先に失礼させてもらう」
皇帝は言うや否や、玉座からすっと立ち上がり、肩にかけたマントを鬱陶しそうに払いながら、ヒールの音を鳴らしてさっさと退室してしまった。
ヴィヴィアンは礼をする間もなく出て行った稀代の皇帝の後姿を呆然と見つめることしかできなかった。
「陛下から、三晩この宮殿の客間でお休みいただくよう仰せつかっております。ご案内いたしましょう」
そして音もなく近づいてきた、白い脚の従僕が、ヴィヴィアンとエムに深く一礼をしていた。
顔を上げた彼の目は、薄い緑色だった。
* *
数刻ばかりだと思っていた宮殿に、まさか4日もいることになるとは思わなかった。
白い脚の従僕に案内された客間は、その宮殿にふさわしい装いをしていた。
天井は高く、天使がヴィヴィアンたちを見守っていた。部屋は彫刻品の様な装飾が彫られ、ティンダルの離宮の一室がちっぽけに見える程に豪奢だ。
「――エム」
ヴィヴィアンが静かに声をかければ、エムは気まずそうに後ろからヴィヴィアンの前に現れた。
ティンダルにいた時と違うのは、赤い髪はそのままで、緑の目が月明かりを受けて、煌めいていることだ。
ヴィヴィアンだって、知っていた。
赤い髪と、緑の目を見た時から、彼がカラムの民だとヴィヴィアンだってわかっていた。
もしかしたら騙されたかもしれないと、その言葉が道中、何度もちらついた。
それでも、彼を信じていたから此処まで来たのだ。彼を信じた自分を信じて、ここまで来た。
そして、まだ自分が信じていたいから、ヴィヴィアンはその名前を呼んだ。
本当かもわからない、名前を。
「ティンダルに――公爵家に、復讐したくはないの?」
故郷の敵の地で、仇の娘に仕えていた。彼に比べれば、ヴィヴィアンの立場など、屈辱など、無きに等しいだろう。
ヴィヴィアンの言葉に、エムは静かに首を横に振った。
「したかったら、とっくにしてる。 皇帝が言ってたろ、稀代の魔法使いだって……その物語と同じかはわからないけど、そこら辺の魔法使いよりは、僕はずっと強いんだよ、ヴィー。 ……だから、君のしたい方を選んで」
エムの言葉に、ヴィヴィアンは思わず顔を覆った。
涙が、感情が抑えられなかったからだ。でも、その感情をエムに見せてはいけないと思ったからだ。
選択次第では、自分がエムの命を奪うのだ。
カラムの民として亡民の長として立てば、彼はティンダル王国とマーソン帝国の対立の矢面に立つ。両国の領土合戦の、一番の犠牲者になるのだ。
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