Project: ARK -異世界の英雄-

うちやまだあつろう

1

 木の陰に隠れながら、漏れ出る荒い息を噛み殺す。

 左肩に負った傷を手で押さえて止血しようと試みるが、指の隙間から温い血液が落ち葉の上に垂れる。信じられないが、この傷の痛みは本物だ。

 何とか立ち上がろうとするが、失血のせいか上手く力が入らない。こうしている間にも命の雫は止めどなく溢れ出ている。意識も段々と朧げになってきていた。

「なお…や……。」

 少年――入谷彰は力なく呟くと、その場で意識を失った。


◇◇◇


「もうすぐ、一緒に遊べなくなっちゃうね。」

 病室の白いベッドの上で少年がポツリと呟く。透明な管が繋がれた小さな手には、花札が握られていた。

「どうして?」

 ベッドの脇に居た彰が尋ねる。

「だって、僕、もうすぐ死んじゃうんでしょ?」

「何言ってんだ、直哉。入院する前は『すぐに治してくるね!』って張り切ってたじゃないか。」

「でもさ、兄ちゃん。お医者さんの治療すっごい辛いんだ。また手術もしないといけないし。それに、隣の敦郎君もこの前死んじゃったし……。」

 直哉は空になった隣のベッドを見て言った。

 一緒に遊んだおもちゃも、喧しく音を鳴らしていた機械類も無い。そこにもう一人居たはずの少年の痕跡は、もう何も残されていなかった。

「僕も死んだら、敦郎君に会えるかな?」

 そう言う直哉の頭を、彰は軽く叩いた。

「死んだら俺に会えなくなるだろうが。俺だけじゃない。母さんにも、父さんにも、爺ちゃん婆ちゃんにも会えなくなるんだぞ。」

「……うん。」

「直哉はまだ死なない。天国の敦郎君には、あと八十年は待ってもらえ。」

 彰は足元の鞄から、教科書を全て取り出して見せる。

「兄ちゃんは今、こんなに勉強してるんだ。なんでか分かるか?」

「お金稼ぎたいから?」

「いや……、まぁそれもあるが。兄ちゃんは医者を目指してるんだ。来年には、きっと大学生になって、数年後には白衣着てる予定だ。」

 そう言うと、彰は教科書をしまった。

「直哉、兄ちゃんと競争しよう。」

「競争?」

「そう、競争。兄ちゃんが医者になって直哉を治すのが先か、直哉がこの病気をやっつけて元気になるのが先か。」

 直哉の顔には、まだ元気がない。

「よし、負けた方は、勝った人の欲しい物をプレゼントしよう。」

「なんでも?」

「なんでもだ。」

「……ゲームもあり?」

「……母ちゃんには内緒な。」

 それを聞いて、直哉の顔が少し明るくなった。

「それじゃあ、兄ちゃんは早く帰らないとね。」

「なんでだ?」

「早く勉強しないと、負けちゃうよ?」

「それは不味いな。」

 そう言って笑うと、鞄を背負った。ちょうど、一人の看護師が面会終了時間を告げに来る。

 彰は「また明日な」と言って手を振ると、病室を後にした。


◇◇◇


 全身がゴムの塊になったように重い。破けた学生服の左腕には赤黒く固まった血がベットリと付いている。

 どうやら夢ではなかったらしい。

 満月の位置は変わっていない。気を失っていたのは、ほんの十数分くらいだろう。

 木に寄りかかりながら立ち上がると、夜の涼しい風が吹き抜けていった。頭上の木の枝が擦れ合い、ざわざわと不気味な音を立てる。

「奴らは……。」

 彰は木の陰から背後を覗く。しかし、すぐに顔をひっこめた。一瞬だが、確かに見えた。

 犬のような体躯に、異常発達した筋肉。夜の森に浮かびあがる二つの赤い眼の間にそびえる一本の角。

 どう見ても、現実の生き物とは思えない。だが、彰の肩に傷を食らわせたのは、間違いなくあの化け物だ。

 ここに居ては、血の臭いですぐに気づかれてしまう。かといって、不用意に動いてしまったら、音で居場所を勘づかれる。

 どうすれば……。

 彰の額を冷や汗が伝った。その時、目の前の茂みの中で、ぼんやりと二つの光が見えた。


――気付かれた!


 茂みに潜んでいた化け物が吠え出したのと同時に、彰は駆けだした。重たい足を死に物狂いで動かす。

 背後からは、猛烈な勢いで化け犬が迫ってきている。

 ここは何処なのかも、何故ここに居るのかも分からない。ただ、はっきりと分かっているのは、逃げなければ死ぬ、というシンプルな因果関係。

 ただ、ここは視界の悪い森の中。都会育ちの彰の足は、太い木の根に躓いた。

 体が落ち葉の上を転がっていく。

「立てよ、畜生ッ!」

 叫んで立ち上がるが、既に周りを囲まれていた。逃げ場はもう無い。三匹の化け犬たちはジリジリと距離を詰めてくる。

「……死んでたまるか。」

 弟との競争がまだ終わっていない。こんな訳の分からないまま死ぬわけにはいかない。

 目の前の化け犬が一つ吠えた。それを合図に三匹が一斉に襲い掛かってきた。彰は地面を転がり、何とか一撃を躱す。

 だが、向こうは三匹。一撃を躱したところで、すぐに他の一匹が襲い掛かってきた。唾液滴る口が大きく開かれ、鋭利な牙が目の前まで迫る。


 しかし次の瞬間、突然化け犬の体が吹き飛んでいった。他の二匹も同様に吹き飛び、木の幹に叩きつけられる。

「そのまま動くな!」

 彰が声の方を振り返ると、そこには奇妙な道具を抱えた白髪の男が立っていた。何故だか分からないが、ボロボロになった白衣を着ている。

 彼の道具は散弾銃のようだったが、銃口が無かった。代わりに、その長い銃身には見たことの無い文字のような記号が彫られている。

 男は再び立ち上がろうとしている化け犬を見据えると、その銃の引き金を引いた。すると、弾丸が発射される代わりに、銃身になされた彫刻が淡く輝いた。瞬間、奥の化け犬がさらに吹き飛ぶ。

 そうやって何度も吹き飛ばしていると、化け犬たちは諦めたのか走り去っていった。

「…ふう。危なかったな。」

 男は息を吐き出すと、その銃のような物を肩に担いだ。そして、倒れたまま動けずにいる彰に手を差し伸べる。

「立てるか?」

 彰は小さく頷くと、その手を取った。男は満足げに笑うと、彰の体を引き上げる。

「私は少し先で野営をしているんだが、そこまで歩けるか?」

「……なんとか。」

「よし。それじゃ、そこまで行こうか。ゆっくりで良いぞ。」

 男はそう言うと、森の中を歩き出した。アキラもそれに続く。

 人の顔を見て安心したせいか、肩の傷が段々と痛んできた。服は裂け、左半身には血糊がこびり付き、頭も破裂しそうなほど痛い。

 気分としては最悪だったが、その時見上げた星空は、息を呑むほど美しかった。


―――


「て、転移者……?」

「あぁ、そうだ。」

 白衣の男は大きな鞄の中から小さな箱を取り出しながら、淡々と言い放った。二人の間で焚火が赤く燃える。その火の上では、鉄製の鍋でスープがぐつぐつと音を立てていた。

「おそらく、君の恰好から推定するとだな。ここは君の居た世界とは別の世界だと言っても良い。」

「異世界ってこと?」

「まぁ……、そんなところだろう。」

 男は少し首を傾げながらそう言うと、彰の肩の傷を水で洗い流し、箱から取り出した薬を塗り始めた。傷に薬が沁みて、彰は思わず顔をしかめる。

 夢なんじゃないか、とは何度も考えた。しかし、その度に傷の痛みが否応なしに現実であることを訴えてくる。

 ひんやりと湿った地面。疲れた体を暖かく照らす炎。ざわざわと鳴き続ける森の木々。

 そのどれもが、嫌になるほど現実的で、彰のいた都会では、およそ経験することの無いものばかりだった。

「落ち着いたか? 包帯巻くからもう少しこっちに寄りな。」

 その男は包帯を取り出すと、彰の肩に手慣れた様子で巻き始めた。

「そう言えば、名前聞いてなかったな。私はヨハンという流れの医者だ。君は?」

「俺は入谷彰。アキラって呼んでくれれば……って、いででででで! 力入れすぎ!」

「……ん、あぁ。すまん。きつく締めすぎた。」

 ヨハンは少し笑いながら包帯を巻きなおす。

「この世界にはな、君みたいな『転移者』と呼ばれる人間たちが、たまに来ることがあるんだ。」

「俺以外にもいるのか?」

「まぁ、滅多にいないが、いることにはいる。」

 彼の言う事が本当であるのならば、過去にも、彰と同様に異世界転移した人間が居てもおかしくない。しかし、元の世界でそんな話を聞いたことが無かった。

 つまり

「……元の世界に帰る方法って分かる?」

「……残念ながら、君の考えている通り。元の世界に戻ったという転移者の話は聞いたことが無い。誰も帰り方を知らないんだ。」

 その言葉は、彰の胸に重くのしかかった。帰ることができないのだ。もう、あの世界の誰とも会うことはできないのだ。母親も父親も、そして弟とも。

――いや、そう考えるのはまだ早い。

 彰は一瞬頭によぎった絶望を掻き消す。

 帰った者がいないだけで、帰る方法が無いとは言っていない。それに、彰自身がこの世界に来たという事は、逆に帰る方法も必ずあるはずだ。

 彰はここの世界に来るまでの事を思い出そうとした。

 高校が終わって、すぐに直哉のいる病院まで向かった。面会終了の時刻まで二人で色々と話した。そして、病院を出て、星の見えない夜空を見ながら駅まで―――。


「――ッつぅ!」

 その瞬間、彰の頭に強烈な痛みが走った。まるで、頭蓋骨の中に無理やり物を詰め込まれているような。

 しかし、その頭痛も一瞬だった。

「大丈夫か!」

「……大丈夫。……思い出そうとしたんだ。思い出せなかったけど。」

「君もか……。」

 ヨハンは彰に水を差し出しながら呟いた。

「『君も』って?」

「いや、転移者は皆、転移した時点の事を思い出そうとすると、激しい頭痛に襲われるらしいんだ。」

「そうなんだ……。」

 転移時の記憶が、一番大きな手掛かりになり得たのだが、どうやらそうもいかないらしい。異世界転移の後遺症のようなものだろうか。だとしても、まるで誰かが意図的に隠しているようにも思えてしまう。

「このまま異世界に一人で暮らすというのも辛いだろう。明日、私はこの先にある中央都という街に向けて旅立つんだが、君はどうする?」

 ヨハンの言うように、未知の異世界で一人暮らしていくというのは、不可能ではないだろうが難しい。先ほどのように、この世界では良く分からない化け物に襲われることもあるのだ。ろくな戦闘術もサバイバル知識も持たない彰は、一日もせずに死んでしまうだろう。

 信用する、しないに関わらず、このヨハンという男に付いて行かない限りは、彰に明日は無い。

「ヨハンさんが良ければ、俺も同行して良いかな?」

「もちろん良いとも。さぁ、飯にしよう。いつの時代でも腹は減るからな。」

 ヨハンは笑いながらそう言うと、大きな鞄から木の器を二つ取り出してスープを盛った。

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