第651話 遅い食事

 シャムが事務所に向かう階段に手をかけて上を見上げるとエメラルドグリーンの髪が揺れていた。


「カウラ……」 


「お前がいつまで経っても来ないから中佐が心配していたぞ」 


 そのまま呆然とカウラを見上げているシャムのところまで降りてきたカウラはそのままシャムのベルトに手を伸ばす。


「キムの所に返すんじゃないのか?」


「そうだね」 


 シャムはそう言うと慌ててガンベルトをはずした。カウラはそのベルトとシャムの手の中のリロード弾を受け取る。


「じゃあ、これは私が返しておくからな。お前はちゃんと食事を取れ」


 そう言うといつものぶっきらぼうな表情を残して技術部の部屋が並ぶ廊下へとカウラは消えていった。


「あ!ご飯!」 


 シャムはようやく思い出したように一気に階段を駆け上がる。透明の管理部の事務所では女子職員の話を聞きながら高梨が快活に笑っている様が見える。笑顔でそれを横目にそのまま実働部隊事務所へとシャムは飛び込んだ。


「天津丼!」 


「ああ、残ってるぞ」 


 かなめがシャムのテーブルの袖机に置かれた岡持ちを指差す。シャムはすばやくそこから天津丼を取り出して自分の机に置いた。


「慌ててこぼすんじゃねーぞ」 


 モニターに隠れて見えないランの言葉に苦笑いを浮かべながらシャムはラップをはがす。少しばかり冷えてしまったその表面にシャムはがっかりしたような顔をした。


「冷えるまで帰ってこないほうが悪いよな」 


 手にした固形携帯食を口に運びながら吉田は天井を見上げている。そんな彼に舌を出すとそのままシャムは割り箸を手に取り天津丼に突き立てた。


「そう言えば吉田少佐、来月の節分の時に上映する自主映画の編集ですが……」 


 誠は暇そうに缶コーヒーを啜りながら天井を見上げたまま微動だにしない吉田に声をかける。声をかけられてもしばらく吉田は口に咥えた固形食を上下させながら聞いているのかどうかわからない様子でじっとしていた。


「あの……」 


「しばらく待てよ。その筋の知り合いにいろいろ助言してもらっているところだよ」 


 固形食を一気に飲み込んで前を向いた吉田の言葉に感心したように誠はうなづいた。シャムはそれを横目に見ながらいつもよりおとなしく天津丼を口に運んでいた。


 突然部屋の扉が開いて入ってきたのは第四小隊の面々だった。


「それにしても……お前等、出前ばかりじゃ飽きないか?」 


「マルケス中尉。ハンバーガーでも同じじゃないですか?」 


「なんだよ、アン。生意気な口を利きやがって」 


 口の端に着いたケチャップをぬぐいながら小柄で陽気なラテン系のフェデロ・マルケス中尉は突っ込みを入れた食後のガムを噛んでいるアンに苦笑いを浮かべながら答える。


「今日はオメー等も8キロ走には参加だかんなー」 


『ゲ……』 


 ランの一言にフェデロとその後ろで髪を櫛でとかしていたジョージ岡部中尉が苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。


「俺達もいつまでもお客さんというわけには行かないだろ?まあ当然だろ。アメリカ海軍が最強だということを知らしめてやろうじゃないか」 


 鷹揚に笑うロナルドが立ったまま哀願するような視線を黙ってどんぶり飯を掻き込むランに向けている二人の肩を叩いた。二人は落ち込んだように自分達の机に向かう。


「そう言えば今日は第三小隊のお二人さんがいないからな……先頭は誰かな」 


 フォローを入れたつもりの吉田の言葉だが、生体部品の塊で走るとただ体組織を壊すだけということでランニングに参加しない吉田に言われたところで二人の落ち込んだ気持ちはどうなるものでもなかった。


「でも岡部ちゃんは早いじゃん」 


「ナンバルゲニア中尉が本気を出したときほどではないですよ」 


 座りながらシャムに向けるジョージの目に光があった。


 空間制御系法術。シャムもジョージもどちらも得意な法術である。自分の周りの空間の時間軸を周りの時間軸より早く設定することで光速に近い速度を獲得できる能力。これは何度かの法術発動訓練でシャムがジョージに指導している課題の一つだった。


「言っとくけどそんでも8キロは8キロだからな」


 ランに当たり前のことを言われて今度はシャムまで落ち込んだ。


「良いじゃないですか。この仕事は体が資本ですから」


「神前。ならオメーは倍の16キロ走るか?」 


「クバルカ中佐……」 


 薮蛇の言葉に思わず誠は苦笑いを浮かべながら振り向いた。


「おう、神前。アタシの皿、かたしといてくれ」 


 ランはそう言うと一人黙ってタンメンを啜っているかなめに目を向けた。それが合図だったかのように全員の視線がかなめに向く。


「ただ今戻りました」 


 そのタイミングでカウラが帰ってきた。その視線の先には黙って麺を啜るかなめの姿がある。


「西園寺さん……おいしいですか?」 


 重くなった空気に耐えられなくなった誠の声にかなめは静かに目だけ反応する。しかし何も言わずに再びその目は汁ばかりになったどんぶりの澄んだ中身に注がれる。


「神前、昼過ぎに少しばかりシミュレータの結果について話があるんだが……」 


 カウラの言葉がかなめを意識したものではないことはシャムにも分かった。だが明らかにいらだっているようなかなめは手にしていた割り箸を片手でへし折る。


「ああ、カウラさん。その件なら岡部中尉のデータと比較するとよく分かりますよ」 


「へ?……ああ、俺とナンバルゲニア中尉、それとクバルカ中佐のデータ。冷蔵庫で閲覧できるはずだよな……そうだ、8キロ走までの間、第二小隊と俺とで冷蔵庫でちょっと打ち合わせするか?」 


 ランが『第二小隊』と強めに発音したのは明らかにカウラの存在を意識しているかなめに気を利かせての発言だとシャムですらよく分かった。シャムはそのまま視線をかなめに向ける。かなめは黙って深呼吸をしている。その耳が隠れるあたりで切りそろえられた黒髪が静かに揺れていた。


「おう、吉田。コンピュータルームの方の予約はどーなんだ?」 


「あ、空いてますよ」 


「じゃー第二小隊と岡部は昼が終わったらコンピュータルームだ。それとスミスとマルケス」 


 ランの言葉に驚いて振り向くフェデロ。それをニヤニヤ笑いながらロナルドが眺めている。


「テメー等はアタシとシミュレーションルームだ。アタシも今週はシミュレーション実習をしてねーからな。失望させるなよ」 


「了解であります!」 


 フェデロが派手に敬礼する。それを見てアンが噴出しそうになるがフェデロのひげをいじりながらの一にらみに静かに視線を落とすしかなかった。


「吉田。シャムとアンの二人連れてハンガーに行け。いつも通りの『05式』でのシミュレーションだ。ちゃんと仕事しろよ」 


「へいへい」 


 子供のようなランに言いつけられていかにもやる気がなさそうに吉田はこたえると再び固形糧食を口に運んだ。


 誠が岡持ちにランの食べた酢豚定食の皿を並べている。どさくさまぎれてそんな彼にかなめが皿を差し出す。自然と受け取る誠。そんな彼をカウラが鋭い視線でにらみつけている。


「シャム、例の伝票。菰田の野郎に送り付けといたからな」 


 その様子を小脇に見ながら吉田がぼそりとつぶやく。


「ひどいよ俊平。だったらさっさとやってくれればいいのに」


「馬鹿。そんなことしたらお前さんはいつでも俺に頼るだろ……じゃあ行くか」 


 そう言うと吉田は立ち上がる。アンもそれに釣られるようにして立ち上がった。


「もう行くの?」 


「なに、俺はセッティングをしておいてやろうとおもってさ。島田の奴もいろいろ忙しいだろ?」 


「そうだね」 


 珍しく気を使う吉田に合わせるようにシャムも椅子から飛び降りた。

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