第268話 出勤

「お待たせしました」


 そう言って駆け寄る誠を見上げたのは寮の入り口の隅の喫煙所でタバコをくゆらせているかなめだった。


「あの、アイシャさんとカウラさんは?」 


「気になるの?」 


 そう言って突然誠の後ろからアイシャが声をかけてくる。振り返るといつもと変わらぬ濃い紫色のスーツを着込んだアイシャと皮ジャンを着ているカウラがいた。


「それじゃあ行くぞ」 


 かなめのツルの一言で誠達は寮を出る。空は青く晴れ渡る晩秋の東都。都心と比べて豊川の空は澄み渡っていた。


「こう言う空を見ると柿が食べたくなるな」 


 そう言いながらかなめは路地にでて周りを見渡す。カウラはそんなかなめの言葉を無視して歩いていく。緊張が走る中、ドアの鍵が開かれるといつも通りかなめは真っ先に助手席を持ち上げて後部座席に乗り込む。そんなかなめと渋々その隣に乗り込む誠を見た後、アイシャはそのまま助手席に乗り込んだ。


 エタノールエンジンがうなりをあげる。


「確かに遼州は燃料が安いけどもう少し環境に配慮したエネルギー政策を取ってもらいたいわね」 


 アイシャは手鏡で自分の前髪を見つめながらそうつぶやいた。動き出したカウラの車はいつものように住宅街を抜けた。いつもの光景。そして住宅街が突然開けていつも通りの片側三車線の産業道路にたどり着く。昨日の醜態を思い出して誠は沈黙を守る。三人の女性の上官は察しているのか珍し

く静かにしている。順調に走る車は渋滞につかまることも無く菱川重工業豊川工場の通用門をくぐる。


「生協でも寄っていくか?」 


 カウラが気を利かせてアイシャにそう言うが、アイシャは微笑んで首を振る。そのまま車を走らせて司法局実働部隊の通用門。マリアの部下の警備兵達はあくびをしながらゲートを開けた。


「おい、叔父貴、来てるじゃねえか。今朝の便で胡州入りする予定じゃなかったか?なにかあったのかね」 


 駐車場に止められた白い軽乗用車。スバル360。嵯峨の愛車である。


「本当ね、忘れ物でもあったのかしら」 


 そう言いながら一発で後進停車を決めたカウラよりも先にアイシャは助手席から降りる。


「それにしても……」 


 誠とかなめの視線は駐車場の奥の茶色い塊に釘付けになった。次々と出勤してくる隊員達も同じ心持なのだろう、次第に人垣ができ始める。


 熊がいる。昨日のグレゴリウス16世である。こちらは理解できる。しかし、その隣に同じ色の小さな塊に全員の意識が集中した。


 熊の着ぐるみを着たシャムが目の前にかご一杯の柿を置いてその一つを頬張っている。シャムに付き合うようにしてグレゴリウス16世も柿を食べる。


「見なかったことにするぞ」 


 熊コンビに意識を持っていかれた誠とかなめの襟首をカウラが引っ張る。逆にアイシャはそのままシャム達めがけて歩いていく。三人はどうせ騒動を起こすだろうアイシャに付き合うのはやめていつも通りグランドを渡ってハンガーに向かうルートを取ることにした。


 グラウンドには一人ランニングをするマリア・シュバーキナ少佐の姿があった。手で軽く挨拶をすると三人はそのままハンガーに足を踏み入れた。


「おはようございます!」 


 声をかけてきたのは西だった。隣ではレベッカがメガネを光らせながら、シャムの05式の上腕部の関節をばらしていた。


「早いな、いつも」 


 カウラはそう言うとそのまま奥の階段に向かおうとするが、そこに着流し姿の嵯峨を見つけて敬礼した。


「なにしてるんですか?隊長」 


 カウラの声で振り返った嵯峨は柿を食べていた。


「いいだろ、二日酔いにはこれが一番なんだぜ。まあ俺は昨日は誰かのおかげでそれほど飲めなかったけど……」 


 そう言って嵯峨は階段の一段目を眺める。そこで下を向いて座り込んでいたのはランだった。


「あのー、クバルカ中佐。大丈夫ですか?」 


 そう言う誠を疲れ果ててクマのできた目でランが見上げる。


「気持ちわりー。なんだってあんなに……」 


 そう言ってランは口を押さえる。


「こりゃ駄目だな。おい、ラン。俺の背中に乗れよ。話があるからな」 


 そう言って嵯峨は背中を見せる。仕方が無いと言うように大きな嵯峨の背中に背負われたランの姿はまるで嵯峨の子供のようにも見えた。


「おい、ベルガー。ちょっと吉田の馬鹿連れて来い。どうせシャムと遊んでるんだろ?」 


「ああ、そう言えば駐車場にシャムとグレゴリウス16世がいましたから」 


 そう言って敬礼をするとカウラは駆け出す。


「そう言えば昨日の報告書。出し直しだと」 


 嵯峨は無情に誠にそう言うとそのまま階段を上り始める。


「そんな……」 


「書式が違うじゃねーか。……アタシは……、はあ。東和軍の書式じゃなくてここの書式で書けって言ったはずだぞ」 


 虫の息でもランはきっちり仕事の話に乗ってくる。誠はランを軽々と背負って歩く嵯峨について階段を登った。管理部の部屋でいつものように殺意を含んだ視線を投げかけてくる菰田を無視して誠はそのまま嵯峨と別れてとりあえずロッカールームへ向かった。

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