第674話 決め時
誠はマウンドに立ち岡部を見下ろした。サインの交換だが、今度は一回でサインが決まった。アイシャはまた悠然とバッターボックスに構えていた。
誠はゆったりとしたモーションで投球動作を開始する。また自然とそのスリークォーター気味の左腕が唸り球が放たれる。今度はアイシャも打つ気で構えているのがシャムにも分かった。
バットの打撃音。打球はそのままアンパイアの明石のマスクを直撃した。
「あ?」
思わず振り返ったアイシャの声が響く。しばらく中古のマスクと言うことで衝撃に弱いところがあるようで、明石はマスクを外して顔を抑える。
「大丈夫や!大丈夫」
自分に言い聞かせているのか、叫ぶ明石が何とか顔を上げた。サングラスを外しているので小さな目が驚きでさらに小さくなったように見えた。かなめがそのタイミングで予備のボールを誠に投げる。誠はそれを受け取るが、しばらく心配そうに明石を見つめていた。
「気にせんでええで!ええから続けんかい」
何とか立ち直った明石。誠はホッとしたようにボールを握り締めると岡部とのサインの交換を始めた。アイシャは別に変わった様子も無くただ眺めている。悠然としたその態度。シャムは今度こそ誠は打たれるような気がしてきていた。
何度か岡部のサインに首を振る誠。なかなか決まらない。
『誠ちゃん……動揺してる』
そんなシャムの思いが通じたのか、ようやくサインが決まると誠はセットした。
静かなモーションが始まる。じりじりと力をためていく誠の左腕。そして先ほどと同じような軌道で腕は動き、しなり、球が放たれる。
アイシャのスイング。バットの打撃音。
ボールはまた跳ね上がるとそのままハンガーの方へ向かう飛球となった。
「打ちそこなったー!」
悔しそうにアイシャが叫ぶ。岡部は球が高いと言うことを言いたいと言うように腕を振って誠に示す。
シャムが見てみるとハンガーの手前にはすでに着替えを済ませたランがボールを拾うとそれを持って真剣な目つきのかなめに向かって歩いてくる姿が見えた。
「タイミングは合ってるわよね」
「完全に打ちそこないでしょ」
シャムの言葉にサラが答える。それを聞いているだろう誠。再びかなめからボールを受け取るとしばらくじっとボールを見つめていた。
『今度はどうかな』
背中が小さく見え始めた誠を見ながらシャムはじっとグラブを抱えて睨みつけていた。
誠は再びサインの交換を始める。今度は一発でうなづく誠。
また投球動作が始まる。
『危ないな』
直感がシャムを駆け抜ける。アイシャは心持ちシャムとヤコブの守る一二塁間を見たような気がしていた。
ボールが放たれるがアイシャはバットを振らなかった。ワンバウンドのボールを岡部が体で止める。
『カーブが引っかかったのかな』
「何やっとんねん」
カウントするのも忘れたと言うように明石が叫ぶ。誠は苦笑いを浮かべながら岡部からボールを受け取った。
「早くしろよ!」
ベンチに腰掛けた小さく見えるランが叫んでいる。そんな上司にいかにも済まないと言うように誠はマウンドの上で頭を下げていた。
『ランちゃんなんで余計なことを言うかな……』
シャムは苦笑いを浮かべながらまた投球に集中しようとしている誠の顔を見つめていた。
誠の動揺。だがすぐにそれは収まったようでそのまま相変わらずの静かな物腰で岡部のサインを覗き込んでいた。再びセットしてゆったりとしたフォームで投球がなされる。
アイシャのバットは打球を捕えた。ボールはシャムに向けて飛び込んでくる。シャムは定位置のままそれをキャッチした。そしてそのままヤコブに向けてランニングスローを決める。アイシャは一塁までの途中であきらめたように立ち止まると首をひねりつつ投げたバットのところまで走る。
「はい!以上や!」
明石の言葉で部員達はそのままホームベース上に集まった。なんとも不思議そうにバットを何度も降るアイシャ。
「真芯じゃなかったからなあ……」
不本意そうにつぶやくとアイシャはヘルメットを脱いだ。
「おう、神前。どうだ?」
かなめの言葉に何ともつかない笑みを浮かべて誠はシャムからボールを受け取った。
「とりあえずこのくらいにするか。それぞれ着替えて帰るぞ」
かなめの一言でシャム達はそれぞれ手にしたグラブをベンチの横の用具入れへと持って走る。相変わらず射撃レンジの方では射撃訓練の銃声が続いている。
「どうしたのかな……誠ちゃん」
「私に聞かないでよ」
シャムの問いにこれも不思議そうな顔をしているサラが答えた。それぞれ自分用のグラブを入れる袋にグラブを入れると新人の警備部員がそれをまとめて片付ける準備をしていた。
「シャム!サラ!さっさと着替えろ!飲みに行くぞ」
上機嫌で叫んでいるラン。どうにも小学生にしか見えないランがそんなことを口にすると不謹慎に見えてきてシャムは笑っていた。
「シャムちゃん。笑える身分じゃ無いんじゃないの?」
バットを片付け終わってすっきりしたというような表情のアイシャがつぶやく。シャムはその言葉には少し腹が立ったがそれ以上に疑問が頭の中を駆け巡っていた。
「アイシャちゃん。どうだった?」
「どうって?」
アイシャはヘルメットと帽子で跡が残っている紺色の髪を何度か手櫛で梳いた後に答える。
「誠ちゃんのことに決まってるじゃない!」
いらだって叫ぶシャムをアイシャは子供をみるような視線で見つめる。
「そうね……気楽に投げてるんじゃないのかな?そうだ、どうせ明石中佐も来るだろうからあまさき屋で聞けばいいじゃないの」
アイシャの言葉に合点がいったシャムはそのまま正門目指してグラウンドを走って飛び出した。
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