5話
――天気は快晴。春べに揺蕩う雲の群れ。
「……」
緊張に鞄を握る私のセーラー服を、吹き抜ける春風が、はたまた忙しない心臓が、小さく揺らした。
「よ」
「あ、おはようございますっ」
パーカーにジーンズを履いたマサさんが、私に向かって手を振る。目深に被ったフードからは、唯一彼の口元が覗いている。
「悪いな。待たせたか?」
「いえ、私も今来たところです」
話すと同時に動く口元。普段は顔を隠しているせいで、それだけで新鮮に感じてしまう。
「そりゃ良かった。んじゃ行くか」
「はいっ」
微笑む彼に、上擦った返事を返す。
今日は待ちに待った、デートの日だ。
場所はお台場。言わずと知れたデートの名所である。
バリバリ海に面しているこの地域は、例外なく二十㎝程が水没している。そのせいで近々閉館してしまうらしく、今は閉館セールなるものをやっている。故にこの場所には、現在もそれなりの数の人が往来していた。
私は高所を歩きながら、会話の話題を探す。
「下水設備とか大丈夫なのかこれ?」
「あ、トイレは仮設の物以外使用禁止らしいです」
「だろうな」
そこは下調べ済みだ。デートなどした事のない私だが、今回は猫目ちゃんや氷室さんの意見を貰ってプランを考えた。きっと上手くいく筈だ。
私は気合を入れ直し、マサさんの横に並んだ。
「最初は、服か」
「はい。せっかくですし、おしゃれしたいです」
「そーだよなー。着てたもんしか持ってこれなかったんだから、女子にとっちゃ死活問題だろ?」
「はい。これなんて、洗濯しすぎてもうボロボロです」
「そうか?……案外そうは見えないけど」
マサさんの顔が近づく。
「じ、自分で縫ったり、補修したりしてるんです。ほら」
袖を捲り、びっしりと補修跡が残る裏地を見せた。表には一切違和感を見せない辺り、それなりの腕だとは思う。
「お〜、凄ぇな。裁縫得意なの?」
「はい。女性の嗜みだ、と祖母から教えられました」
私はちらりとマサさんの顔を見る。これは彼の言う、母性ではないのだろうか?
「いやはや、尊敬するよ」
どうやら違うらしい。
雑談をしながら歩いていると、目的地に到着する。多くの専門店を統合したショッピング施設、女性の為のテーマパークとも言われる、ヴィーナスフォートだ。
その内観に彼が喜ぶ。
「おお、異世界だ」
「はい。この場所は中世ヨーロッパを模して造られたそうです」
彼がこういった景観を好きなのは織り込み済みだ。猫目ちゃんが教えてくれた。有難う猫目ちゃん。
「いいね。行きたい店とか決まってんの?」
「はい。こちらです」
そう言い、私はブティックへと足を運んだ。
――私は鏡の前に立ち、二着の服を吟味する。
「どっちも似合ってるぜ?」
「あ、ありがとうございます。すみません、すぐに決めますので」
男性は女性のショッピングに否定的だとよく聞く。ここで迷っていては、彼の機嫌を損ねてしまうかも知れない。慌てて謝るが、
「何言ってんだ。服はじっくり決めてなんぼだろ」
そんな私を、マサさんは笑って否定した。
「俺をそこら辺の男と一緒にするなよ?大いに悩んで迷うがいいさ。それがショッピングの醍醐味よ」
ショッピングの何たるかを諭す彼の、その優しさに、私の好感度は更に上がってしまう。
「……でしたら、聞いてもいいですか?」
「おうよ」
「こちらと、こちら、どちらが良いでしょうか?」
私は白のカシュクールワンピースと、白のパーカーとジーンズのセットを彼に見せた。
「究極の質問だな。……(女性が二択の質問をする時、自身の中では既に答えが決まっているという。即ちこれは質問であって、質問ではない。俺の感性を試す試練だ。どうする、考えろ、女性を失望させるなど、俺のポリシーに反する)」
「……」
私は熟考する彼の答えを静かに待つ。
「……(いや、待てよ、思い出せ。彼女はさっきこう言った。『せっかくですし、おしゃれしたいです』と。つまり彼女は、ここで買った服に着替えて、今日一日を過ごすつもりという事。彼女から聞いたプランでは、これから運動施設にも行く予定だ。つまり、動きやすい服の方が正解だ。加えてパーカージーンズは、今の俺の服装でもある)……見えた」
「……(ごくり)」
私は静かに笑う彼に唾を飲み、次いで指を指されドキッ、としてしまう。
「パーカーが正解だ」
「!マサさんもそう思いますかっ?実はこっちが良いかなって思ってたんです!」
「っ(勝った!)」
何故か盛大に拳を天に突き上げる彼を見て、私は嬉しさに頬を緩める。好きな人と意見が一致すると、何だか気分が上がってしまう。
「一回着替えて来ますね!」
「あいよ。……あ、店員さん、あのパーカーとジーンズいくらですかね?」
――制服を抱え更衣室を出て、小走りで彼の元に戻る。
「お待たせしました。ど、どうですか?」
「うん、ちゃんと似合ってるぜ」
その言葉に、自然と口角が上がってしまう。とその時、
「店員さんお願いします」
「かしこまりました。失礼します、タグをお切りしますね。あとよろしければ、こちらの紙袋をお使いください」
「え?有難うございます。……え?」
私はタグを切る女性店員に驚き、制服を紙袋に仕舞いながらマサさんを見る。
「んじゃ行くか」
「あの、まだお金払ってなくて」
すると店員さんに、こっそりと耳打ちされた。
「もう頂きましたよ。……カッコいい彼氏さんですね」
「――っ」
意味を理解した瞬間の感謝と申し訳なさが、次の言葉のインパクトで消し飛んだ。
『彼氏』、確かに側から見ればそう見えるのだろう。
顔が急激に熱くなるのを自覚しつつ、私は会釈して、そそくさとその場を離れた。
「……あ、あの、有難うございます」
「いいってことよ。カッコよかったろ?」
ニヤリと笑う彼に、思わず吹き出してしまう。
「ふふっ、それ、自分で言っちゃうんですね?」
「だってカッコいいからな」
「はい、カッコよかったです」
本当に、そう思った。
「次はスニーカーだな」
「へ?」
――そうして数十分後、私の足は新品のスニーカーを履いていた。
「……本当にいいんですか?」
「勿論。俺金持ちだから」
「それ、自分で言っちゃうんですね?」
「だって金持ってるからな」
「くすっ。はい、有難うございます」
サムズアップする彼に、私も苦笑してサムズアップする。
今変に断れば、それこそ失礼だ。ここは彼の優しさに甘えてしまおう。
私は鞄以外をロッカーに仕舞い、手を振るマサさんの元へと小走りで向かった。
「そーいや昼飯食った?」
「っ……いえ」
お腹をさするマサさんを横目でチラチラと見ながら、鞄を握る手に力が入る。
「どっか入るか。フードコートあったっけ?」
地図を見る彼の背中に向かって、私は一度大きく息を吸い、一思いに口を開いた。
「あ、あの、マサさんっ」
「んぁ?どした?」
「わ、私、今日、お弁当作って来たので、その、食べていただけませんかっ?」
持っていた鞄を突き出す。早鐘を打つ心臓を抑えようと、私は地面を凝視した。
(言っちゃった言っちゃった!断られたらどうしようっ。多分死んじゃう!)
「おお、マジか!正直期待してたぞ風代!」
そんな私の不安を軽く吹き飛ばし、彼は満面の笑みでそう言った。
強ばった肩から、一気に力が抜けてしまう。
「っよ、良かったです。期待に応えられるかどうかは、分からないですけど」
「ハハハ、心配すんな。美味いに決まってんだから」
「うぅ、プレッシャーです」
再び強ばる肩。私はお弁当の中身を思い出しながら、粗相がないかを探るのだった。
――バルコニーに来た私達は、適当に空いてる席についた。
周りは何処もカップルだらけで、自分達もそういう目で見られていると思うと、緊張にマサさんの顔が見れなくなってしまう。
「よし、準備いいぜ」
手を拭いた彼が、期待の眼差しで私を見る。
「は、はい」
私は大きめの弁当箱を三つ取り出し、蓋を開けた。
「これはっ」
「はい餃子が好きだと言ってましたので、中華を中心に作ってみました」
綺麗に整列した料理達が、その主と共に彼の言葉を待つ。果たして結果は……、
「スッゲェ旨そう。これ全部一人で?」
私の口角が、安心と喜色に持ち上がる。心なしか、並べられた餃子も笑っているように見える。
「っ!はいっ。おばあちゃんが女の嗜みだ、って教えてくれました」
「ばあちゃん凄いな」
「はい、感謝です」
見た目はクリア。次いでどうぞ、と箸をを渡し、その行く末を見守る。
「そんじゃ、頂きます」
「はい」
口に運ばれた餃子が咀嚼され、嚥下される。
餃子は熱いからこそ美味しい。その事実は覆らない。冷めてしまった餃子に、果たして彼が何処まで喜んでくれるのか。
……彼の喉が動くと同時に、私の喉も唾を飲み込む。
瞬間、彼の彼の目が光った。
「美味い!美味い!美味い!」
「⁉︎ちょ、声大きっ」
マサさんの奇行に、周りからクスクスと声が聞こえる。慌てて止めるが、そんな恥ずかしさよりも、私は奥底から湧き出る歓喜に身を震わせていた。
「美味いぞ風代っ」
「くくっ、分かったので、落ち着いてください」
餃子を頬張り、エビチリに舌鼓を打ち、チャーハンを掻き込む彼。
好きな人に料理を褒められると、こんなにも嬉しいものなのか。
「……ふふっ」
自分でも分かる。今の私の顔は、相当緩んでしまっているだろう。
――食後の休憩も済み、私は空になったお弁当箱を、満足してカバンにしまっていく。
「ご馳走様。美味しかったよ」
「それは良かったです。またいつでも作ってあげますよ」
「お、んじゃまた頼もうかな?」
「ふふっ、胃袋を掴む日も近いですね」
笑う彼に私も微笑む。彼との食事で、ようやく緊張も解れてきた。
しかしデートはまだまだ始まったばかり。気を抜いてはいけない。
「すみません、ちょっとお手洗いに行ってきます」
「ああ。待ってるよ」
私はトイレに入り、鏡に映る自分を見る。化粧は崩れていないか?髪は整っているか?体臭は?身嗜みは?
歯を磨きながら諸々のチェックを済ませ、最後に香水を少量振りかける。
「よし」
気合を入れ直し、再び彼の元へと帰還した。
「うし、行くか」
「はい」
歩き出したマサさんが「そうだ」、とポケットからブレスケアを取り出し口に放り込む。
「食うか?」
「じゃあ頂きます。でも気をつけてくださいね?」
「え、何が?」
「今は食事の後ですけど、口臭ケア用品を渡されたら、傷つく女性もいますから」
「あー、確かに」
納得した彼がふむふむと頷く。
本当は他の女性と食事なんて行って欲しくないが、そんな事言ったら重い女だと思われてしまう。
「風代は大丈夫だぜ?ミントのいい匂いしてたから」
「有難うございます。でも口には出さない方が良いと思います」
「言わなきゃ伝わらんだろ」
「言わない優しさというものもあるんです」
「女心は難しいな」
「女心は難しいんです。臨機応変に対応してくださいね」
私は唸るマサさんに、ニカっと笑うのだった。
――ボーリングの球が一直線に進み、小気味いい音を立てて残りのピンを倒した。
「やった!」
「おぉー、やるな」
画面に映し出されたスペアの文字に、私はガッツポーズをする。
その隣でマサさんが、十六ポンドの球を引っ掴み、立ち上がった。
「だが甘い。俺がボーリングの何たるかを教えてやる」
「ふっふっふっ、なら見せて貰います。持ち方はそれでいいんですか?」
「ああ。……指入れたら、力入りすぎちまうからな」
綺麗なフォームで振り被られた球が、今、地面と平行に打ち出された。
そう、それは間違いなく、『投げる』ではなく、『打ち出す』であった。
そして瞬間響き渡る、破壊の音。『カン!』や『コン!』ではない。
『バガァン!』
という、凡そボーリング場では聞かない破音である。
後ろを向いたマサさんが、人差し指を天に掲げる。
「……ボーリングは、力だ」
静まり返った辺りの中、スクリーンに映し出されたストライクの文字だけが、煌々と彼を照らしていた。
それからは一進一退の攻防が続き、熾烈を極めた。
私も身体能力が向上しているお陰で、男性に負けない筋力を手に入れた。
しかし隣にいるのは、破壊砲を腕に搭載した人型兵器だ。彼の放つ球に掠ったピンは、倒れるのではなく吹っ飛ぶ。
想像出来るだろうか?撃たれたピンが、勢い余って跳ね回るその光景が。
彼は途中から左手で投げていたが、隣のレーンのストライクを取った時点でやめさせた。
そして今、余りの威力に危機感を感じた店員によって、注意が入っていた。
「どうか、次のゲームからはもう少し、力を抑えてください。お願いします」
「すいやせん、昂っちゃって。どうする?もう一ゲームやるか?」
「いえ、私は充分楽しめました。マサさんは?」
「俺もいいや。わざと弱く投げんのはつまらん。……力みなくして、解放のカタルシスはねぇのさ」
「……?」
という事で、私達は「「お騒がせしました」」と一声残し、その場を去るのだった。
――「これ面白そうだな」
「VRゲーム、ですかね?」
アトラクション施設を回っている途中に見つけた、没入型シューティングゲーム、ゼロ・レイテンシー・VR。
VRゴーグルと触覚フィードバックベストを着用し、架空世界でゾンビと戦うアトラクションである。
お姉さんに説明を受け、器具を装着していく。
「案外重いんですね、これ」
「銃撃つの久しぶりだ」
「それ、あまり大きい声で言わないでくださいね」
準備も完了し、仮想空間へ銃を構え突入していく。
「風代っ、背中を合わせるんだ!警戒を怠るなよ、噛みつかれたら終わりだぞ」
「ブフっ、はい」
……数秒の静寂。瞬間、瓦礫の影から奴等が姿を現した。
「っ来た!」
「こっちもですっ。うぅ気持ち悪いっ」
二人の生者に対して、腐り落ちた皮膚と落ち窪んだ目が憎悪を向ける。
私達は一心不乱に銃を乱射しまくる。その時、マサさんが焦ったように叫んだ。
「っコイツ等、気配がねぇ!」
「当たり前でしょ⁉︎」
「どうなってやがる⁉︎魔力も纏ってねぇのに、何だこの攻撃力は⁉︎血が、血が出てる!」
「ゲームだよ⁉︎」
いや違う。これこそが没入型の楽しみ方なのだ。真理に気付いた私は、叫び痛がり文字通り没入しているマサさんに、張って乗っかる事にした。
「倒しても倒しても、無限に湧いてきやがるっ。グァあッ⁉︎……クソっ、噛まれちまった」
「そ、そんなっ。まだ、まだ間に合うはず!すぐに処置を「風代」っ……やだ、」
「……お前だけでも逃げろ」
「やだっ、やだよ!一人にしないでよ!」
「逃げろ!っグゥ」
「っマサさん!」
私を庇った彼の腕に、ゾンビが噛み付く。
「……ふふっ、俺はここまでのようだ」
「っ今助けっ「風代ッ!」っ」
「いいか!お前がこの腐った世界を救うんだっ。お前の抗体だけが、コイツ等を根絶やしに出来るんだ!生きろ‼︎死んでいった仲間の為にっ、未来の為にッ、生きろ‼︎風代‼︎」
「――ッ。……分かった。生きるよ。生きて、私が、必ず世界を救ってみせるっ」
ゾンビに群がられカジカジされているマサさんが、清々しい笑みを浮かべた。
「……フッ。頼んだぞ」
「はい!今まで有難「我が生涯に一片の悔いなし!道連れだゾンビども‼︎」え?」
私が離れる前に、マサさんが手榴弾のピンを全部抜く。
「っちょま⁉︎――
あれ?私助けられる筈じゃ?
背中を向けて走り出す私の視界を、眩い閃光と爆炎が塗り潰した。
「……」
ヘッドセットを外し、地面に死んでいる彼にジト目を送る。
「……ちょっと、酷くないですか?」
「世界は救われたか?」
「滅びましたよ」
彼に手を貸し、起き上がらせる。
「楽しかったな」
「……はい。かなり」
私は後ろで腹を抱えているスタッフに顔を赤らめ、そそくさと出口に向かった。
それからも数々のアトラクション回り、お台場を遊び尽くした。
行く先々で何かと注目を集めてしまうので、一箇所にとどまれないという難点はあったが、それを含めて本当に楽しい時間だった。
時刻は既に二十時を回っている。今は夜ご飯を食べ終わり、帰宅の準備を始めている所だ。
密度の濃い時間だったからこそ、私の中で広がる、言いようの無い切なさ。
まだこの時間が続けばいいのに、ずっとこの時間が続けばいいのに。
「行くか?」
マサさんが立ち上がる。
「はい。……あの、食後の散歩に、ここら辺ブラブラしませんか?」
「ん?別にいいぜ」
ずっと、続けばいいのに。
やはり夜はまだ冷える。
少し潮の香りを乗せた風が、私の髪を撫でていく。
「……やっぱりこの力、何回見ても凄いです」
「便利なのは確かだな」
水面に現れる漆黒の道を、ブラブラと歩いていく。
消えかけのイルミネーションに照らされる中、疎らな喧騒が、私達の沈黙を肯定していた。
「あの、今日は楽しかったですね」
「ああ、めっちゃ楽しかったよ」
「ふふっ、良かったです」
「なははっ」
彼の口元をチラリ、と見る。
「……あの、またお誘いしても、宜しいですか?」
「んー?全然構わねぇけど、俺これから旅に出るから、当分会えないと思うぞ」
「……」
そうだ。
この人は、私の隣でこうやって笑っているこの人は、国から直接依頼が来るような、凄い人なんだ。
本来、私の隣に立っているのも不思議なくらいの、凄い人なんだ。
「旅、というのは?」
「日本中を回って、変わった世界を見てみたいのさ。
……あいつにも、色んな景色を見せてやりたいしな」
「っ」
何気ないその一言が、私の目を覚ましたような気がした。
無意識故の、心からの本音。
熱を持っていた私の心が、急速に締め付けられていくのが分かる。
「……いつ、出発するんですか?」
「詳しくは決まってないけど、一ヶ月後には出ると思うな」
「一ヶ月後。……じゃあ、来週の火曜は」
「ああすまん、その日は会議入ってるわ」
「そう、ですか」
下を向く私を、彼が笑う。
「てか、風代もそんな暇じゃないだろ。そろそろ高校始まるんだろ?」
「あ、はい。来週には」
「場所は?遠いのか?」
「転校先はここから近い高校に決まりました。特区にいた学生を、纏めて受け入れてくれて」
「んじゃ猫目も一緒か」
「はい」
「良かったじゃねぇの」
「はい。友達が出来なくても安心です」
……あれ?何だか、自分の笑顔がぎこちなく感じる。
「……あの、まささんには、特区はどういう風に見えていたんですか?」
「どういう?」
「私には、化物共がうろついていて、命がゴミみたいに消えていく、そんな地獄にしか見えないんです。もう戻りたくないですし、考えるのも嫌になるような場所です」
「ま、それが普通だろ」
彼は頷き、続ける。
「……でも俺には、それが宝箱の様に見えた」
「宝箱?」
「ああ。モンスターと戦うのは楽しいし、自分で道を作るワクワクは、何物にも変え難い。そしてその先にある景色は、本の中から飛び出して来たかのように、美しい」
「……」
今私の隣で楽しそうに語っている彼は、今日私と遊んで、食事をして、笑い合ったマサさんではなかった。
私の理解が及ばない場所を歩く、本当の『マサ』だ。
どれだけ寄り添おうと、どれだけ寄り添ってもらおうと、そこには決定的なまでに深い理解の溝がある。
人によっては絶対に越えられないそんな溝だが、いとも簡単に飛び越えてしまう者もいる。
「……マサさんにとって、ノエルさんは、どんな人なんでしょうか?」
「ノエル?」
「はい」
「んー、何だろう。やっぱ、相棒って表現が一番しっくりくるな」
「相棒、ですか」
「あ、でも恋愛感情はないぞ?そんなの事案だ事案」
「ふふっ。……」
ああ、やっぱりそうだ。
さっきまで近くにいた筈の彼が、今はとても遠くを歩いている感じがする。
……そしてやっぱり、その隣を歩いているのは、真っ白な彼女なのだ。
――「あ、涼音、おかえりー」
「……ただいま」
「勝手に漫画借りてるっすよー。……鈴音?」
机に突っ伏した私に向かって、猫目ちゃんがベッドから起きて駆け寄る。
「どうしたっすか?何かあったんすか?」
心配して優しく声を掛けてくれる彼女に、疲れた笑みを向ける。
「何もないよ。……ただ、思い知らされた、のかな」
言葉にして再び突き刺さる。
同じ時間を過ごしてしまったから、好きになってしまったから、より深く突き刺さる。
近づきたいと思っても、近づき方が分からない。
理解したいと思っても、理解の仕方が分からない。
それでも纏わりつく、『好き』という感情。
今まで我慢していた気持ちが、頬を伝い流れ落ちた。
一度それ等を許してしまえば、止め方なんて分からなくなってしまう。
「ふぅっ、うぐっ」
「……よしよし」
彼女の胸に抱かれ、嗚咽を漏らし、恥も外聞もなく泣いた。
やり場のない感情に、
この気持ちの理不尽さに、
どうすればいいか分からない自分への怒りに、
私は泣いた。
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