第9話 陳列棚に、キャベツだけ


 約束した明後日はあっという間にやってきた。それなのに、気持ちは「行く」と言った一昨日のままだ。ウソだと言って心が目を背けている。

 そもそもどんな顔をしていけばいいのか分からない。というか、今、どんな顔をしているのだろうか。

 怒っている?それとも半べそかいたような顔?

 鏡を覗く気にもならない。コロナのせいでマスク姿がふつうなのが、今回に限ってはありがたく思えた。


 重い足取りで直売所に入る。作業場の中を覗くと、いるはずのおかあさんの姿はなく、一昨日のお仲間のおじさんだけがいた。

「おかあさんは?」

 すぐに困った顔がこちらを向いた。

「今日は来られないんだってさ」

「ええっ」

 想定外の答えに驚いてしまう。

「それじゃあ、いつ、来るの?」

「うーん」

 お仲間のおじさんは唸ったまま、黙り込んだ。しばらくして、

「週に何度かは来てるんだよ。だけどオレ、あっちの家の電話番号、分かんねえんだ。だからいつ来るかは、今、ここで聞かれても、分かんねえんだよ」

「家の電話番号、分からないの?」

 信じられない答えについ、声が大きくなる。

「だって、オレ、携帯持ってないから、さ……」

 お仲間のおじさんが小柄な身体をさらに小さくして、申し訳なさそうな顔をした。

 ああ、そういえば一昨日、80過ぎ、って言ってたっけ。その年なら携帯を持っていなくてもおかしくはない、のか。それに、その年なら電話番号を暗記していなくても当然、だろう。

 急に、弱い者いじめをしたような気分に襲われてしまって、余計、途方に暮れた。そんな私の様子を見ていたお仲間のおじさんは、作業場の中で所在なさげにうろついた挙げ句、

「探せば電話番号くらい、どこかに見つかるよ」

 と言いながら、ホワイトボードの横に置かれたプラスチック製引き出しを上から順に開け始めた。

 しばらくぼうっとその様子を眺めていたが、

「うーん。たしか何かの書類があったはずなんだけど」

 とか何とか言いながら引き出しの中をかき混ぜているのを見て、ふと

「いいの?そんなとこ開けて」

 気付いて口にした。

 お仲間のおじさんはそれには答えず、背中を丸めたまま「うーん。ないなあ」と紙を取り出しては見ている。止める気にもなれず、かといって一緒に探す気にもなれず、こちらは手持ち無沙汰だ。

 引き出しに何が入っているのか分からないが、紙類はさほど多くはないようだった。お仲間のおじさんは引き出しを順々に開け、雑多な紙の束を丁寧に取り扱いながら目を通していく。意外に細やかな手の動きに目を奪われていると、

「あ、これ」

 ふいにおじさんの手が止まった。

「これ、これ」

 嬉しそうに声を上げる。

「あったよ」

 その声に、思わず横に駆け寄った。手元を覗き込むと、A4の複写式の写しは何かの契約書のようで、一番下に女性の名前と住所、そして携帯の番号が、読みやすい字ではっきりと書かれていた。

「息子の何かの契約、たしかここでしてたんだよ」

 自慢げに説明してくれる。

「ほら、これで電話できるだろ」

「うん。ありがと!」

 お礼もそこそこにすぐにスマホを取り出して、書かれている番号を入力した。初めてかけるのに、何と言って電話するかも考えなかった。ただただ、電話しなければ、と思っていただけだった。


 トゥルルル、トゥルルル……。

 数回のコールで電話が繋がった。

「はい。もしもし?」

 知らない番号が表示されているからか、どこか不審げな、くぐもった声が耳に響いた。でも、それはたしかに、ひと月ぶりに聞くおかあさんの声だった。

 声を聞いてホッとしたのも束の間、そういえば何と言ったらこちらのことを分かってもらえるかと、ようやく頭が回り出して慌てる。

「あの、私、〇〇と言います。いつも週末に、直売所に野菜を買いに来ていた夫婦、なんですが……」

 そこまで言うと、先が続かなくなった。それ以上、説明しようがなかったからだ。一瞬の沈黙の後、

「ああ!分かった。うん。分かってるよ!うんうん」

 おかあさんの声がワントーン上がって、弾んだ。いつものおかあさんらしい口調と声だった。その声を耳にして、ああ、分かってもらえたんだ、と肩の力が抜けた。

「あの、ここで、直売所で、片付けしてるおじさんが、電話番号、調べてくれたんです。どうしてもおかあさんに会いたい、って私が頼んだから」

 まず事情を説明したのは、お仲間のおじさんが万にひとつでも怒られたらと思うと申し訳なかったからだ。

「連絡先も名前も知らなかったんで」

「うんうん」

 電話の向こうで、おかあさんの声がほころんでいる。

「おじさんが亡くなったって聞いて、びっくりして」

「そうなのよ。ほんと突然で、こっちもびっくりだったのよ」

「そうだったんですか」

 話が本題に入ろうとした、その時。おかあさんの背後で突然、インターホンが鳴る音が聞こえた。

 ピンポーン……。ピンポーン……。

「出てください。誰か来たんですよね?」

 とっさに言葉がついて出る。

「いいの?」

「いいです。折り返しかけてくれたら、それで」

「ありがと。じゃ、すぐにかけ直すね」

 そう言って、ブツリと電話が切れた。

 横でお仲間のおじさんが落ち着かない様子でこちらを見ていた。

「宅急便だかなんだか分からないけど、家に誰か来たみたいで。そっちに出てください、って言ったの。かけ直してもらうから大丈夫」

 説明すると、おじさんは顔を緩めて小さく頷いた。

「こういうことがあると、やっぱり色々と人が来たりなんだりで、しばらく落ち着かないよねえ」

 誰に言うともなく口にしながら、番号が書かれた紙を見直した。おじさんの視線もつられるように一緒に紙に向かう。それを見て、気が付いた。

 そうだ。この紙、早くおじさんに戻してもらわないと。

 電話番号が知りたかっただけとは言え、他人の書類を勝手に見ている居心地の悪さをようやく実感する。

 でも、その前に、メモ代わりに写真を撮らせてもらおう。でないと、おかあさんの名前も忘れかねない。

 そう思って、急いでスマホで、名前と住所、電話番号のところだけ写るように撮影した。その様子をお仲間のおじさんが不安げに見つめている。

「ありがとう。これで、もう、大丈夫」

 言葉と一緒に手渡した紙を、おじさんは受け取るなりそそくさと引き出しの中にしまった。


 折り返しの電話が鳴ったのは、それから5分くらい後だっただろうか。

「ごめんね、今からちょっと手が離せなくなっちゃった」

 いつもよりずいぶんと早口だった。

「いいです、いいです。今度いつ直売所に来るか聞きたかっただけなんです」

 その時に話を聞かせてください、と頼むと

「えーっと、来週だと、水曜と金曜に行くつもり」

 と答えが返ってきた。

「それなら水曜に行きます。何時くらいからいますか?」

「10時くらいかなあ。でも、余裕見て、11時くらいがいいかなあ」

「分かりました。じゃ、水曜11時過ぎに」

「はい、じゃ、11時に」

 わざわざありがとうね、とおかあさんが言って、再び電話が切れた。


「ありがとうございました。という訳で、来週の水曜に会う約束ができました」

 電話を終えるやいなや、おじさんに頭を下げた。

「おじさんが番号、探してくれたから。おかげでほんとに助かりました」

 もう一度、頭を下げてから顔を上げると、自慢げにも照れ臭さそうとも取れる、なんとも微妙な顔が目に入った。

 そのへんてこりんな顔のまま、

「そこの机の上。見られると思うからさ。アイツの顔。どうやって見るのかオレには分かんねえけど、そういうの、分かるんだろ?だから、見ていけばいいよ」

 お仲間のおじさんがそっぽを向きかけながら目で指したのは、大きなテーブルの上。いつもおかあさんとおじさんが二人で向き合ってお弁当を食べていたテーブルに、黒くて薄めの長方形が乗っていた。

 形状と話から察するに、パソコンだろう。中におじさんの写真が入っているのに違いない。早速、開けてみようと近付くと……。


 あれ?何、これ??開かない。

 っていうか、そもそもこれ、パソコンじゃないよ。


 えええっ、と言いたくなるのを堪えて、そっと持ち上げてみた。


 と。

 それは、飾り台、だった。

 仏壇の前とか、飾り棚の上とか、まあとにかくそんな感じのところに置かれていて、その上に香炉だの花だの仏像だのいわく有りげな置物だの、そして写真、なんかが置かれるような、そんな、台。

 四隅に脚がついているけれど、とても低いので、飾り縁の下に隠れて見えない。その飾り縁がノートパソコンが閉じられた時の感じにまたよく似ていて、お仲間のおじさんが間違えるのもむべなるかな、といった風情だった。

「おじさん、これ、パソコンじゃなくて、飾り台だよ。多分、この上に写真、立てて飾ってたんじゃないかと思うけど」

 笑いをかみ殺しながら言うと、

「え?そうなの?オレ、その中に写真が入ってて見られるんだとばかり、思ってた」

 きょとんとした顔でお仲間のおじさんがこちらを見た。

 その顔があまりに自然で、うっかり声を出して笑ってしまいそうになった。

 同時に、こんなすっとぼけた彼の側におじさんのあのいつもの笑顔がないことで、当のおじさんがこの場にいないこと、そして二度とこの場に現れないことを、この時ようやく実感したのだった。


 外に出ると、この前は空っぽだった陳列棚の上に、なぜかキャベツだけが3ケースほど並んでいた。

 萎びかけたような、白っぽいキャベツ。曇り色のキャベツ。

 しばらくそのまま眺めていたが、我に返ってその中からひとつ、適当に選んで手にした。

「これ、買うね」

 百円玉一枚取り出して、お仲間のおじさんに手渡す。

「ほいっ」

 おじさんは受け取った百円玉を、事務机の上に置かれた箱の中にそっと入れた。


 おじさんは、このキャベツに少しは手をかけられたのだろうか。

 そんなことをちらっと思いながら手にしたキャベツは、色の割にずしりと重く、エコバッグの底にごろりと収まった。
















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