葉桜の君に【企画参加作品】
あかいかわ
1
春川桜子は天満坂学園高等部第三兵器学校の入学試験で史上初めて全問正解を成し遂げた天才児だと噂されたが、すこし違う。四年前に僕も満点を獲得しているからだ。
とはいえそれは、すでに推薦入学が決まっていた僕が戯れに受けた試験の結果だから、非公式なものではあるのだけれど。
担当する生徒たちを眼の前にして、まず最初にやらなければならないこと。舐められないこと。ほとんど年も違わない担任教師の姿を見て、とびきり優秀ではあるが多感な時期でもある少年少女たちが、どのような感情を宿すか、わからないではない。だから僕は最初にこう投げかける。
誰でも好きな問題を先生に聞いてくれ。五分以内に必ず答えるから。
にわかにざわめく教室。だいたいこういうときに上がるのは、複雑なテクニックを駆使しなければ解けない複素積分や、留数定理の証明方法など。僕はほとんど逡巡することもなくひと息に黒板へ求められる数式を導く。その正確さよりも素早さに、生徒たちは驚きの声を漏らす。これでだいたい、僕の実力を疑うものはいなくなる。
でもそのあとにもうひとり、手を上げるものがいた。それが春川桜子だった。
数式で表現できないものって、この世界にあるんでしょうか?
僕はその瞬間、似ている、と強く印象付けられた。彼女に対して抱いていた淡い既視感の正体が、そのときはっきりつかめた。どこか挑むような彼女の瞳は、シキナの目によく似ている。
かつて恋人だった女性の目に。
それは問題というよりは質問だな、明確な答えが用意されているわけじゃない。ざわつく胸をなんとかおさえ、平静を装って僕は彼女の問いかけに答える。でも、僕の考えを述べるとするなら、答えはノーだ。数式はこの世界のなんでも表現できる。たしかにゲーデルの不完全性定理は数理体系のある種の限界を示唆するかもしれない。でもそれは、固定された公理に基づく限界であって、表現できるものの限界ではない。よって数式は、なんでも表現できると考える。以上だ。なにか疑問点は?
僕は春川桜子の目をじっと見つめる。
彼女も僕の目をじっと見つめる。
いえ、ありがとうございました、とつぶやいて、君は視線を落とす。
すこしのあいだ、このやり取りが校内でちょっとした話題になった。誰かがうわさをするたび、僕は内心ひどく落ち着かない気分になった。僕の心を気取られたのではないかと心配になったから。あいつは生徒にひとめぼれしたらしいぞ。そんな陰口を誰かが叩いているのではと、僕は気になって仕方がなかった。
実際は逆に、こんなうわさが流れていたそうだ。秋田葉太教諭と春川桜子はあの日以来不倶戴天の敵になったのだと。まったくそんなことはなかったけれど、そんなつもりもなかったけれど、たしかになにか話しかけづらい空気があって、むしろ僕にはそれがありがたかった。距離をとっていられるなら、それに越したことはない。
でもある日、サクラの散る公園で、それは儚く破られることとなる。
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