翁の釣り

潮風は今日も

僕の背中で

囁いている


大空は今日も

海の彼方で

雲達と

戯れている


釣り師は今日も

波打ち際の

岸壁で

孤独と共に

戦っている


何を釣るかは

分からない

それでも彼は

皺の犇く

身と共に

白髪の混じる

毛と共に

歴史を語る

火傷と共に

自らが欲するものを

自らの手へと導くべく

あの日

あの時

燃え尽きた

歴史の影に

竿を振る


六十年を経てもなお

核の支配は尽きもせず

自由を語り

妄想を告げ

その身を滅ぼす

兵器を腕に

人類皆が

この狂わしい

この小賢しい

兵器の下に

隷従し

隷属し

溢れんばかりの憎しみを

大地に広げる


釣り糸の先に

静かに浮かぶ

人の営み

歴史の悲しみ


その中を

釣り師は今日も

竿を振り

糸を垂らす


あの日に消えた

一つの町は

多くの人の

多くの木々の

多くの獣の屍を越え

今や

空では鳩が飛んでゆき

大地の柿は生き生きと

モグラやミミズの耕した

地中深くに根を伸ばす

命の源

海の中には

元気な魚が遊泳し

町の中では子供らが

父の

母の

祖父の

祖母の

長崎中の命を背負い

不死鳥のごとく

鮮やかに

息を返した故郷に

新たな時を

深々と刻む


釣り師の糸は

今もなお

歴史の残した

爪痕を

孤独の中で見つめながらも

新たな船出を

新たな世界を

新たな歴史を

釣り師に与える


今始まった

還暦を経て

市民の祈りと共に

我等が歩む

平和の道の創造が

釣り師が海から

僕の胸から

皆の胸から

釣り上げて

この長崎から

始まる

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