第769話 皇帝即位

 そんなある日のこと、非番で部屋で法律書と格闘していた明石の部屋のふすまを許しも得ずに開くものがいた。


「おい、聞いたか?」 


 それは魚住だった。明石はめんどくさいと言うように振り返り、浴衣の襟をそろえて難しそうな面をしている魚住を見上げる。小柄な魚住とはいえ、机の前の座布団に正座している明石よりははるかに高い。だが、そのまま魚住は明石の視線に目を合わせるようにして息を整えた。


「なんや、騒ぐだけ騒いでだんまりかいな」 


 明石の言葉を無視して呼吸を整える魚住。


「いいか、落ち着いて聞けよ」 


「それよりお前が落ち着かんかい」 


 明石の皮肉に口元を緩める魚住。


「遼州の……政務軍事同盟が発足した」 


 魚住の言葉に明石はただ意味が分からないと言う顔をして見せるしかなかった。


「魚の字。同盟?どことどこが同盟を結んだんや?遼州ってもいろいろ国があるやろ……それに状況がつかめんのやったらテレビを見たほうがましやん」 


 そう明石に言われて気がついたように頭を掻く魚住。


「まあ、順を追って話すぞ。まず先週、嵯峨の大公が遼南皇帝に即位しただろ?」 


「兄貴の西園寺公が烏丸首相に即位式に出るなって噛み付いてもめた件か」 


 明石はそこまで聞いて嫌な予感に包まれた。西園寺兄弟。兄西園寺基義と弟嵯峨惟基は犬猿の仲と思われていた。西園寺の家中が基義と一蓮托生と覚悟しているのに嵯峨家家中は筆頭の被官、地下家の佐賀高家は烏丸派でも有力な勢力を保ち、その弟で分家の醍醐文隆は西園寺基義の陸軍における橋頭堡のような立場だった。嵯峨家の領邦は胡州の人口の半分を占める大身である、その帰趨が大きな意味を持っていることは明石も十分承知していた。


「言い出したのは遼南皇帝嵯峨……今はムジャンタ・ラスコー陛下だな。そして内戦中に懇意だった遼北人民共和国も加入の宣言をした。さらに東和共和国まで発足宣言を出しる。そしてそのまま三首脳の連盟の声明で現在遼州星系の各国に参加を要請中だ。遼州の衛星の大麗民国と崑崙大陸西部の西モスレム首長国連邦は現在事務手続き中、ベルルカン大陸や南方諸島の小国もほとんどが加盟を公言しているぞ」 


 ようやく座布団を取って腰を落ち着けた魚住を明石はめんどくさそうに見つめた。


「なんや、みんな仲良くってことやんか?ええこっちゃ」 


 そう言って再び机に向かおうとする明石の肩を叩く魚住。


「馬鹿野郎!そんな単純な話じゃないぞ!烏丸内閣は加盟に向けての法制度の整備に動き出した」 


「だから良いことやん」 


「いいから、聞けよ。烏丸首相の狙いは地球から押し付けられた身分制度改革の白紙撤回だ。同盟に参加すれば地球から押し付けられた約束は反故にしてもかまわないと言う世論が形成される。そうなれば……」 


「俺達は失業だ。貴族の腰ぎんちゃくになりきれない兵士はお払い箱だろうな」 


 そう言って入ってきたのは別所だった。珍しく気を利かせたように一升瓶を抱えた黒田が続いてくる。


「なんでや?みんな仲良う遼州同盟。仲良きことは美しきかなって言うやん」 


 明石も本気でそうは思ってはいなかったがつい不機嫌にそうつぶやいていた。


「再び敗戦前の貴族の栄光を手に入れようって奴が旗を振っているとしてもか?無理だな。それまで下級貴族が担ってきた官僚制度はすでに平民に開かれている。軍もそうだ。もはや貴族の特権は年金と一部の名誉職の優先権くらいだ。どちらも国家の益になると言うより無駄な出費と言った方が的を得ている。烏丸政権の政策では同盟のお荷物になるのが目に見えているぜ……それ以前に門前払いで『やはり胡州は孤高の大国だ』とか変な自画自賛がネットで駆け回るんじゃないか?」 


 そう言いながら別所が腰を落ち着ける。着いてきた黒田が茶碗を配る。そして酒瓶を受け取った魚住がそれを注いで回る。


「その同盟のスローガンが問題やな……その嵯峨って男はどうなん?」 


 明石はそう言うと別所を見つめた。二年前まで行なわれていた遼南内戦中に別所は嵯峨の動向を探るために遼南に潜入した実績があることは話に聞いていた。


「わからん」 


 それだけ言うと別所は酒を煽った。明らかに理知的な医師の資格を持つ別所らしくないところを見つけて明石はこの冷静な男が焦りを隠せないでいることを見抜いた。


「しかし……嵯峨大佐は本来胡州の軍人だ。それなのになんでそれなら胡州を真っ先に誘わないのかね。烏丸派の貴族の復興が不可能で兄貴も信用が置けないなら同盟参加を呼びかけたら烏丸さんはほいほい付いてくるぞ。しかも西園寺卿は頭の切れる人だ。今、胡州に楔を打てば遼南の同盟内部での政治的地位は高まるだろうしな……まあ胡州は加盟の条件で揉めて自滅することは必至だが」 


 魚住の言葉に黒田も頷いた。権力基盤が脆弱な遼南朝廷にとって外交での成果は政権の、いや国家の存亡にかかわる重大事件のはずである。胡州に同盟参加を持ちかけたとすれば西園寺派が議会を動かして時期尚早で拒否するにしても、烏丸派が治安部隊でも動かして議会を先に制圧して加盟を強行したにしても、遼南は不安定な胡州を批判しながら一気に遼州同盟内部での主導権を握ることができる可能性も残されているはずだった。外交の勝利が脆弱な支持基盤を強化することになる。そんな政治的常識は四人とも十分に理解していた。

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