星の降る日の美しい音

もちだ ふじ

星の降る日の美しい音



 無彩色の夢を追いかけていたら、パラパラと何かが落ちる音を聞いた。

 波間を漂うようにまどろんでいた意識はその音を追いかけて急上昇し、彼女は重く固まっていた瞼を持ち上げた。何かが落ちる音はさっきよりも濃くはっきりと聞こえる。その音に混ざってピリリ、パリリと何かが弾ける音も聞こえた。星が降っている、と気が付いた。


 ピンと張りつめた冷たい空気を鼻で感じる。鼻を啜ればその動きは鈍くて重い。分厚い布団で温められていた左手で鼻先を抓んでみる。抓まれた鼻先に左手の温かさがじんわりとしみ込んで、溶ける氷のような気持になった。


 部屋の中は酷く冷え切っている。昨日の夜暖房を切って眠ったのは失敗だったらしい。眠い、寒い、と訴えるドロリとした身体をどうにか動かし布団から這って抜け出す。気を抜けばすぐに布団に戻ってしまいそうだった。そうしているうちにさっき見たばかりの無彩色の夢はしんと冷たい空気に飛散していった。


 クローゼットからベージュのカーディガンを引っ張り出して肩に掛ける。尻の辺りまですっぽり隠れる長い丈は、このカーディガンが彼女のものでは無いからであった。両腕をさすりながらキッチンへ移動する。二口コンロの一つを占領していた小ぶりのやかんを手に取ると、蛇口を捻り勢いよく出てくる水を注ぐ。重くなったやかんを再びコンロに戻して火をつける。チチチチチ。ボァ。ゴオゴオオと燃える火を弱火に調節してリビングに戻った。


 床に敷いていた布団をボスボス踏みつけながら窓際へ歩いていく。最近変えたばかりの厚手のカーテンは、窓越しの冷え冷えとした空気を通すまいと頑張ってくれている。が、その甲斐も空しく、ひんやりとした空気を抑えきれず部屋の中に零していた。


 彼女は右側だけカーテンを開く。窓ガラスの向こう側に外の様子が見える。薄暗い中をキラキラと光る星がしきりに落ちてきている。時々窓ガラスに当たってはピリリと弾けていた。パラパラ、ピリリ。パラパラ、パリリ。星の降る音は増すばかりだった。彼女は深く息を吐く。口から出ていった息はフッと窓ガラスを白く曇らせた。そうしてぼんやりと外の世界を眺めていると、キッチンからシュン、シュン、シュンと軽快な音が響いてくる。彼女は遠いところまで旅立っていた思考を慌てて呼び戻すと急いでキッチンに駆け込んだ。


 沸かしたお湯は濃い黒色のコーヒーに変わり、彼女のお気に入りのステンレス製のマグカップに注がれた。ホワリと白い湯気を立てるマグカップを片手にリビングに再び戻ってくると、布団に追いやられるようにして隅に置かれていた小さなテーブルの上に置く。一緒に持ってきた買ったばかりの何本かスティックパンが入った袋を開けると一本取り出し齧った。ツブツブとチョコチップがたくさん入ったそれは彼女のお気に入りだった。スティックパンを咥えたまま布団の上に両膝を抱えて座り込む。ものの数口で食べ終わりコーヒーをズズズと啜った。


 彼女の視線はテーブルの上に置かれた分厚いガラスでできた灰皿に向けられた。ふと、灰皿の縁に指先をひっかけ自分のほうへ近づける。クシャリと潰れたシガレットが何本か転がっているそれは微かに灰のにおいを漂わせていた。舌の上に残るチョコレートの甘みとその上を流れていったコーヒーの苦みに喉がギュルリと小さく呻いた。


 彼女は甘いものが好きだ。特に砂糖と牛乳がたっぷり入った甘い甘いコーヒーを好んで飲んでいた。コーヒーの苦みは苦手だった。けれど、香ばしいにおいは好きだったから、どうにかこうにか飲もうと工夫した結果が甘いコーヒーを飲み始めたきっかけだ。


 そんな彼女に数年前恋人ができた。その恋人は日がな一日シガレットを吹かしている人だった。シガレットのにおいは苦手だったが、恋人の口からクユリ、クルリと舞う白い煙と、何よりも美味そうに吸う様に惹かれた。興味が沸くものは試さないと気が済まない彼女がシガレットを吸おうとしたことがある。が、自分は吸うくせに恋人に猛反対され、代わりに深煎りのコーヒーを砂糖も牛乳も入れず飲むこと勧められた。シガレットを吸うときに飲むのが好きだという。一緒に楽しむのであればコーヒーであっても良いだろうと言い包められた。恋人が選んで買ってきてくれたコーヒーは、最初のうちこそただただ苦いだけの液体にしか思えなかった。次第に舌が慣れていくにつれて、苦みの中にそのコーヒーの旨味を感じることができるようになった。気が付けば甘いコーヒーが飲めなくなるくらいにその味の虜になっていた。何よりもシガーを吹かしながらコーヒーを飲む恋人の気持ちを半分共有することができたことがうれしかった。


 この灰皿は頻繁に訪れている恋人がいつの間にか置いていたものだった。灰皿の傍にはシガレットケースとマッチ箱もある。彼女はシガレットケースから躊躇いもなく一本抜きとると、マッチをヂッと擦ってシガレットの先端に火を点ける。燃えるシガレットの先から白い煙がクユリ、クルリと舞い上がった。すぐに部屋に灰のにおいが広がる。それは彼女の飲むコーヒーのにおいと混ざっていく。それは今ここにいないはずの恋人の存在を思い出させた。


 突然、部屋にブーン、と低い音が響いた。彼女は枕元をあさる。枕の下敷きにされていたスマートフォンの液晶画面に現在の時刻とその下に恋人の名前とメッセージが表示されていた。今夜夕食でもどうだろうか、という誘いのメッセージだった。まさか今考えていた恋人から連絡があるとは。彼女は口元が緩むのをそのままにすぐに返信を返す。一瞬、こんな星の降る日に、と煩わしさを感じたが、ここ最近はお互いの家を行き来して一緒に出掛けることが無くなっていたため、たまには良いかと了承のメッセージを返した。


 さてと、今日は休日の彼女は夜までの時間何をして過ごそうかと考える。外は相変わらず薄暗くて星は降りやまない。買い出しには行きたくない。それならば部屋の掃除をしよう。彼女はコーヒーを飲み干して立ち上がる。綺麗になった部屋でまたコーヒーを淹れて、それから本でも読もう。



 夜になり支度を済ませた彼女は恋人からの連絡を待っていた。今日も仕事だという恋人からの連絡はまだ来ない。奮発して買った黒いワンピースを着て、化粧にたっぷり時間をかけて、いつもはしないマニキュアを爪に塗ってみたりしてみた。が、それでも恋人からの連絡はない。本を読もうにも気持ちが落ち着かなくて内容が入ってこないため諦めた。意味もなく部屋の中でグルグルと回る。そうしてようやくスマートフォンがブーンと音を立てた。すぐに画面を確認するとやはり恋人からだった。開いたメッセージには長い長い謝罪の言葉と仕事が長引いて遅れるという旨が書かれていた。少し考えて彼女は了解と短く返事した。家にいてひたすら待ち続けるのも疲れそうだと、彼女は丈の短い茶色のダッフルコートを着て、かかとの高い黒いハイヒールを履き外に出た。


 恋人の職場の近くによく行くカフェテリアがある。そこで待つと再度恋人にメッセージを送って彼女は傘を差し歩き出した。


 星はまだ降っていた。地面に降り落ちる星の間を抜けて足を進める。細いピンヒールをコッコッと音を立てながら歩く。足の裏に凸凹とした感触を受けながら、地面にできた浅い星だまりを踏んづけていく。握った傘の細い持ち手が冷たい。傘に容赦なく星は落ちてきて、バタバタという音とともに手に振動を与えている。傘で弾けた星がダッフルコートをキラキラと濡らしていく。ダッフルコートに覆われていない腰から下のワンピースの裾にも星がまとわりついていて、なんと煩わしい。なんてったってこんな日に。けれど、恨んだって仕方がない。それよりも急いで目的地に着くことを決めひたすらに足を進めた。


 星に打たれ街頭に照らされ外に置かれたカフェテリアの立て看板は一際光っていた。路面側に伸びている屋根のあるテラス席に入り込み傘を閉じる。肩に掛けていたトートバックからハンカチを取り出しダッフルコートに着いた星を払う。大方取れたところで見切りをつけてハンカチをしまった。ハンカチではすべて拭いきれない。どうせ店内は空調が効いていてそのうち乾くだろう。そういうところがガサツだと友人に言われることがあった。それでも恋人は面白そうに眼を細めるだけで咎められなかった為、この性格はきっと直らないものだと諦めている。


 店内に入るとオルゴールの柔らかい音と夕暮れのような灯りが迎えてくれた。テーブル席が3つにカウンター席が5つ。そのうちのカウンター席の1つに体格の良い若い男が座っていた。黒いエプロンを着たままで、カウンターの向こう側にいる長身の線の細い男と話している。どちらもここの店員であり、長身の男は店主である。店主の男は大変美しい顔をしていることで有名だ。年端もいかない少女から年齢を重ねたご婦人までを虜にする色男として訪れる女たちの心を射止めていた。彼女もまた彼を美しいと思うが、所詮思う程度である。自分には恋人の存在があったし、それ以上によく一人で来店する彼女は店主と仲が良くその人柄もほかの客より知っていて、性格の違いから友人として交流する分には楽しいがそれ以上の関係は合わないと思い、憧れには繋がらなかったからだ。何より、彼にはこれまた美しい妻がいて溺愛していることを知っているからでもある。


 そんな店主は入店した彼女に気が付いた。口角を緩く上げて綺麗な顔で微笑む。

「よう。いらっしゃい」

店主が声をかけたことによって、カウンター席に腰かける若い男も彼女の存在に気が付き慌てて立ち上がる。出迎えが遅れてしまったことをペコペコと謝る若い男に、彼女は問題ないと微笑んで見せた。


 すぐにカウンター席に案内されるとお冷が出された。カロンカロンと、お冷の中に入った氷がグラスに当たる。彼女は店主にコーヒーを注文する。店主は頷くと静かな動作で用意を始めた。


 コポコポ、パラパラ、ピリリ。ららら。コポココ、パラパラ、パリリ。らららら。


 店内に湯を沸かす音と、外で降り注ぐ星の音。それから少し離れたところで、店内のテーブルを拭き始めた若い男の小さな歌声。音程があちこちに散らかっている歌声だったが、星の降る中傘を振り回しながら、星だまりを踏んづけながら楽そうに歌うとある映画の有名な曲だと分かった。彼女は待っている間それらの音に耳を傾ける。コポコポと聞こえるその音はまるで水の中にいるようで、パラパラと降るその音は水中を漂う泡が弾けているよう。若い男のその音は壊れかけたラジオから聞こえる音楽のよう。彼女はこっそり頬を緩ませる。星の降る日に外へ出るのは好きではないが、こうして星の音に耳を傾けて色々な音と混ぜて想像を膨らませることは楽しい。


 そうしてしばらく耳を傾けていると目の前にコーヒーカップが置かれた。飲み口が広く、背の低い聖杯のような形がこの店で出されるコーヒーカップの特徴だった。彼女は礼を告げるとカップを手に取る。コーヒーを淹れ終わった店主は、サビに入って盛り上がってきたのかさっきよりも歌声が大きくノリノリになってきていた若い男に「少しボリュームを下げてくれ」と注意し、彼女に向き直る。若い男の恥ずかしそうな謝罪を聞きながら彼女もまた店主を見上げた。


 店主はカウンターに両肘をついて身を乗り出す。まるで彼女に内緒話をするかのように、

「星の日のスペシャルブレンドだ。どうだい。こんな日だけの特別なトッピングをしてみないか?」と、ひっそりとした声で言う。相も変わらず綺麗な顔である。彼女は目を丸くして2回、3回と瞬きをした。そんな彼女の表情に満足したのか店主はカウンターから出てくる。手には店で出すコーヒーカップとは違う武骨なマグカップを持っており、緩やかに足を進めると彼女が入ってきたテラス席へ通じるドアを開く。

「コーヒーをもってこちらへ。足元にはくれぐれも気を付けて」

そう言うと店主はテラス席へ出ていった。首を傾げながら彼女はカップを持ってついていく。


 パラパラ。パリリ。パラパラ、ピリリ。外は依然として星が降り続いている。軒先で店主はマグカップを片手に空を見ていた。遅れてやってきた彼女は隣に並ぶ。

「よく降る星だな」

語り掛けるわけでもなく、独り言のような音量で店主は呟いた。けれど彼女は何となく頷いて同意してみる。


 店主はすっと腕を前に伸ばす。その手に握られたマグカップが軒先からはみ出す。それに向かって星が降り注いだ。ポチョン、ピチョン、ポチョン、ピチャンと音を立ててマグカップの中のコーヒーに星がいくつか落ちる。店主はすぐに腕を引くと彼女にマグカップの中を見せた。覗き込んだ彼女は思わず、ほうとため息をついた。


 マグカップの中には星の粒がいくつか浮かんでいた。ぼんやりと淡い光を纏いながら黒いコーヒーに浮かぶ。まるで夜空をマグカップで掬ったみたいだった。光を纏っていた星の粒は少ししてすぐにコーヒーに溶けていった。光が無くなったコーヒーはいつものコーヒーと何ら変わらなくなる。店主はそのコーヒーを啜る。一瞬顔を顰めて「甘い」と呟くと、顎で外の方を差し彼女にもやってみるように勧める。


 彼女はちょっぴり緊張しながら店主と同じように軒先から腕を差し出す。ポチョン、ポチョン、ピチャン。店主がそうしていた時間よりほんの少し早く腕を引きコーヒーカップを覗き込む。店主の時よりも少しだけ少ない数の星の粒が浮かんでいたが充分だった。ポオっと光るコーヒーの夜空に彼女は見とれた。そんな彼女の様子に満足した店主は体が冷える前に戻ってくるように告げると先に店内に戻っていった。


 彼女はテラス席の椅子に座りコーヒーを啜った。星を淹れたせいか少し冷めたコーヒーにはまろやかな甘みが付いていた。いつか自分が好んで飲んでいたコーヒーの味を思い出す。久々に飲んだ甘いコーヒーの味は悪くはなかった。コートを店内に置いてきた為少し寒いが、構わず彼女はコーヒーカップを両手で包んだまま星が降る様子を見ていた。


 ブーン、ブーンとワンピースのポケットが揺れた。ポケットに入れていたスマートフォンが小刻みに一定のリズムで震えている。コーヒーカップを置いてポケットからそれを引っ張り出すと、液晶画面に恋人の名前が映し出され電話がかかってきていることを告げていた。受話器のマークを押してスマートフォンを耳に当てる。開口一番に恋人からの謝罪の言葉が届いた。


 遅くなってごめん、と恋人は謝る。気にしなくていいと彼女は答えた。今、いつものカフェテリアにいると続けると、すぐに行く、と恋人が言う。少し間を開けて、今日はどこへ行こうか、と恋人は続けた。お店を決めて誘ってくれたのではないのかと彼女が問うと、ごめん店は決めていません、と恋人は素直に謝ってきた。彼女はわざとらしく声を出してため息をついてみる。すると恋人は慌てたようにいくつかよく行く店の名前を挙げる。彼女はその中から一つの店の名前を告げると、恋人は食い気味に分かった、と了承した。彼女は口元が緩むのを抑えながら、けれど口調は厳しく早く来るようにと告げる。恋人はハイ、すぐ行きます、と答えた。その返事に満足した彼女は優しく気を付けてくるように言うと、恋人はありがとう、と答え通話は切れた。プー、プーと無機質に聞こえる音からしばらく耳を離せなかった。この音すらもこんなにも愛おしく思うことがあるんだなと彼女は思った。


 彼女は残ったコーヒーを一気に飲み干し店内に戻る。店主に声をかけてすぐにお会計を済ませた。ダッフルコートを着ながら店を出る支度をする彼女に店主は笑って声をかける。

「良い夜を」

笑った顔はやはりどこまでも綺麗な顔だった。彼女は店主に頷き礼を告げて、店内の清掃に励む若い男にも声をかけて外に出た。外では星がまだまだ降り注いでいる。パラパラ、ピリリ。パラパラ、パリリ。

 傘を差して店先で恋人を待つ。傘に当たる星の音を聞きながら遠くのほうでこちらに走ってくる恋人の姿を見つけた。まだ遠いけれど、そのバタバタとした足音が星の音の合間に聞こえてくるようで、彼女は恋人に手を振りながら一人声を上げて笑うのだった。


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星の降る日の美しい音 もちだ ふじ @mochida_fuzi

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