第661話 8キロ走

 廊下に出ると隊長室から出てきたカウラにばったり出くわした。


「ああ、シャムか」 


「何か隊長に言われたの?カウラちゃん」 


 シャムの言葉にお茶を濁すような笑みを浮かべるとそのままカウラは詰め所に消えていった。それを見守るとシャムはそのまま廊下を足早に進む。突き当りの男子更衣室に飛び込むアン。ざわざわと談笑する声が響く。シャムはそれを見ながら医務室を通り抜け正門に下る階段を降りていった。


 いつものことながらにぎやかそうな声が踊り場に響いていた。


「ああ、シャムちゃんじゃないの!」 


 廊下で部下と馬鹿話をしていたと言う感じの長い紺色の髪の長身の女性。アイシャ・クラウゼ少佐は今回の運行部部長鈴木リアナ中佐の産休中は運行艦『高雄』の艦長代理していた人物だった。


「さっきカウラちゃんが隊長に呼ばれていたけど……」 


「ああ、それね。私も呼ばれたわよ」 


 アイシャはあっさりと答えた。それを見て運行部の女性隊員達はそのまま二人を置いて自分達の部屋へと戻っていった。


「何かあるの?」 


 シャムはおずおずとたずねる。その頭を撫でながらアイシャは相変わらず何を考えているのか良く分からない笑顔を浮かべていた。


「別に何も無いわよ。まあ……お姉さんはパイロットも兼ねるからその辺のことでアン君とか誠ちゃんが使えるのかどうか聞かれていたみたいだけど」 


「それでどう答えたの?」 


 先ほどもアンの指導をしていただけにカウラの二人の評価がシャムには気になった。シャムはとりあえず任務の遂行には支障は無い程度には二人は育っていると思っていた。


 確かに先ほどのシミュレーションのようなきわめて困難なミッションとなれば、相当なフォローが必要なのは事実だった。だが運行艦での出動となれば最低でもカウラとかなめの第二小隊の面々がフォローに入ることは出来る。そうシャムは思っていた。


「まあ小隊長はカウラちゃんだからね。結構厳しいこと言ってたわよ」 


「やっぱり……でもしょうがないわよね」 


「まあバックアップが増えるって考えもまた……そのあたりをあの子もそこを考えられるようになれば一人前の部隊長なんだけどね」 


 いかにもえらそうにアイシャはそう言うとそのまま運行部の部屋の扉を開く。


「シャムちゃん。ランニングでしょ?」 


 部屋に消えるアイシャに指摘されてシャムはまた自分の目的を思い出してそのまま廊下に沿って女子更衣室目指して急ぎ足で歩き続けた。


「遅せーぞ!」 


 扉を開くとすでにジャージを着込んでいるランの姿が目に入った。シャムは頭を下げながら自分のロッカーに手をかけた。


「そう言えば……ランちゃん」 


 昨日ランニングに出たときに今日は持って帰ろうと思っていたことを思い出しながらシャムはつぶやいた。


「何だ?リアナの戻ることか?」 


 部屋の奥の出っ張りに背中をつけたまま真正面を見つめているランが答える。シャムはあっさりと自分の質問の内容を言い当てられてどうしたら言いか分からないまま上着のボタンを外した。


「まあ……あれだ。任務をこなすと言う面から言えば結構穴は埋まると思うぞ。アイシャもああ見えて抜けてるところがあるからな。一時的とはいえ今回のリアナが戻るのはいいことになるかもしれねーからな。うちだってそうだ。今度出動となれば最低でもアンの野郎を待機任務にまわせるからな」  


 シャムはどこかうれしそうな色を帯びているランの言葉を聴きながら脱いだ上着をハンガーにかける。


「だよね。第三小隊の成長がうちの成功の鍵だから」  


「分かってるじゃねーか。それならアンの教育。しっかりしてくれよ」  


「了解!」  


 シャムは元気にそう言うと今度はネクタイに手を伸ばす。


「済みません!遅れました」 


 慌てて入ってきたカウラがすぐに自分のロッカーを乱暴に開けた。そしてその後ろにはいつも自転車でついてくる係りなので着替えないかなめが、だるそうにドアを閉めて近くのパイプ椅子に腰掛ける。


「足腰はすべての基本だからな……がんばれよ」 


「かなめちゃん、他人事だと思って……」 


 外したネクタイを掛けながらつぶやくシャムをにんまりと笑いながらかなめが見つめてくる。


「まあ他人事だから。姐御!誰が一番か賭けます?」 


「馬鹿言ってんじゃねーよ。オメーも今日は着替えろ」 


 ランの言葉にかなめは明らかに嫌そうな顔をする。だがランの言葉に逆らうことがあまり得策ではないことくらいかなめも十分知っていた。そのまま自分のロッカーを乱暴に開くとするするとネクタイを外す。


「寒いからね。走るとあったかくなるよ」 


「気休めありがとう」 


 シャムの言葉を聴きながらかなめはめんどくさそうに上着を脱いでロッカーの中に吊るした。


「さてと……ぐだぐだやってても仕方ねーか」 


 そう言うとランはそのままシャム達の間を抜けて扉にたどり着く。そして振り返り周りを見渡した。


「出来るだけ早く来いよ。さもねーと野球部の練習時間潰すからな」 


 ランの言葉にびくりと反応したのは野球サークルの監督でもあるかなめだった。無言でそれまでのゆっくりした動作を加速させる。その様子にニヤリと笑ってランは部屋を出て行った。


「おい、カウラ!早くしろよ」 


「それならシャムにも言えばいいだろ?」 

 

ぶつぶつつぶやく二人を見てほほえましいと思ってシャムはアンダーシャツに袖を通した。


「早くしろ、早くしろ」 


「うるさいんだよ」 


 あいかわらずの二人。シャムは黙ってジャージのズボンを履く。


「ああ、あとはズボンと……」 


「だからうるさいんだよ」 


 カウラのぼやきを聞きつつシャムはジャージの袖を通す。そしてジッパーを閉めて何度か腕を回す。


「じゃあ行くわね」 


「待てよ……シャム」 


「かなめちゃん。早くしなよ 」 


 シャムはそう言い残して半分履きかけのスニーカーを引きずって更衣室を出た。廊下では相変わらず運行部の女性隊員がなにやら雑談を続けている。それを見ながら玄関の階段まで来るとシャムは履きかけのスニーカーの靴紐を締めなおし始めた。


「ナンバルゲニア中尉、ランニングですか?」


 そう言って話しかけていたのは玄関に並べられた鉢植えのシクラメンに水をやっていた医務官のドムだった。健康優良児だらけの司法局実働部隊では任務でも無い限りは彼の出番と言えば健康診断くらいのものだった。かと言って司法執行機関と言う性格上、いつけが人が出てもおかしくない職場ではある。だから大概は彼はこうして植物を育てて時間を潰している。


「うん。今日も8キロ」 


「出来ればヨハンをつれてってやってくださいよ……アイツはぜんぜん運動する気もやせる気も無いみたいで……」 


 やはり彼も医者である。肥満体型のヨハンが下士官寮で食事管理を受けているのも彼の発案だとシャムは聞いていた。


「でも急に走ったら体に悪いよ。アタシ達、結構飛ばすから」 


「なら仕方ないね……アイツには別メニューを組んでおきますか」 

 

そう言うと納得したようにドムは如雨露を置いて玄関へと消えた。シャムは結び終えた靴紐の感触を確かめながらそのままグラウンドへと続く道を歩き始めた。


「さてと……」 


 シャムが立ち上がると玄関からかなめとカウラが飛び出してくる。


「シャム!早くしろよ!」 


 かなめが怒鳴りつける。シャムは渋々その後を軽いランニングでグラウンドへと向かった。

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