春に咲く花

 峠に入った孝子は正に水を得た魚だ。

 これが初めて乗った大型バイクで走る峠の攻め方なのか? 私の初陣は散々なものだったが、孝子にはそういう空気が纏わりついていない。


 春先、バイクを走らせていると路肩から舞い上がり私たちライダーを幻想的な世界へと誘う桜の花びらのように、孝子の身体がヒラヒラと900SSの上で舞っている。走り抜ける私に、決して触れることなく寸前でひらりとかわし風に溶け込んでいく、そんな桃色の花びら。

 後ろを走っていると全く本気を出しているように感じさせず、手が届きそうで届かない、捕らえようと追いかけると追いつけない、力も気合いも全く入っていない乗り方。三味線を弾くという言葉がまさにぴったり。こちらがアクセルを目一杯開けてもするりと躱されるような感覚。全く飛ばしているように見えないのだ。

 短めの直線で少し無理して回転を引っ張り、やや遅めにブレーキをかける。重い車体を上半身で何とかねじ伏せ、立ち上がりで中間域を使ってパワーをかけ車体を起こしていく。突っ込みで少しだけ差が埋まったが、次のコーナーまでにまた元通り、いや徐々に離される。ふと、本当にふと視線をスピードメーターに落とすと明らかにオーバースピードだった。気持ちが、孝子の世界から一気に私の世界に引き戻された。怖い。


 去年の転倒以降、無理追いをして攻めるほどのシャカリキをなくしてしまったようだ。アクセルを緩め、自分ペースのライディングに戻す。乗れているとか乗れていないとか、そういう話ではない。私と孝子の感じる速度域が、決定的に違うと改めて実感しただけのこと。私には追いつけない、悔しさとかそういう感情が生まれてこない潔い気持ちが胸一杯に広がっていた。


 もう少しでUターンスポット、と思っていたら上ってくる孝子とすれ違う。

「もう来たのっ?」すれ違いざま頭だけ孝子の方を追い、聞こえないとわかっていながらもメットの中で声に出す。

 何故だろう、孝子だけはバイクの神様か道の神様に祝福されてるんだろうと信じていた。だけど、やはり私は又あの音を聞いてしまう。バイクとアスファルトの奏でる騒音。

「ガーーッ、ガッガッ、ドッ」


 数コーナー先の方だろうか、ものすごいクラッシュ音、間違いなく孝子だ。Uターン中でなかったら私も何かしらの転倒に繋がったと思う程、音が聞こえたその一瞬は身体がビクンと硬直した。

 何も考えないようにして、フラットな気持ちのまま数コーナーをこなしていく。いた! 孝子だ。反対車線の側溝に数分前まで900SSだった鉄塊がある。その先に孝子が仰向けに倒れている。ピクリとも動いていない。

 ひらりと逃げていった筈の桜の花びらが数日後にバイクのカウリングに貼り付いているのを洗車なんかの時に見つけることがある、そんな花びらを彷彿させた。


 一つコーナーをやり過ごしてUターンし、走ってくる車両が立ち上がりで気づけるようにウインカーを出しっぱなしにしてイン側にGPZを止める。どちらかというと旧車に近いGPZだけど、バッテリーが上がるとかの心配をしている場合ではない。

 一速に入れたままバイクを降り孝子の方に近付いている時は、正直ダメかなと思っていた。頭を揺らさないようにそっとシールドを開けてみる。止まってはいるが鼻血が出た痕がある。色白で日本人離れしたやや彫りの深い奇麗な顔と流れたばかりの鮮血の美しいコントラストに見とれていると、閉じられていた瞼が急に開いた。

「ひっ」と声を漏らして腰砕けになり、失敗したジェンガのように一気にへたり込んだ。


「あー、転けた。……生きてるよ?」と孝子。

 安堵と共に涙が、驚いた瞬間にちょびっとだけおしっこが、どちらも知らず知らずのうちに出ていた。

 ほんの数秒であろう沈黙の後、ゆっくりと孝子が上半身を起こす。まだ立ち上がれないようだ。両手をグッパ、グッパしたあとにグローブを外し、顎紐を解いてヘルメットを脱いだ。いつもはヘルメットを脱いだらすぐに大型犬が濡れた毛の水を払うようなしぐさで頭を振る孝子が頭を振らない。茶色がかったソバージュヘアーに陽が当りこちらからは金髪に見えた。

「あー、転けた」と孝子。

「さっき聞いたよ」と私。


 どのくらい後に孝子が話し始めたのかは思い出せない。彼女の話だと、急にフロントの接地感がなくなり、どう対処しようかとか考える間もなく反対車線まで一気に滑っていき両輪が側溝に嵌ったままレールの上を走るミニカーみたいにさらに走って(?)いき、側溝に蓋がある所でフロントを支点に大ジャックナイフ。孝子は背中から地面に叩きつけられたらしい。受け身も何もとれたもんじゃなかったと言っていたけど、そもそも私たちは柔道もなにも習ってないんだから当然だ。脊椎パッド(彼女曰くの甲羅)を背負っていなかったら流石にダメだったろう。

 それにしても、受け身を取れたかどうかなんて価値観が孝子にあるとは。男子みたいなことを言うのが可笑しくて少し頬が緩む。

 話をしている内に気持ちが落ち着いてきた。いつもより口数が多かった孝子も、少しずついつもの口数に戻ってきた。とりあえず宗則に電話をしてレンタカーでラダーと一緒にピックアップしに来てとお願いをした。女子二人でなんとかできるような事故ではない。車載工具を出し、念のためガソリンタンクを外しながら宗則を待つことにした。

 ピックアップを待つ間、始終女子的トークは何もなく延々バイクの話だった。アプリリアが2ストの価格高騰で購入時の知り合い価格より高く売れてだいぶ型落ちだが900SSが買えたこと、アプリリアもやはり最初の峠で実は転けたこと等々。


 数時間してお互い話し疲れ黙ってタバコをふかしていると、どこからともなくラジオの音が聞こえてきた。黒く塗りつぶせとが鳴り立てているロックはローリングストーンズのナンバーだろうか? バイクサークルに代々引き継がれているラダーと呼ばれる建築足場とともに宗則が軽トラでやってきた。助手席にはヒロシの姿も見える。確かに、私たちのサポートだけでは荷台に乗せるのは困難。

 900SSのオブジェを見て「これ、ラダー役に立つ?」と呆れた様子の宗則の一言とともにみんなで孝子と900SSを交互に見た。暫くの沈黙の後、私が「あっ」と言ってしまう。今度はみんなの視線が鉄塊から私に集まる。


「もしかして、アタシのGPZの初タンデムって彼氏とかじゃなくって孝子になる流れ?」

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