第一章:殿下と騎士とご令嬢

第一章:殿下と騎士とご令嬢 01





 前世の知識から言うなら、これが怒涛の展開、というやつなのだろうか。

 

 あの後、ティーカップの音に驚いたメイドが来て、砕けたティーカップを慣れた手つきで片づけた。メイドの来訪に気を取られている間に、エムは跡形もなく去っており、ヴィヴィアンは気づいたら夕餉の時間で、ぼうっとしている間にメイドたちにネグリジェを着せられていた。


 カップが割れることも、エムが音もなくいなくなることも、夕餉が独りなことも、服を着せられることも、いつも通りの筈だ。

 だというのに、どこか本の世界の様にヴィヴィアンは感じていた。


 そしていつも通りの時間にベッドに入ったが、ずっと目は冴えたままで。暗かった部屋に朝が来てもヴィヴィアンの瞼は落ちることがなかった。



 久方ぶりに夜明けを感じた。

 天気は珍しく快晴で、大きな窓からキラキラとした朝日が部屋に差し込んでいた。春の陽気はとても暖かで爽やかだ。自分の心情とのあまりのギャップに、ヴィヴィアンは思わず自嘲の笑みを浮かべた。


「馬鹿みたい」

 

 ついこの間まで、ヴィヴィアンは自分を選ばれし者だと考え、この国で一番偉い女となって、贅沢三昧をして死んでいくことを信じて疑わなかった。


 それが一転、自分は王家と公爵家の思惑の上で、どうにか生を繋いでいたことがわかったのだ。


 これが笑わずにいれるだろうか。


 靴も履かず素足でベッドから降りると、ヴィヴィアンはクローゼットを開けた。普段はメイドが開ける扉。自分で開けることは稀だ。


 クローゼットの中に入っている色とりどりのドレス、たくさんの宝石。

 ヴィヴィアンは嫌なことや腹が立った時このクローゼットを眺めたりしていた。

 ほとんどの場合嫌な感情を昇華しきれずメイドに当たったりもしていたが、ヴィヴィアンはこの扉を開けて、宝箱のようなクローゼットを見る度、自分に言い聞かせていたのだ。


 自分は選ばれた人間だからこそ、これだけの富をえられるのだ、と。


 でも今は思う。餌はやるのだから黙って従っていろという公爵の意思表示だったのだ。



 だからだろうか、贅沢品を一つ一つ手に取って見てもどれ一つとして以前のように高揚することがなかった。

 空虚の宝箱を一通り見た後、ヴィヴィアンは隣のドレッサーに触れた。


 そこには先日婚約者からもらったエメラルドの首飾りが、その大きな存在感をそのままに鎮座していた。


「……これが、あの人にとっての、私の命の価値なのかしら」

 手に取ると、シャラリという上品な音が部屋に響いた。差し込む陽を受けて、キラキラと輝くそれは正に豪奢という言葉が相応しい。

 あの王太子はこの状況を解って、自分に首飾りをくれたのだろうか。いや、解っているはずだ。解っていて、柔らかく微笑んで、豪奢な首飾りをヴィヴィアンに贈ってきたのだ。

 あの氷華のようなお綺麗な顔の下はとんでもなく醜悪だ。



「ひどいひと」 

 ヴィヴィアンは豪奢なそれをクローゼットの一番奥にしまい込んでベッドに籠る様に逃げ込んだ。

 今だけ。

 この日が昇りきるまで。それくらいなら、自分の身の上を嘆いてもいいだろう。

 これは蹲っているのではない、丸まっているだけ。

 ヴィヴィアンは自分にそう言い聞かせると、重い頭を抱え、シーツに埋もれたまま目を閉じた。

 





* * 






 生まれた時から、この身には義務があり使命がある。

 そのことをサミュエルは十分理解していた。というより、理解させられたといったほうが正しいかもしれない。

 このティンダル王国において姓を持たない彼にとって、その2つは既に体に癒着して引き剥がせないものとなっている。


「ああ、晴れたのか」

 夜明けの祈りを終えて、礼拝所から出れば雲一つない青空が広がっていた。

 ティンダル王国のあるブーシュ島において、晴れ、それも快晴はとても貴重だ。サミュエルは少しでも日を浴びていたくて、渡り廊下で立ち止まった。


「殿下?」

 家令と側仕えが、立ち止まったサミュエルを怪訝そうに見ていた。

 サミュエルは、ああ、と頷いてから歩を進めた。

 

 1日の生活という点では、王も貴族もそう変わらない。

 夜明けに礼拝、午前中に領地に関する業務として、税収入の報告や会議、領地内の裁判と手続きを行い、午後は有力貴族との会合をする。夜は舞踏会といった社交に時間を費やす。


 領地経営に関する業務は成人する前から、全てサミュエルが行っている。

 父である国王は、貴族領土同士の争いや裁判など、国規模の仕事を行っているためだ。


 特に五年前からは軍事力をさらに強化するために税収を何点か見直したため、王は国の政で手一杯なのだ。



「……ああ、クロムウェル公爵令嬢に例の物は送ったのか、どうだった」

 領内でかかった費用についての承認のサインの最中、不意に出てきた申請書を見て、サミュエルは家令に向かって口を開いた。

「はい。渡した者によりますと、飛び上がらんばかりに喜んでいた、と」

「そうか。それはよかった」

 その声は言葉とは裏腹にとても機械的だ。


 サミュエルは改めて申請書を見る。

 ダイヤモンドとエメラルドのちりばめられた首飾りは、冗談かと思うような金額の請求書だ。

 並みの平民であれば一生遊んで暮らせる額だろう。

 将来を約束した者への成人した節目の品とはいえ、本当に結婚するかもわからない令嬢に贈るにはあまりに高すぎる。


「これが後、何年続くのだろうな」

 サミュエルは請求書にサインをしながら愚痴をこぼした。

 家令や側仕えはそれに対し同意する様に笑った。


 16歳といえば成人だ。彼女はこれで様々な舞踏会にいくことが出来ると喜んでいるらしいが、そもそも王家との結婚が決まっているのに、成人してもまだ『ご令嬢』でいることがおかしいのだ。

 世継ぎのことを考えれば結婚は早い方がいいはず、という考えは彼女の中にはないらしい。貴族の中には気付いて不審がっているものがいるが、宝石と甘言に眼がない彼女はそんな彼らに目を向けず、耳を傾けないので気づかない。



「見た目と血はいいのにな」

 サミュエルは誰にも聞こえないように独り呟いた。

 ヴィヴィアンは透き通る金糸のうねる髪につり上がった青い瞳を持ち、薔薇の様な艶のある唇に、白く細い首に繊細な体つきを持っている。

 絢爛な宝石や絹や更紗のドレスがよく似合い、着飾れば着飾るほどによく映える。

 また彼女の父は言わずもがな、彼女の母も公爵令嬢だ。見た目といい、血筋といい、まさに公爵令嬢ここに極まれりといった存在なのである。

 どんな吟遊詩人も彼女を見れば、高貴とは、美しさとはこのことかと頷き、曲を作り出すことは想像に難くない。



 彼女の姓がクロムウェルでなければ、サミュエルは彼女を既にこの屋敷に招いていたと断言できる程に、彼女の見た目を血を好ましく思っている。


 生まれた家さえ違えば、あの過激な性格も多少は矯正されたはずだ。

 ああ、本当に惜しい。

 

 サミュエルはそう思うと、紅茶を一口飲んで、詰まれた申請書を片づけることに注力することにした。

 サミュエルはそれ以降、あまり頭のよくない、見てくれの良い女のことをすっかり忘れた。






**




 面倒くさいわ。

 

 メイドたちに粉をはたいてもらいながら、ヴィヴィアンは盛大にため息を吐いた。

 首には、数日前にクローゼットの隅に追いやったあの豪奢な首飾りが掛けられている。


「お嬢様、紅をさしますので口を閉じてくださいまし。あとため息はおやめください。お粉が飛びます」

 メイドは最近ヴィヴィアンが八つ当たりをしてこない事を確信しているのか、以前よりはっきりものを言う様になった。

 バラ色の紅を唇にさすと、その上に、蜂蜜を薄くのせる。艶やかな唇を見て、ヴィヴィアンは余計うんざりした。



 お父様もなにが『首飾りのお礼は直接しろ』よ。そのまま私が断罪されたら、呪って出てやるんだから。



 誕生日にもらった首飾りについてヴィヴィアンは手紙で済ますつもりだったのだが、父であるクロムウェル公爵に咎められた上、直接言いなさいとサミュエル王太子を招待してしまったのだ。


 彼も彼で、好きでもない令嬢に会うのも億劫だろう。誕生祭同様に忙しいと断ればいいものを『喜んでいかせて頂きます』なんて返事がきものだから、ヴィヴィアンは逃げ場がないのである。

 

 昨晩、嫌だ嫌だと駄々を盛大にごねて夜更かしをした。メイドに当たれないので布団に当たった。

 見兼ねたエムに明日の席では近くにいてやるから今日は寝ろと言われて、漸く目を瞑ったのだ。


 そして、頼みの綱であるエムの姿を、ヴィヴィアンは今朝から見ていなかった。

 そもそも彼が姿を見せてやろうと思わない限り、ヴィヴィアンは彼の存在を把握できないのだ。伊達に影を11年もやっていない。

 なので、今もどこかでヴィヴィアンを見守り、いざとなったら助けてくれると信じるしかないのだ。



 短剣くらいパニエに仕込めないかしら。ああ、そんなもの持っていたらますます疑われるわね。



 まったく憂鬱だと思って、ため息をまた吐こうとした瞬間、来客を知らせる鈴が鳴り響いた。


「サミュエル殿下、御尊来―!」

 フットマンのよく通る声が響いた。


 ヴィヴィアンは、ついにきたか、と吐こうとしていた息を飲み込んだ。

 メイドはヴィヴィアンの髪に宝石の髪飾りをちりばめて最終チェックをしている。

 鏡の前には贅沢を尽くしたそれはそれは豪奢な公爵令嬢が出来上がっていた。


「お嬢様をお迎えに上がりました」

「参ります」

 コンコン、とドアが控えめにノックされ、先ほどのフットマンとは別の声が聞こえた。メイドがそれに答えると、ヴィヴィアンの椅子を引く。



 この頭、ものすごく重い!



 ヴィヴィアンは頭を両手で押さえたくなるのを必死に耐えた。

 髪を結い上げ、大きな髪飾りをつけ、さらには小さな髪飾りを髪中に散らしているのである。重くないはずがない。

 おしゃれは我慢とはよく言ったものだ。本当につらい。


「ご案内いたします」

 フットマンは一礼し、ヴィヴィアンを応接間に案内した。

ヒールのヴィヴィアンのために歩幅は小さく、階段では手を取って先導してくれた。


「ありがとう」

 その言葉は自分が思っていたよりもすんなりと口から出ていた。

「……勿体ないお言葉でございます」

 フットマンは頭を下げたままそう口にした。おそらく、驚いているのだろうが、驚いた顔を見せるのはさすがに不敬とおもったのかもしれない。

 そんなことより、と、ヴィヴィアンは扉に向き直った。

 観音開きの先に、自分を殺す男がいる。




「ヴィヴィアン嬢」

 その声音には何故か華がある。銀糸の髪を軽くまとめ、公式の場よりややラフな正装で彼は応接の間に佇んでいた。

 肌は東洋の器の様に白く、眼鼻立ちも華やか。優美を体現したような顔と体をしている。

 サミュエル王太子。ヴィヴィアンの憎き婚約者である。


「殿下。この度はわざわざご足労頂き、誠にありがとうございます」

 恭しく一礼をする。サミュエルはヴィヴィアンに歩み寄り、彼女の指先に口付けを落とした。手袋の先に温かさが灯る。

 氷のような見た目でも、人並みに体温はあるのか、と、王国の令嬢の誰しもが羨む口付けを、ヴィヴィアンは冷えた心で見ていた。


「私の方こそ、婚約者である貴女の生誕祭に出向くことが出来ず申し訳ない」

「ご公務ですもの。仕方ないですわ」

「そう言ってくれるなんて、ヴィヴィアン嬢はなんて優しいんだろう。ああ、その首飾りもとても似合っている。貴女を飾るのに既にあるものはふさわしくない、と作らせたんだよ。やはり貴女は特別が似合う」

「まあ」

 よくもまあそんなに口が回るものだわ。

 前世の記憶と混ざった今のヴィヴィアンには歯の浮く台詞に対して抵抗感がある。

 さらに、上っ面の言葉だとわかっているので、余計強くそれを感じた。



 そういえば、この首飾りやらドレスやら、どれだけするのかしら。首飾りの相場、調べなくちゃ。



 サミュエルの近況と世辞をきれいに聞き流しながら、ヴィヴィアンはそんなことを思った。ヴィヴィアンはまだ自分の服の金額も相場もわからない。知らなくてはならないことがたくさんある。お綺麗な顔の口が動くのを見ながら、ヴィヴィアンは気を引き締めた。



「……で、いいかな?」

「ええ、喜んで」

 え。 待って、何が?


 興味がなさ過ぎて、聞き逃し過ぎた。同意を求められて、反射的に頷いてしまった。ヴィヴィアンが固まっているのを、知ってか知らずか、サミュエルは優美に笑って言った。


「では明後日。是非我が家の庭園にいらしてください。ああ、ヴィヴィアン嬢が来てくれるなんて嬉しくてたまりません」

「――わたくし、とっても楽しみですわ」

 ホホホ、と笑いながらもヴィヴィアンの口角は引き攣ってしまった。

 見つめたサミュエルの顔には、ちゃんと話を聞かないからこうなるんだぞ、と書いてあったからだ。




 * *




「馬鹿なのかな? 知ってたけど、本当に君って馬鹿なんじゃないかな」

「不敬よ、不敬よ! 自分でもわかっているんだから責めないでちょうだい!」

 その日の夜、どうしていいかわからないヴィヴィアンは、堪らずエムを呼び出した。


 呼び出して開口一番、エムの主人に対する礼はどぶ川に捨ててきましたと言わんばかりの言葉に、ヴィヴィアンは思わず扇子を投げた。

 扇子は、ヴィヴィアンの投擲能力が低過ぎてエムの足元に転がった。


 足元に転がった扇子を手渡しながら、エムは呆れたような声で言った。

「こないだの扇子といい、カップといい……人に当たるのはやめたんじゃないの」

「お前は影です。使用人ではありませんもの、いいの。そんな事より、お前私の側にいると言ったじゃない! なんでかもう話は知っているようだけど、どこにいたのよ、あの時!」

 全然見当たらなかったわ、と、差し出された扇子をひったくる様に受け取って、ヴィヴィアンは喚いた。

 エムはいたよ、と首をかしげた。



「“お嬢様を、お迎えに上がりました”」

「あ、あの時のフットマン!? 全然声違うじゃない!」

「僕ほどになれば声くらい変えることが出来るんだよ。それで、僕の顔どうだった?」

「フットマンの顔なんて見てないわよ」

「……僕、あの時部屋にも入ってたし、なんならこの部屋に帰る君をドア前までお見送りしたんだけど」

「憎き殿下のことしか頭になかったから、知らないわ」

 どこか高揚した声で聞かれたそれを、ヴィヴィアンはバッサリと切り捨てる。


 そもそも化粧をしたメイドの顔もろくに覚えていないのだ。一度会っただけのフットマンの顔など見ているわけがない、というのがヴィヴィアンの主張である。


「君って本当、人でなしだよね……さすがに長年世話になってるメイドの顔と名前は覚えときなよ」

「黙りなさい。それより明後日よ」

「残念なお知らせ。さすがに王太子の庭園には忍び込めない」

「はぁ!?」

 影でしょう、と詰め寄ろうとしたら、手を取られた。


 王太子は手袋越しだったが、ネグリジェに着替えている今、エムとは素肌が直接触れ合う。

 王太子との接触とは比べ物にならないほど熱が、手のひらに広がっていく。

 人の温かさだ。

 ヴィヴィアンは温かくなる手に目をやり、エムを見上げた。


「確かに僕は影なんだけど、一応人間でね。2日で庭園に忍び込むにはちょっと魔法が足らない」

「魔法?」

 火とか水とか出せるやつだろうか、そんなの小さいころ乳母に読んでもらった寝物語の世界にしかない代物だろう。

 ヴィヴィアンは首をかしげる。

 エムは手遊びの様にヴィヴィアンの指に自分の指を絡ませながら、そうそう、と頷いた。


「まあ、人は工作とも言うけど」

「裏面工作じゃない!」

「そんな言葉よく知ってたね」

「あなた、流石に私のこと馬鹿にし過ぎじゃないかしら」

 

 握られていた手を剥がして、扇を開いた。口元を隠して、じとっとした目でヴィヴィアンはエムを睨みつけた。

「ごめんごめん。とにかく、僕には何もできないからお守りくらいは作っとくよ」

 それでもエムは飄々とした姿勢を崩さない。

「気休めじゃない……」

 ヴィヴィアンは思わずエムから目を逸らし、俯いた。途端、猛烈な不安に襲われ、ヴィヴィアンは思わず堅く拳を握った。


 ヴィヴィアンの強張った手を、大きくて温かなふたつの手が優しく包み込んだ。


「ヴィー。今、王家は君に何もできないよ。だから君の心の余裕が、君を助ける」

「本当に?」

「本当さ」

 エムはそう言うと、ヴィヴィアンの拳を解いて、指先にキスをした。リップ音が静かな寝室に響く。



「だから、今日はもうおやすみ―“お嬢様”」


 ヴィヴィアンは、どうしてあの時顔を見ておかなかったのかと、目を隠すエムの顔を見ながらふと思った。








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