第5話 春野菜
今年の冬は冗談のようにあっという間に過ぎていった。暖冬のせいだろう、その分、駆け足で春が来たようだ。
春といえば桜。あちこちで例年以上に早くほころび出した。もちろん直売所の桜もご同様。ここの桜は一本立ちの大きなソメイヨシノで、遊歩道に被さるように枝を張り出している。
直売所の入り口は遊歩道側にあるから、野菜を買いに来るとまず桜が目に入る。入り口脇に出された「営業中」の赤い旗の上に柔らかい桜色が広がるようになると、気のせいか直売所を訪れる人も多くなるように見える。
「お願いしまーす」
お金を払うために声をかけると、おかあさんが立ち上がって外の事務机まで出てきた。この季節は来る度に同じ言葉を繰り返して、二人で空を見上げる。
「キレイですねえ」
「ほんと、キレイよねえ」
事務机の前からは直売所の桜がまるごと見渡せる。作業場からは陳列棚側しか見えないから、おかあさんは客が来た時だけ桜を見ていることになる。それとも作業の合間に桜を眺めに外に出たりしているのだろうか。
「暖かくなりましたねえ」
「ほんと。これくらい暖かいとずいぶんラク」
立ち話をするのも寒くて寒くて、という季節は過ぎたのだ。
暖かいと話す口調も会話のペースも自然とのんびりしてくる。ぼうっと桜を見上げたまま言葉が途切れても、居心地は悪くない。代わりにすずめがちゅんちゅんと鳴く声が聞こえた。
「こんなにキレイに咲いてるのに、コロナのせいで今年はなんだかもったいないですねぇ」
「ほんと、ほんと。でも、やっぱり怖いからねえ。息子たちも心配してて、『直売所は休んだら?』って言ってくるのよ」
「おじさんの体調、良くないんですか?」
「そんなことないよ、元気だよ。でも、私たち二人共ハイリスクだし」
そうだった。おかあさんはいつもちゃきちゃきと元気だからうっかりしてしまうけれど、実は難病指定を受けている病気持ちなのだった。その話はずいぶんと前に聞いていた。
それ以前に、そもそも二人は立派な高齢者。それだけで新型コロナのハイリスク枠に入ってしまっている。そういう意味では二人共、Wハイリスク枠。息子さんたちが心配するのは当然過ぎるほど当然だった。
「これ以上様子が悪くなるようなら、少し考えないといけないかもねえ」
事情が分かっているだけに、休まないで、とはさすがに言えない。でも、顔を見られないのもそれはそれで心配になると思う。黙ったまま私は桜を見上げた。
青空を背に、桜は二、三分咲きくらいに見えた。
その日、買ったのは、カブにほうれん草、春菊、菜の花、パクチー。
陳列棚に並べられた野菜にも桜の開花に合わせたように変化が訪れていた。白菜や大根が減り、菜の花やキヌサヤ、パクチーなどが並んでいる。野菜だけとはいえ、なんとなく色味が増えてくる感じだ。もちろん種類も増えている。春野菜の季節になったのだ。
春野菜は他の季節の野菜より、店先に並ぶ期間が短いように思う。うかうかしていて食べそこねたり、もう一度食べたいと思っていてももう終わっていたりしたことが今までに何度もあった。だから美味しそうなのが並んだら、今は迷わずに買う。たとえそれが他所で買ったばかりで家にまだ同じものがあったとしても、だ。
あまり続けて同じ野菜が出てくると家族が嫌な顔をすることもあるが、気が付かないふりをして無視を決め込む。旬のものを食べるのは野菜に限らず美味しい食事の秘訣だと思っている。素材が新鮮で良いものであれば、手をかけなくてもそのままで充分、美味しい。要は、手抜きの秘訣でもあるのだが、それはここだけの秘密。
おじさんは忙しいのか、私たちがいる間には戻ってこなかった。
こんなに色々な春野菜が並んでいるのだから、きっと張り切って働いているに違いあるまい。畑にいる分には新型コロナも関係ないし、暖かくなったことだし、身体を動かすにはいい季節だと思う。
顔を見られないのは残念だけど、おじさんの体のことを思えばたくさんの人と会わない方がいいのは確かだ。
万一この後、直売所を休みにしたって、元気だったら畑には出る。畑に出る時は必ず直売所に立ち寄るから、たまに覗きに来ていれば運が良ければ顔くらいは見られるはずだ。
その時、入り口の柵越しにマスク姿で声をかけて、私たちだと気付いてくれなかったらイヤだなあ、なんてバカなことを思いながら、桜の下をくぐるようにして直売所を出た。桜の枝の上では、すずめが何羽も飛び交っている。日差しも風も穏やかな日だった。
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