掛け違い

Kirie Minato

第1話

       *** 2020年7月4日8時50分 ***


「あの、お兄さん。高梨医院はどこにあるか教えてくれんかねぇ」

遠藤健一は、家から最寄り駅に向かうために歩き始めて数分、住宅街の一角の道の途中で、見るからに足の悪そうなおばあさんにそう呼び止められた。

遠藤は今日の10時から商談があり、取引先に直接向かう予定だったので、かなり時間に余裕を持って家を出たのだった。高梨医院であれば、最寄り駅に向かう途中に見えるし、おばあさんの歩く速さを考えても10分もあれば着けるだろう。

「高梨医院でしたらここからすぐなので一緒にご案内しますよ」

「あら、ほんとう。優しいのねえ。では、お言葉に甘えて。おほほ」

 遠藤は、こっちですよ、と指をさし、おばあさんと一緒に歩きだした。渡辺の身長は180cmを超えており、かなり小柄なおばあさんと一緒に歩いていると、まるで年齢が逆転した親子のようだった。

 「ほんと、私なんかのためにごめんなさいね」

 「いえいえ、仕事に行くついでですから全然問題ないですよ。お持ちになっている荷物、お持ちしますよ」

 「ええ、気を使ってくれてありがとうねえ。よくできたお方だわ」


 遠藤は本当によくできたお方だった。20代後半で彼が務めている大手企業の営業部のチームリーダ―を任された。そこでの活躍が評価され、31歳の今ではマネージャーに抜擢されていた。数年後には事業部長への昇格も目算されている。また、後輩への面倒見もよく、男女問わず多くの社員から慕われており、社内の一部では、面倒見の良い「面倒さん」とも呼ばれている。褒めているのか貶しているのかよくわからない呼び名だ。


「なんでそんな優しくしてくれるのかしら」

 隣を歩いているおばあさんが、病院までの道のりをつなぐためか、そう尋ねた。

 「んー、そうですね、強いて言うなら僕がおばあちゃんっ子だったからですかね。母が昔からあまり体が良くなくて、ずっと入院をしていたんです。なので、父が働いている平日は母方の祖母がずっと面倒を見てくれていたんです。よくいろんなものを買ってもらっていたし、よく外にも連れて行ってくれたんですよ。あとは、祖母に褒めてもらいたいがために必死に勉強も頑張りましたね。今の僕があるのは祖母のおかげといってもいいくらいですよ」遠藤は、過去の懐かしい思い出を引き出すように会話を始めた。


 そうやって昔の話をしながら歩いているうちに、目の前に歩道橋が見え、目の前に大通りが広がった。遠藤はいつも、この歩道橋を渡り、左へ真っすぐ進んだすぐ右手側にある駅を利用している。高梨医院もその駅のすぐ左のビルの2階にある。

「おばあさん、高梨医院はあそこのビルにあるんですが、この歩道橋を渡るのは大変ですから、右の方に見えるあの横断歩道を渡って行きましょう」

「そうねえ、この歩道橋は老体にはきついわ。遠藤さんだっけ、ありがとう。もうここまでで大丈夫よ」

「いえいえ、ここまできたら最後までご一緒しますよ。距離もそこまで離れていないので、あまり時間はかからないと思うので」

「そうかしら。あなたほんとうに面倒見がいいわね。面倒見がいいから面倒さんって呼びたくなっちゃうわ。あ、それだと貶しているみたいだわね。おほほほほ。じゃあ遠藤さん、最後までよろしくねえ」

「もちろんです。もう一息ですよ、頑張りましょう」

 そういって横断歩道の方に向けて2人は歩き出した。


*** 2020年7月4日8時52分 ***


「人生詰んだわ」

 木下康介は空を見上げ、うなだれていた。肩から伸びている二本の腕は、もう成長する気のなくなった木の枝のように垂れ下がっていた。その左の枝の下には、すでに用がなくなった枯葉のように、ひびの入ったスマートフォンが落ちていた。やけに肩から下げたカバンが重く感じていた。


「あ、木下、もう今日から会社来なくていいから」

まさに会社に向かうため、最寄りの地下鉄の入り口に入ろうとしていたところでポケットに入れていたスマートフォンに着信音が鳴った。加藤部長からの電話はわずか5秒だった。「なんでですか」と言おうとしたが、「なん」と言ったところでちょうど切れてしまった。「なん」すらも聞こえていたかもわからない。これではカレーにつけるものがなくなってしまうではないか。そんな冗談も考える余裕もなく、木下の人生は詰んでしまった。そして成長の止まった木と化してしまった。通り過ぎる人たちは、見てはいけないとわかっていても、ちらちらとその木を見ながら歩いていた。


 大方の予想はついていた。高校を卒業すると同時に実家を飛び出し、就職した中堅企業に勤めて13年。一向に成果が出せず、万年平社員をやっていた。いや、正しくは、成果が出せたとしても大学を出ていない彼に昇進などあってないようなものだった。会社の上司や、取引先のクライアントから怒られる毎日で、会社に通うのが苦痛となっていた。もはや給料をもらうために怒られているような毎日だった。

入社当初も特段やりたいことがあったわけでもなく、早く家を出たい一心で転がり込んだのであって、モチベーションなどあるわけがなかった。ただ生きていくために、淡々と仕事をこなしていたわけだ。


木下はようやく意識を取り戻し、スマートフォンをポケットにしまった。ついでに、そばに落ちている大きめの枯葉を蹴飛ばした。つもりだったが、宙を舞ったのは木下の足だけだった。

(くそ、なんで俺ばっかりこんな目に合うんだ。あの同期の田中だって仕事を俺に押し付けて楽してるし、桃山だって上司に色目を使っているだけじゃないか。ちゃんとやっている俺だけがなんで辞めさせられなければいけないんだ。これからどうしろっていうんだよ。)

果たして、木下にはこれからの見通しは全くつかなかった。今更冷え切った実家に戻ることもできないし(したくない)、懇意にしている友達も、長い間恋人もいない。かといって、また新たな地で仕事を始める気力もなく、働くのも疲れてしまっていた。

(もういいか・・・)

 木下は、何か得体の知れないものを引きずっているかのような足取りで、相変わらず2本の枝は機能停止したままカバンを肩からぶら下げ、すぐ近くに見える横断歩道に向けて歩き出した。



*** 2020年7月4日8時59分 ***


 遠藤と足の悪いおばあさんは、ようやく横断歩道にたどり着いた。目の前に見える信号は停止を示していた。青に切り替わるにはだいたい1分くらいかかる。この通りは左右2車線が走っており、左右の車線を隔てる仕切りは特に敷かれていなかった。遠藤はおばあさんを車が走ってくる反対側、つまり自分の左側に立たせた。信号を待っているのは遠藤達2人だけだった。遠藤はふと昔のことを思い出し、おばあさんに問いかけていた。

「おばあさん、ずっと昔に喧嘩した人と仲直りする方法って何かありますかね」

「そうねえ。どんな喧嘩をしたのかしら」

「なんか、相手の言ったことが気に障っちゃって、一方的に怒っちゃったんですよね。それをきっかけに疎遠になっちゃったんです。あのあとちゃんと話をすればよかったんですけど、なかなかできなくて、それっきりです」

「なるほどねえ、でもあなた、自分が一方的だったってことに気づいてるじゃない。喧嘩っていうのはお互いの考えのすれ違いで起こるもんだからねえ。あとは連絡する勇気があれば大丈夫だと思うわ」

 遠藤はその言葉を聞き、今日の商談が終わったら連絡してみようと考えていた。しかし、遠藤が連絡をするために彼の名前を再び思い出す時が来ることは二度と訪れなかった。そして、それは一瞬だった。遠藤は、目の前から巨体がゆっくりと、いや正確にはゆっくりと向かって来ているように感じていた。遠藤は無意識におばあさんを左の方へと突き飛ばしていた。そして、遠藤は視界がその巨体で覆いかぶさる前に、一瞬だけ、視界の右端に横断歩道の上で立ち尽くす、数秒前に思い出していたあの瞳と目が合った気がした。


 

(同時刻)


 木下は横断歩道の前に立ち止まった。木下の後ろには、真夏日にもかかわらず真っ黒のスーツを着て滝のように汗を流しているサラリーマンと、授業に間に合う気のないアロハシャツの大学生が、この横断歩道を渡るために立っていた。本来ならば、真っ黒なスーツを纏ったサラリーマンに対して、アロハを見習ったらどうですか、ここは30年前じゃありませんよ、と心の中で突っ込んでいたところだったが、木下にはもはやどうでもよかった。

右の方を見やると、奥の方から大きなトラックがやってきた。木下の心はすでに決まっていた。できるなら盛大に吹っ飛ばしてもらいたい。そうすれば間違いなく意識も一瞬で吹っ飛ぶし、あのトラックへの罪悪感も吹っ飛ぶだろうと考えた。そのとき、ふと彼の頭に父親の顔が泡のように浮かんだ。父親はいつもイマジン、イマジンと言っていた。

(結局轢かれようとするこの行為は、あいつとやってることは同じなんじゃないだろうか。俺が死んだらトラックの人のように迷惑する人がいるんじゃないだろうか)

しかし、飲んだくれの暴力漢で、妻子を置いて出て行った暇人の言うことなど説得力もなく、すぐに泡はもとから存在していなかったかのように消えていた。ましてや、赤の他人への迷惑など、木下にイマジンする余裕などなかった。


そして、木下はトラックが停止線に近づいてきたところで意を決し、縞状の打席に踏み込んだ。しかし、飛び出すのが“早すぎた”。いや、正確にはトラックの運転手の反応が“良すぎた”。トラックは、木下にぶつかるかぶつからないか、すんでのところで右に切り返したのだ。そう、左ではなく、右方向に。運よく左の追い越し車線の方から車は来ていなかったが、横断歩道の向こう側、つまり木下や真っ黒なサラリーマンやアロハのいる反対側の車線から青色のワゴン車が走って来ていた。あろうことか、青色のワゴン車はトラックが右に切り返したのを見て、右に切り返していた。そのため、トラックは左に曲がれず、歩行者のいる歩道へ突っ込んでいった。

木下がトラックが切り返した方に視線を向けたとき、2人の人がいるのが見えた。1人の男性は、もう一人の見るからに足の悪そうな老人を突き飛ばしていた。そして、トラックがいよいよ男性に突っ込むとなったとき、その男性と目が合った気がした。木下は背筋の体温が一気に下がり、脳が痺れるのを感じていた。ワゴン車は木下のすぐ近くで止まったのだった。


      

*** 1999年 ***


 木下が物心つく頃から、父親は重度のアルコール依存症であった。「イマジンだよ、イマジン。なんで俺に殴られるのかイマジンしようぜ」と言い、毎晩片手に酒瓶を持ちながら母親を殴っていた。木下は、イマジンする容量など1㎤もない脳みそでよく言うなと、小学校で覚えたばかりの単位を使い、子どもながらに自分の部屋で思っていた。

そして両親は、彼が10歳になったころ離婚した。その頃、母親はすでに我が子への関心などとうに失っていた。代わる代わる知らない男の人が家に上がり込んできて、夜な夜な嬌声が漏れる音が部屋まで聞こえてくることもあったため、木下は眠れない夜も多かった。

 彼は、学校でも上手くいっていなかった。友人もほとんどおらず、度々上履きや筆箱を隠されたり、悪口を言われたりしていた。暴力を振るわれていた母親に重ねて、なぜこのような扱いを受けるのかイマジンしてみたが、どうやら自分の脳みそも1㎤もないことに少しショックを受けていた。


 遠藤健一と初めて会ったのは高校の時だった。木下は、母親との関係はとうの昔に冷め切っており、高校へ進学する資金を出してもらうことさえ叶わなかった。ただ、さすがに高校には行かないとお先真っ暗だと思い、バイトを掛け持ちしながら、なんとか地元の高校に通うことができていた。しかし、木下は、相変わらず高校でも友達ができずに一人でいた。遠藤は、そんな一人たたずんで座っている木下のところへ声をかけてきたのだった。それから彼らは毎日のように一緒に過ごすようになった。

「てか、なんでお前俺なんかに声をかけたんだよ」木下は、ふと思った疑問を遠藤にぶつけたことがある。

「なんか一人でいる人見るとほっとけないんだよね。老婆心ってやつかな」

「ばばあかよ。いや、男だからじじいか。となると、老婆心ってより老じ心か?」

「それを言うなら老爺心だろ。まあそんな言葉ないんだけどな」

「そうなのか。男女不平等反対だわ。でもまあ、ないなら作っちゃえばいい。イマジンだよ、イマジン」

「何そのイマジンってやつ、流行ってんの?」

「俺の中では毎年流行語大賞だ」

「なんだそれ。でも、なんか、康介って昔の俺と重なるんだよね。だから放っておけなかったのはほんとだよ」

 

 実際、遠藤はとてもいいやつだった。だからこそみんなから頼られ、人気もあったし、頭もよかった。なにかと気にかけてくれたし、木下も遠藤といる時は居心地が良かった。一日中学校が続いてくれとさえ思っていた。このまま大人になっても語り合い、酒を飲む日が来るんだろうなと信じて疑わなかった。

 


*** 2006年12月12日 ***


しかし、そんな関係も、あるときを境に幕を閉じることとなる。

2人が高校2年生を半分すぎ、ちょうど関係が1年半続いた頃だった。その日は高校の修学旅行で沖縄へ向かう日であった。木下は、昔の自分であれば想像がつかなかったが、遠藤がいるからこそ、とてもこの日を楽しみにしていた。そんな浮かれ気分で、集合場所に向かうために電車に乗っていた木下のもとに、遠藤から一本のメールが届いた。「悪い、おばあちゃんが倒れちゃって、修学旅行行けなくなったわ。」メールには短い文章でそう書かれてあった。木下は、その内容を見て激しく動揺し、電車の中であったがすぐに電話をかけた。すると2回のコールでつながった。

「おい、健一、どういうことだよ。」

「どうもこうも、メールに書いてあった通りだ。悪いが俺の分まで楽しんできてくれ。」

木下は、遠藤のそのやけに冷めた態度に憤った。

「ふざけんなよ、こっちはこの日をどんだけ楽しみにしてたと思ってんだよ。最終日の夜は海で語り合うって決めてただろ。そんな老いぼれのことなんて誰かに任せてこっちへ来いよ。」

 そう口走った後、3秒間の沈黙の時間が続いた。再び静寂を破ったのは、今までに聞いたことがないくらい低く、しかしやけに熱を帯びた遠藤の声だった。

「、、、おい、“木下”。お前、今の言葉は許せねえわ。お前がそんなこと言うやつなんて、絶望したよ。もうお前とは話したくないわ。じゃあな。」

 通話は一方的に切れていた。木下は何が彼を怒らせたのかわからなかった。

「ふざけんなよ、こっちだって約束破るやつとはもう話したくもねえよ。」

木下は、周りの視線が自分に刺さっているのを感じてはいたが、電車のドアの前に立ち、いらだちを隠さず周りの乗客をにらみ返していた。


それ以来、木下は遠藤と口をきくことはなかったし、遠藤も彼に話しかけることはなかった。卒業後も二度と会うことはなかった。



          ***2020年7月4日9時02分***


 木下は、未だ背筋の震えと脳の痺れが収まらない中、無理やり引き出しにしまってあった過去が、一気に容量の少ない頭の中に溢れかえっていたのを感じていた。

(健一、、、だったのか、、、。)

木下の眼前には、目を覆いたくなるような悲惨な光景が広がっていた。彼を避けたトラックは歩道を突っ切り、フェンスを変形させていた。何より現実味をなくしていたのは、四方に散らばる赤い絵の具のような液体で、今まさに芸術家が別の色を加えようとするのではないかと錯覚するほどであった。そして、トラックの右手側に、支えを失ったおばあさんと、5m左手に横たわるかつての友人がいた。その友人はピクリとも動かず、顔は地面の方を向き、2本の腕はだらしなく伸びきっていた。

 しかし、木下にはかつての友人だった“もの”に駆け寄る気力は残されていなかった。また、アフロの騒ぎ声や黒いスーツの営業マンの奇声とも取れない声など、木下の耳はあらゆる喧騒を遮断し、静謐をさえ生み出していた。


「ちょっとあんた何ぼーっとしてんのよ!あんた自分が何をやったかわかってんの?こんな朝っぱらから騒ぎを起こして。死にたいなら勝手にすればいいけどね、周りの人への迷惑も想像しなさいよ!あんたを轢いちゃったら私が捕まっちゃうじゃないの。あんたの脳みそは空っぽね。そして、あんたの人生もこれでおしまいね。あ、もうすでに終わっていたんだったわ」

 青のワゴン車から出てきた中年のおばさんの声によって木下は喧騒を取り戻した。どうやら自分の脳の容量は0㎤だったらしい。そして、木下は、自分の父親と同じことを自分がしていることに気づいてしまった。あたり構わず暴言を吐き散らし、母親を殴っていたあの父親と自分が重なってしまったのだった。

 彼は、父親が連呼していたかつての流行語が頭に流れ、健一と別れるきっかけになったあの出来事のことをイマジンしてみた。もしかしたら、遠藤には、自分が祖母を助けなければいけない理由があったのではないか。もし理由があったとしたら、俺は一方的に自分の気持ちを押し付けていたのではないか。

(健一、ごめんな。あのときお前の気持ちに気づくことができなくて。お前は祖母のことが大事だったんだろう。現に今も見知らぬおばあさんを助けているし。あのとき俺は健一のことをちゃんと知ろうとしなかった。お前といることが居心地が良かったからその距離感を崩したくなかったんだろうな。俺はほんとに馬鹿だよ。今更になって健一を傷つけていたことに、失ってからようやく気付くことができたんだから。もし自分にもっと想像力があれば、健一を死なせることもなかったんだろうな)

非常事態を知らせる甲高い音が一定の間隔で近づいてくる中、木下は空を見上げ、熱い水滴が自分の頬をこぼれるのを感じていた。その肩から伸びている2本の腕の先の拳は、つぼみのように固く結ばれていた。

                                

                                    終


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