第10話 紫陽花のつぼみ
今日は朝からよく晴れている。日差しがあるところでは暑く感じるほどだ。その分、遊歩道の緑が目に優しい。先週来た時には目に止まらなかった紫陽花のつぼみが、今日はあちこちで大きくふくらんでいるのが見える。
直売所に入ると、気持ちのいい風が通った。作業場の中にも風が吹き抜けている。中でおかあさんがテーブルに向かって座っていた。
今日はこの前、電話で会う約束をした日だった。
「あ、」
目が合って最初に出たのが、こんなマヌケな声だった。慌てて
「この度は、」
と頭を下げる。
ああ、ダメだ。こんなの全然、合ってない。そぐわない。だから続けて
「びっくりした」
そう言ったら、
「私もよ」
本当に、驚いている、そういう顔だった。
それ以上の話は後にして、まずはお参りさせて頂く。
例のパソコンもどき飾り台の上に、写真立てと香炉、線香一式、小さな花束がきれいに並べられていた。前に立って、手を合わせて写真を見た。
えっ!
何? この、笑顔!?
「おじさんの、この、顔!」
思ったのとほぼそのまんまを、口にしてしまった。
その写真が、あまりに完璧だったからだ。
これ以上はないくらい穏やかな笑顔を浮かべたおじさんの視線は、まっすぐ静かにこちらに向かっていた。目元は柔らかく弧を描いているにもかかわらず、こちらを見つめる瞳ははっきりと見て取れる。欠けた歯が見えない程度の微笑みは、いつものあのいたずらっ子みたいな印象をささやかに残しつつもとても上品で、どこをどう探しても”テキヤの親父”なんて印象はみじんも浮かんではこなかった。
ポートレート専門のプロだって、これだけの写真はそうそう撮れないだろう。
それくらい見事な遺影だった。
「写真、準備してたんですか?」
おじさんは昨年に手術しているから、その時にでも万一に備えたのかと思って尋ねた。
「違う、違う。そんなの用意してないって」
「じゃ、これは?」
「この写真はね、長男のところに遊びに行った時の写真。孫と遊んでた時のだかなんだかよく分からないんだけど、息子が色々と探してくれて、選んだの」
あのひと、孫と一緒だとこんな顔もしてたのよ。そう言って、おかあさんの目が細くなった。
「おじさん、いつも笑ってばかりでしたけど、たしかにこういう顔は見なかったです」
「そう?笑ってばかりだった?」
声はいつもと変わらないのに、おかあさんの顔が寂しそうに見えた。
「ほんとは結構、気が短くてね」
うちの親が生きてる時は、婿養子だから余計、頑張らなきゃと思ってたんだと思う、私には口出しさせなかったし、うっかり何か言おうものならそりゃ嫌な顔見せたものよ。だから、親を見送ったあと、少しずつ仕事を減らして温泉行ったり孫の顔見に行ったりもっとゆっくり暮らしていこうよ、ってずっと言ってたの。うん、そうだね、ってあのひとも言ってたのに。
問わず語りでおかあさんの口から出た「婿養子」という言葉に驚いて、
「おじさん、婿養子だったんですか!?」
オウム返しに問い返してしまった。
「そうなの。よく頑張ってくれたのよ」
驚くと同時に、ひどく納得もできた。カッコいいおかあさんが「農家のヨメ」というのがずっと腑に落ちなかったのが、「農家の跡取り娘」ならすっきりと納まったからだ。
実際、農家スタイルではない私服姿は今日が初めてだったが、思っていた通りオシャレでカッコいい。ベリーショートに大ぶりのイヤリングが見事にはまっていて、髪型と服に合わせたこんなアクセサリー使いが嫌味なくできる70代は、そうざらにはいるまい。
でも、おじさんも、婿養子、と言う言葉の響きほど、居心地が悪そうにも見えなかった。少なくとも、直売所で会う時はいつも、頑張っているというよりはいい具合に力が抜けていて、嫌な顔ひとつ見たことはなかった。
「あのひとが逝ってから、日記を見たの」
「おじさん、日記なんてつけてたんですか!」
「そうよ。だって農業してると、去年はこうだった、一昨年はどうだった、って、色々と比較できる毎年の記録が必要になるでしょう。その記録と一緒に、自分のことなんかもちょこちょこと書き込んでたのよ」
いつも楽しげで、気負ったところを人には見せなくても、おじさんは真面目な農家をしっかりとやっていたんだなあ、とおかあさんの話で当たり前のことに気付かされる。
「その日記にね、疲れた、とか、しんどい、とか、後になればなるほど書いてあってね。私にはそんなこと、ほとんど言わなかったのに。我慢してたんだと思うと、なんで気付いてやれなかったのか、って思っちゃうのよ」
小さなため息がひとつ、こぼれた。
「悔しいよね、こんなに急に逝っちゃうなんて思ってもいなかったんだもん。こんなことになるなら、もっと優しくしてあげとけばよかった、って後悔ばっかり」
いつもと変わらず明るく感じるくらいの口調で話を続けるおかあさんは涙も見せない。でも、ひどく悲しくんでいるのが、こちらの心に直に伝わってくる。
こういう時、どんな言葉をかけても意味がないのは分かっている。それでも、少しでも気休めになれば、と言葉を探して口にする。
「おかあさんはいっつも優しかったですよ。おじさん、おかあさんといつも一緒で、嬉しそうでしたよ。おかあさんがお孫さんのところに行ってる時は、いつ来てもなんだか全然元気なかったんですよ」
「そうかなあ。そうだったならいいんだけど。でも、甘やかすと病気治すのによくないからって、つい、厳しいこと言っちゃってたし。励ますつもりできつくなってた気がするし」
「なんかね、あのひとあんまり急に逝っちゃったもんだから、私、どうしていいのか分かんないのよ。ひとりになっちゃったことが信じられなくて、悲しくて。だから余計なこと考えないように、家でもこっちでも毎日片付けばっかりしてるの」
「今までずーっと忙しく過ごしてきたから、あっちもこっちも物だらけで、片付け甲斐があるったら」
そう言って、おかあさんは作業場の中を見回した。先週よりさらに空いたスペースが目につくようになったのは、お仲間のおじさんの力だけでなくおかあさんの涙の分も合わせてのことだったのか、と一緒に見回して、思った。
「だいたい、なんでこんな急なことになっちゃったんですか?」
病院に入っていれば安心だと言っておかあさんが笑ったあの日の、わずか数日後におじさんが逝ってしまったことを考えると、あまりにやるせなかった。
「あの日だってね、病院に行ってたのよ。面会はできないけど、スマホで話してて、『もう遅いから、そろそろ帰るね』『うん、気をつけて帰りなよ』って言って切ってから10分かそこらよ?急変した、って看護婦さんから連絡入ったのは」
飛んで戻ったけど、寝てるみたいでね、またあのひとのいたずらかと思ったの。ふざけて私のことからかってるんじゃないかと思ったの。だってあのひと、しょっちゅうそんなことやってたから。
そう言って、おかあさんは口をつぐんだ。
かける言葉はどこにも見つからなかった。
少しだけ黙っていたおかあさんは、再び口を開いた。
「あのひと、すごい寂しがり屋だからね、私、いつも連れて歩いてるのよ。家でも同じように飾ってるんだけど、こっちに来る時も全部、一緒に連れて来るの」
話しながらおかあさんの視線は、おじさんの写真の上に留まっている。おじさんも写真になっておかあさんに微笑み返している。
「この写真は何年前だったかな、長男のところに行った時のなんだけど、今年の夏は次男家族も一緒に皆揃って長男のところに遊びに行こう、って結構前から決めてたの。コロナのせいで行けなくなっちゃったけど、だったら違うところでもいいから皆で会おう、って言ってた矢先だったのに」
「家族旅行の他に、少しずつ時間作っていって、そうしたら何したい?って聞いたことがあるの。あのひと、スポーツカーが欲しい、って言ったのよ。ほら、私たちいつも軽トラでしょ。だから時間ができたら、スポーツカーに乗ってふたりで温泉行きたいんだ、って。何買うかまだ決めてもいないまま逝っちゃって」
淡々と、いつもと変わらない口ぶりで、言葉が続く。相づちも打たず、ただ黙って聞く。そんなことしかできない。
背後で人の気配がした。
振り返ると、作業場の入り口にワイシャツにスラックス姿の男の人たちが3人、伏し目がちに立っていた。
「ああ、✕✕さんたち」
おかあさんが椅子から立ち上がった。つられるように一緒に席を立つ。男性陣が軽く会釈した。
3人は縦に並ぶようにして、おかあさんの近くに歩み寄った。
「この度は……」
「……ありがとうございます」
お決まりの会話を耳にしながら、バッグの中から紙袋を取り出して話の切れ目を待つ。短いやりとりが途切れたところで、
「……おかあさん、これ」
横からすすっと紙袋を手渡した。
「?」
おかあさんが目だけで問いかける。
「最中。10日くらい日持ちするから。お供えに。美味しいよ?」
耳元にこそこそっと早口で説明した。
「ありがと」
「うん。また来ていい?」
「来て、来て。寂しいんだもの。話、聞いてよ」
「いいなら来るよ。また連絡する」
「そうして」
ぱぱっと言葉を交わすと、誰にというでもなく頭を下げて、作業場を出た。外からちらりと振り返った先に、早速写真立てに向かって手を合わせている男性陣の姿があった。
遊歩道に出てから、そういえば、と思い出す。
この前、お仲間のおじさんが言ってたっけ。おじさんの葬儀は家族葬で済ませた、って。
「ほら、△△さんとこの葬式なんてさ、オレたち皆で手伝いに行ったんだけどさ。そりゃあもう、盛大だったワケよ。たくさんの花輪があの広い敷地の入り口に並びきらないくらい届いちゃって。入りきらなかった分は仕方ないから外にまで並べてさ。ああ、”手伝い”って言っても、オレたちは受付やって、金数えるだけ。あとは農協から職員が何人もやってきて、みーんなやってくれるのさ。でも、ああいう葬式は、人が多くてタイヘンなんだよなあ。それと比べるのもなんだけど、アイツのはほんとに家族だけだったから」
お仲間のおじさんはそう言って、ちょっと寂しそうな顔を見せた。
だから、「よかったら飲んでください」とだけ言って、おかあさんとの話の合間に飲もうと思って買ってきたペットボトルのお茶を手渡したんだけど。
家族葬はたしかに、当日、余計な気を遣わなくていい。その分、後からが大変だ。電話に供花、香典などの配達便、弔問客が、アポイントの有無を問わず、全部バラバラにやって来るからだ。特におじさんみたいな農家の人は、地縁が深い分だけ客も多いだろうから、かなりな手間と時間を喰われることは間違いない。
でも、おかあさんにとっては、色んな人が三々五々弔問に訪れる方が気が紛れていいのかもしれない。
だとするなら、たくさんのひとたちが、おかあさんと一緒におじさんの話をしてくれるといいと思う。この、遊歩道の紫陽花の花の数くらい、たくさん、たくさん。
遊歩道に咲く花の色が日々変わっていくように、思い出話も話す相手によって色とりどりに花咲くだろう。
色付き始めた紫陽花の大きなつぼみが、物言いたげに見える。
この遊歩道の愛称は「あじさいロード」と言うのだった。
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