第770話 酒と大望

 明石はしばらく目をつぶり黙り込んだあと、頭の中で物事を整理した。


「単純に考えようや、どうせ胡州の首相は一人しか椅子が無い。そこに今烏丸頼盛言う人が座っとるが、それより実力のある西園寺基義言う人がそこに座りたいと思っとる。ならどうなる?」 


 明石は噛んで含めるように魚住に言った。そしてしばらく考えた後、魚住は明らかに沈痛な面持ちへとその表情を変えた。


「今は無理だな……と言うかどちらも動けないだろう。保科家春と言う御仁がいる。西園寺派でも醍醐さん陸軍の一派は前の大戦の休戦協定で助けられた恩がある。さらに問題なのは大河内家の被官連だ。大河内卿が療養中の今、事を起こしても足並みがそろわないことになりかねない」 


 別所の言葉にじっと耳を澄ます黒田。部屋の雰囲気が暗くなる。すでに明石達が政治に口を出せばろくなことにはならないと自覚していた。だが黙っていることができるほどおとなしくはなれないと思うと明石は禿げ頭を叩く。


「保科家春。面白そうな爺さんやのう。いつ喧嘩を始めるか分からん切れ者二人を黙らせる。大した御仁なんやな」 


 そう言って笑う明石を見て、不意に別所の顔がまじめになった。


「それなら会って見るか?」 


 突然の話に魚住が噴出す。しばらく咳き込み動けなくなる彼の背中を明石がさすった。


「なんでそうなる!枢密院議長だぞ!相手は。そんな急に……」 


「別に今すぐ会うなんて言ってないぞ。ただ、赤松の親父のコネを使えば会えないことも無いという話だ。まあじっくり部屋でも借りてとは行かないだろうがな」 


 そう言って別所は酒を口に含むようにして進めた。


「問題の本質を知っていそうな人間に会う。それええなあ。うん、実にええことや」 


 明石はひざを叩きながら頷く。その笑顔に触発されたように黒田も珍しくコップのそこに少しだけたらした酒を舐めた。そしてすぐに顔が赤くなる様は非常に滑稽で今度は明石が酒を噴出しそうになった。


「いつ頃会える?出来ればワシ等四人で会うのが一番なんやけど」 


「そう急くな。あの方もなかなかお忙しい方だ。明日で枢密院の通常会議は閉会だ。その後は陸軍関係の視察の予定が入っていたはずだから……その後は、どれも私的な勉強会か。保科さんらしいな」 


 胸のポケットから取り出した携帯端末をにらむ別所。


「おい、はじめからそれが狙いか?俺達を誘ってお偉いさんに意見する。まあ楽しみって言えば楽しみだけどな」 


 魚住の言葉を無視して端末のモニターをいじる別所。


「辞めとけ。昔からコイツはひねくれとった。いつだって勝負球はこちらの読みの裏をかいてくる」


 そう言う明石を情けない目で見つめる別所。だが、明石は自分の口に笑みが浮かんでいるのを自覚していた。


「そうだな、来週の金曜の午後は海軍省の視察だそうだ。そこで非公式な懇談会が催されると言う話だからそのときに良い席を取るように手配しとくか」 


 別所の手配の早さに舌を巻きながら見つめる明石。赤ら顔の黒田を見るとつい面白くなってそのグラスに酒を注いでしまった。


「それじゃあ、今日は飲むか!」 


 そう言って一升瓶に手を伸ばす別所を見て明石は立ち上がった。


「どうした?便所か?」 


 魚住の言葉に首を振る。


「つまみが欲しいなあ思うてな。ちと貴子さんに頼んでくるわ……!って」 


 部屋の戸を開けるとそこには少女が立っていた。手にした盆にはエイヒレと四つの酢の物の小鉢が入っている。それは赤松邸のマスコットである赤松直満だった。


「お嬢。気いきくやないか」 


「お母様が持っていけって」 


 赤松直満はにっこりと笑うと巨漢の明石に盆を渡した。


「有難うな!お嬢さん!」 


 魚住が叫ぶのを聞くと顔を赤らめて直満は廊下を走って消えていった。


「つまみもある。酒もある。じゃあ飲むしかないな」 


 そんな別所の言葉に三人は頷くとそれぞれ自分の小鉢と皿に手を伸ばした。

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